ZENSHIN 2000/12/25(No1987 p06)

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週刊『前進』(1987号4面1)

革共同への反革命的敵対行動を売り物にする白井朗を粉砕せよ 下
 白井『二〇世紀の民族と革命』の反革命的本質
 島村伸二

 第3章 レーニン主義世界革命論に対する憎悪込めた否定

 (4)スルタンガリエフ批判=レーニンの一国社会主義論への転落というウソ

 第三に、「ウクライナ民族の自決問題」や「グルジア問題」についての白井の歴史的総括も、以上のような゛帝国主義論確立以降ですらレーニンには問題があったのだ゜ということを「立証」する悪質な政治的意図をもって書かれているのだから、どれほど歴史的事実を並べても、一片の客観性もないのである。
 何よりもここには、ロシア革命という偉大な闘いがもたらした革命的激動、さらに、国際帝国主義の白色テロル的介入による巨大な内戦下の動・反動の激突と、それゆえに発生する様々な矛盾・軋轢(あつれき)・大混乱に対する白井の根本的姿勢の問題性が露骨に表れている。白井は、共産主義者として、そのロシア革命の苦闘の真っ只中に自らを投入して、力量の小さなボルシェビキを措定して考え抜くことをまったくしていない。特に、「ボルシェビキ」という用語をここまで外在的に、なんの苦渋もなく、平然と、ただ批判の対象としてのみ語っていることは、白井がいったいどこに立ってものを言っているのかを鋭く表現している。
 これが一介の学者の研究であるならば、一定の限定の上で読むことも可能である。だが、白井の場合には、そうはいかない。ボルシェビキ(つまり革命的共産主義者)の苦闘にリアルに身を置いて総括しないとしたら、それはそこからの離脱しか意味しておらず、我慢ならない問題なのだ。
 日本のわれわれの「小さな闘い」の経験ですら、力関係のギャップが起こす矛盾や混乱は数多い。革命運動とはもともとそういうものだ。未熟であればあるほど、敵はそこを突いて攻撃してくる。激突・激動の中で党の未熟さなど、これでもかこれでもかと、徹底的に試練にさらされるのだ。しかし階級闘争は、そこで未熟であったり、矛盾が激化したり、混乱を起こすから問題があるのではなく、それを主体的にどのように総括して前進していくのかこそが問題なのだ。そういう問題がロシア革命の只中で、はるかに巨大な規模で起こったのだ。鋭い感性で自らをボルシェビキ的主体として措定しない総括など、あっという間に吹っ飛び、反革命の餌食(えじき)にされるだけだ。
 実際白井は、ただ反革命の餌食にされただけではなく、今や居直ってそれを「理論化」することによって、自ら反革命へと転落したのだ。
 われわれは、白井が書いているように、ここでボルシェビキ自身が大ロシア主義思想に染まっているがゆえの混乱を、いくつも見いだすことになる。それはそれで厳しく教訓化すべき重要な死活的テーマである。しかし、ロシア革命と革命後の国際的内戦の過程を、ただこの一点で全面的に否定的総括をすることなど、断じてできない。いわゆる「七・七問題」は階級性にかかわる重要な問題の一つではあるが、階級性のすべてではない。労働者自己解放理論に基づく共産主義思想の土台の上に、帝国主義段階の民族問題がつきつける「抑圧民族と被抑圧民族の区別」とそれに基づく〈血債の思想〉が、戦略的大きさをもつものとして位置づけられることが必要なのだ。ところが白井の歴史叙述は、マルクス主義の思想、帝国主義論の確立の決定的意義を太い軸にして総括するのではなく、その否定のために総括されているのである。
 ここでは、スルタンガリエフ問題も、白井はこの総括の方法という次元で根本的に駄目であるということ、根本的姿勢に致命的な問題があるのだということを確認しておくにとどめる。それは、「スルタンガリエフの提起したアジア革命のロシア人ボリシェビキによる事実上の否定は、一国社会主義論の容認、プロレタリア世界革命の否定であり、労働者国家変質のメルクマールだという見解を本書で提出する」(一二一ページ)という文言に明白である。つまりボルシェビキは、レーニンの時代からスターリン主義に転落していたという見解である。
 あるいは、ロシア革命とレーニン・ボルシェビキの政策(民族自決宣言など)こそが、巨大な規模でアジア・アフリカの民族運動を爆発させていったことを無視して、革命前の「レーニンの頭脳にはアジア、アラブ諸民族はまだしかるべき位置をしめてはいない」などと言い、レーニンの「みとおし」のなさ、「鈍感」などと平然と語っていることにも明らかである。
 その上でコミンテルン第二回大会の「民族・植民地問題のテーゼ」に対して、白井が「帝国主義の時代総体を通じて生命力をもつテーゼとして扱うのは論外である」(二三二ページ)などとたわごとを言っているので、一言しておきたい。【この文言は、白井が革共同の「民族解放・革命戦争論」の形成にいかに非主体的であったかを示すものである。故本多同志や清水同志を先頭とする当時の革共同の指導的同志たちにとって、中国革命・ベトナム解放戦争の経験は決定的であり、この「民族・植民地問題のテーゼ」を重要な理論的手がかりにして、初めて革共同の「民族解放・革命戦争論」は形成されたのである。】
 まず、レーニンとローイの論争において、レーニンもローイも従属国での革命運動と先進国革命とが、世界革命の成功、共産主義の樹立に向かって結合されなければならないという点では完全に一致していたこと、その上で、後進国・従属国における、現実に民族ブルジョアジーが主導する民族解放運動に対してどういう態度をとるべきかということと、ひいては民族解放と民主主義の課題に対する後進国・従属国の革命運動の方針が問題となったことを押さえておかなければならない。
 この論争を経てレーニンは、世界革命と共産主義に向かって従属国のプロレタリア・農民の革命運動の意義でローイと一致しつつ、ローイの先進国プロレタリアートへの不信を示す表現には反対し削除している。同様に、ローイによって繰り返し出される植民地革命が世界革命の帰趨(きすう)を決するかのような表明も削除している。
 しかしさらに重要なことは、ローイが、従属国の革命運動における民族解放の課題をブルジョア民主主義的課題として否定的に評価するのに対して、レーニンは、ブルジョア民主主義的課題であっても民族解放の課題を過小評価することなく革命的な農民・労働者の課題とすべきだと強調したことである。
 白井は、ローイのこの過小評価が、自己の見解と異なるのだから詳しくあげて検討しなければならないはずである。ところが白井は、それを隠蔽(いんぺい)しているのである。そして「帝国主義を打倒するプロレタリアートに依拠した民族解放革命を主張したローイ」「ローイの指摘するとおり労働者・農民の利益にふまえた民族独立運動は当然共産主義者の肩に背負われる」(二三三〜二三五ページ)などと言っているが、まったくのペテンである。
 あえて言えば、この論点こそレーニンの論点であり、ローイはこれに反対してレーニンから批判されたのである。白井は実に卑劣なデマゴギーをここで言っているのだ。これは白井が、あくまでレーニンをスターリン主義発生の起源としたいがため、スターリン主義に手を貸した者にしたいためのペテンなのだ。
 そして白井は、ローイが先進国プロレタリアートに不信を表明し、植民地革命こそが世界革命の帰趨を決する、とした点を最も評価したいのである。しかし白井のローイ評価は、ローイの主張にはらまれる問題性との格闘を含まない評価であるために、単なるのっかりに過ぎず、したがってそこにある糾弾的要素への主体的受けとめも、まったくしようとはしないのだ。
(ここで白井がどれほどペテン的であるかは、『共産主義者』一二三号山村克(白井)の「自己批判」一三八n上段二一行目〜一三九n上段一七行目をあわせて読むとよく分かる。参照されたい。)

 (5)ユダヤ人問題における悪意ある総括

 第四に、白井はいたるところで「単一党」思想を承認するような口ぶりをしながら、実際には「単一党」思想を否定している。
 スルタンガリエフとレーニンの対立のきわめて重要な核心に「単一党」か「連合党」かがある。それもけっして双方において単純ではなく、色々なデリケートな問題をはらんでおり、またスルタンガリエフも歴史的経過で意見が変わっていくところもある。ところが、白井は、このデリケートな問題を全面的に対象化して論争全体をつぶさに検討する方法をとるのではなく、レーニンだけを問題にし、スルタンガリエフはすべて正しかったかのような叙述をすることによって、結局は「単一党」思想を否定するのである。
 われわれは、ロシア社会民主党の創成期における「ユダヤ人ブンド」の問題を、帝国主義論の確立とレーニン民族理論の飛躍的発展の地平からとらえ返し、そこにおけるレーニンとボルシェビキの民族問題に関する問題性をとらえ直すことはきわめて重要であると考える。しかし、そのことが、党組織論として争われた「単一の党」か「連合党」かの論争においてユダヤ人ブンドが正しかったということには断じてならない。これは、民族差別・排外主義を始め、あらゆる差別主義の問題の深刻さの認識に基づくがゆえに、さらにはっきりさせなければならないことなのだ。
 このユダヤ人ブンド問題では、白井は七四〜八八ページで一項目設けて、レーニンによる「連合党」批判について、「ツァーリズムを打倒するたたかいを勝利に導くためには、『あらゆる民族のプロレタリアートのもっとも緊密な団結』の実現を図る必要があり民族ごとに党組織が区分されるという連合党では役にたたない、もっとも緊密な団結は中央集権的な単一党でなければならない」という主張を紹介している(八〇ページ)。
 そして「その主張は一見合理的だが」として、しかし「それを判断するためにはこの時点において、レーニンがユダヤ民族の民族解放についていかなる理解をもっていたのかを具体的に検討しなければならない」と言っている。そして、そこで問題があるがゆえにレーニンの「連合党」批判には問題があったというこそくな論法を使って、事実上「単一党」論を否定しているのである。
 白井は、けっして「単一党」の主張の正しさをがっちりと確認した上で(つまりユダヤ人ブンドの間違いをはっきりさせた上で)、民族問題を検討する方法論をとっていない。
 そして、当時のレーニンとボルシェビキのユダヤ民族の解放闘争に関する問題性をもって、その批判をマルクス主義者そのものの問題性にまで一般化しようとする(八三ページ)。だがこの白井の批判は、白井自身が六四〜五年の日韓闘争の時はもちろんのこと、七〇年「七・七」弾劾以前において、(否、西山論文で鋭く暴かれたように、それ以降現在に至るまで)自己が一体どうだったのかを一片の反省もしない「高み」からのものでしかない。
 白井は、レーニンを途中で「勇み足」「いきすぎ」などとあたかも゛好意的"に総括しているような形をとりながら、最後に、「(レーニンによって)事実上ボリシェビキに異論を唱える異民族はやっつけてしまえ、民族自決など問題外という精神だけを注ぎ込まれたと考えるべきではないか?」(八八ページ)などと、悪意ある総括をしている。白井の反革命的悪質さは、ここに鮮明に示されている。

 (6)中核派をスターリン主義と規定することが白井理論の犯罪的な核心だ

 第五に、白井が、一方で帝国主義論確立後のレーニンの民族理論の飛躍的発展を承認せざるをえないにもかかわらず、なぜこれほどにも帝国主義論の確立の意義について否定的なのかということである。それは、白井がわが党から脱落しただけでなく、権力の庇護(ひご)のもとに反党活動を推進することを決意したことと無関係ではない。
 『民族本』の際立った特徴は、スターリン主義規定の変貌(へんぼう)である。白井自身が『民主派本』で正直に述べていることだが、権力に屈服した後の白井は、わが党への敵対行動を開始するために、わが党をスターリン主義呼ばわりすることにしたと言っている。実は、これが決定的変質の核心なのだ。この必要性から、スターリン主義規定をより一層、反革命的に変更したのだ。
 白井は、わが党にいた時代は、「一国社会主義論とそれに基づく世界革命の放棄」というスターリン主義の本質規定を、相対化してはいても完全に否定してはいなかった。ところが、この本の最大の特徴のひとつは、それを完全に否定していることである。より徹底的にスターリン主義問題を民族問題に収斂(しゅうれん)させ、スターリン主義規定を「民族消滅論」に基づく民族抹殺思想であるとしている。
 そしてその証拠として、レーニンの最後の闘争が「グルジアのスターリン批判」であったことと、九一年のソ連スターリン主義の崩壊が民族政策の破綻(はたん)であったことをあげ、すべて民族問題であったとしているのである。しかし、九一年のソ連スターリン主義の崩壊を、民族問題だけに収斂させるのは、事実にも反し、明白に誤りである。だが、白井は強引にそこにのみ収斂させて、スターリン主義の根本問題は民族抹殺思想であるとしているのである。
 そしてすでに暴いたように、「グルジアのスターリン主義批判」以前のレーニンとボルシェビキ自身がスターリン主義的であったということを懸命に立証しようとしている。『民族本』を要約するならば、@「グルジアのスターリン批判」が決定的→Aそれまでのレーニンは帝国主義論確立後の民族理論はすごいけれどやはり問題があった→Bしたがってスルタンガリエフとの論争にみられるようにボルシェビキも全部問題があった→Cだからスターリン主義が生まれた、ということである。
 そして、その証拠として、一国社会主義論を唱える以前から、スターリンとボルシェビキはグルジア問題で決定的犯罪を犯していた、すなわち一国社会主義論に先行してグルジア問題で犯罪を犯したことが決定的であり、したがってスターリン主義の本質は民族抹殺思想であり世界革命の放棄ではないという展開をしているのである。
 しかし、スターリンが一国社会主義論をそれとしてうち出す以前も、〈国家権力をとった〉という現実、その党であるという現実を自己の官僚的利害から絶対化し、プロレタリア国家の防衛・強化のためという口実で自己の既存の権力を強化しようとする一国社会主義論的なロジックが、そこにはすでに働いていたのである。端的に言えば、〈国家権力を握った〉階級の党だということが、スターリンの排外主義的凶暴化を合理化し、一層強化していったのだ。このことを、白井はまったく踏まえていない。
 一国社会主義論は、〈国家権力を握った〉階級の党とその理論的変質としてとらえるべきであり、それゆえに、それが社会主義の名のもとに行われることによって、民族抹殺や農業強制集団化などのよりすさまじい凶暴性を発揮するものになったのだ。
 だが白井は、スターリン主義の本質として一国社会主義論があることを否定して、゛スターリン主義とは民族抹殺の思想である、スターリンの民族抹殺思想の根幹にはレーニンの「民族爆砕」論がある、したがって「正統マルクス・レーニン主義」に立脚する中核派はスターリン主義だ"というのである。このことが、『民族本』全体で、白井が民族理論の形をとって言いたいことの核心なのだ。

 (7)白井の「西欧中心史観」批判の反動的正体

 最後に、白井がわざわざ「終章」として別個に設け、『民族本』の全体をとおして述べている反「西欧中心史観」の反動的主張について一言しておく。
 まず第一に、白井のこの主張が、マルクス唯物史観(その確立である『ドイデ』)の否定と直結したものであるという点で、マルクス主義の根幹を否定するものだということである。白井は、@ヘーゲルのギリシャ・ローマ・ゲルマンという西欧中心の図式、Aマルクスの奴隷制・封建制・資本制の発展段階説、Bスターリン主義によるその各国史への機械的適用を、ほとんど同列に並べて論じようとしているが、これは後日問題にしたい。ここでは、白井の唯物史観否定が、゛各国史に機械的にあてはまらない→世界史一般の歴史観としては反対だ”として、実に安直な歴史観の「創造」を唱えていることだけをおさえておきたい。
 マルクスとともに、われわれにとっては、世界史一般がまず問題になるのではない。世界史の一定の段階で資本主義経済が(一定の必然性をもって)形成され、あるいは登場し、さらにその資本主義が帝国主義段階化し、世界をその原理で大きく支配している、または支配しようとしている現実こそが問題なのだ。主体的に言えば、そこでプロレタリアートの世界史的登場があり、その自己解放の思想として共産主義思想が生まれ、この共産主義の世界史的登場、その一般的普遍性の中で、こんにち世界史を根本的に転覆し変革することが可能になっているということが問題なのだ。このプロレタリアートの解放的世界観から、世界史の全面的とらえ返しもテーマとなり、「西欧中心史観」を打破した世界史の研究や整理が可能になっていくのであり、その拠点・論拠として唯物史観が武器になるのである。
 ここからとらえ返すならば、西欧中心史観とは、世界史の資本主義的発展が西欧を中心にして始まったがゆえのブルジョアジーの自己合理化の史観であり、「支配階級の思想は、どの時代でも支配的な思想である。つまり、社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である」(『新訳ドイツ・イデオロギー』七二ページ)ことを文字どおり証明しているに過ぎない。
 第二に、白井のこの「西欧中心史観」批判は、六〇〜七〇年代の民族解放闘争の歴史的高揚の過程での新植民地主義体制諸国人民からの激しい弾劾と、それを受けた七〇〜八〇年代の歴史学界のある種の「流行」に、わが党が遅れているという意識に突き動かされている。特に、民族解放闘争の歴史的高揚過程ではそれが、一部にはマルクス主義否定をも強くはらんで展開されたが、白井は、それに無批判的にのっかったに過ぎない。七〇年「七・七」の時の鋭い弾劾と自己批判から身を避けて、けっして正面に立とうとしなかった白井は、ずっと後になって「西欧中心史観」批判に接して打撃を受け、マルクスの歴史的知識が、当然であるが十九世紀的限界に規定されていることからマルクスにも問題があると思ってしまい、なんとそれをもってわが党の中では大発見をした気分になっていたに違いないのだ。
 白井は、『民族本』で、レーニンやボルシェビキを「ヨーロッパ人的偏見」にとらわれているとさかんに問題にしている。イスラム人民から突き出される歴史的事実に立脚して、イスラム文明の認識の欠如を執拗に問題にしているのだ。
 しかし、ロシア(先進帝国主義)に対するタタール民族あるいはイスラム人民の弾劾を〈受けとめる〉ことと、それに〈のり移る〉こととは別である。白井が、〈ロシアとイスラム文化〉の問題を先進帝国主義とその人民への被抑圧民族からの糾弾と弾劾として受けとめるならば、日帝下の抑圧民族の人民としての痛みや反省を伴う文言なしでは、「西欧中心史観」批判など絶対に語れないはずだ。なぜならば、同じ「西欧中心史観」とはいっても、西欧でもないのに日本ほど「西欧中心史観」を取り入れている民族はほかにないからである。つまり、「西欧中心史観」が〈西欧対アジア〉の問題では断じてなく、資本主義問題であり、帝国主義と植民地問題であることを最も醜悪に示しているのが、日本の「西欧中心史観」なのだ。
 だが、白井はただロシア人が問題にされているとしか理解せず、帝国主義の問題としてとらえず、レーニンやボルシェビキが大ロシア主義だと弾劾して見せるのだ。これは破廉恥以上である。白井がアジア人民からの弾劾に一度も向き合った歴史がないことを最もよく示しているのが、この「西欧中心史観」批判なのだ。
 第三に、ロシアの帝国主義的民族抑圧へのタタール民族の弾劾は、抑圧された民族としての自己主張でもあり、資本主義的・帝国主義的歴史観への別の歴史的存在の対置でもある。したがって、それには〈受けとめ〉と反省的契機こそが必要なのだが、白井は、単純にその歴史的事実に〈のっかる〉こと、つまり取り入れることしかやっていない。そしてそれを取り入れたから、あたかも自己が西欧中心史観から無縁の立場に立ったかのように思っているが、実はそれがでたらめなのだ。
 例えば『民族本』の三〇三ページあたりで「ギリシャ・ローマ文化はひとつの高い地点に到達していたことは疑いないが」としながら、あくまでも西欧中心史観批判を貫こうとして、「(しかし)ギリシアは……未だ民族的統一に達していない」とか、「ローマは巨大な征服王朝であって異民族を多数含んでおり、やはり統一民族とはいえない」、だから西欧中心史観は成り立たないのだなどと言い、でたらめというよりも白井の底の浅さを暴露してしまっている。
 しかしまずひとつは、「ギリシャ文化」を即無批判的に西欧に入れているところに、白井自身が西欧中心史観から必ずしも自由ではないことを示している。また、ローマは「他民族を含んでいたから」というならば、白井が対置する、同じ秦・漢時代の中国はどうなのかと言いたい。殷が夏を滅ぼし、周が殷を滅ぼしたとき、互いに異民族であった。秦が帝国として統一したときは明白に多民族国家であった。秦を引き継いだ漢が越をインドチャイナ半島に追いやった時はどうか……。
 このように中国でも多数の民族が統一されたり、追いやられたりしていたではないか。蜀漢の孔明が、異民族を次々と服属させていったことは、『三国志』にまで書かれているが、白井は読んだこともないとでも言うのか。つまり白井の西欧中心史観否定など付け焼き刃でしかないということだ。
 西欧中心史観に対してイスラム文明が栄えた時代があったことを対置することは正しい。しかし、白井はただそれにのっかって、「トルキスタン、アフガニスタン、インドのかなりの地方、インドネシア、フィリピン南部にまで波及し、イスラム教徒としての信徒共同体へのつよい帰属意識が、ムスリムとしての民族的一体感を生みだし、アラブ民族を中核にイスラム文明へのつよい帰属意識をもつ人びとを世界各地につくりだした」(三〇五ページ)とまで言い、ムスリム文明をことさらに賛美するのである。だが、逆にこれはそれぞれの諸民族の多言語、多精神文化を無視した表現でしかない。
 スルタンガリエフの主張には、「汎イスラム主義」的要求(タタールを軸にしてイスラム帝国の最も栄えた時代の全体的統一の復活要求)がはらまれているのだが、大ロシア主義批判へのレーニンの受けとめが、同時にこのスルタンガリエフの見解への同調とは必ずしもなりがたいのだ。現実にはきわめて難しい問題なのであり、実際、イスラム人民の中からも、スルタンガリエフの「汎イスラム主義」に対して批判と抵抗が相当あった。そうである以上、レーニンが即同調とはならなかったことは当然である。白井は、これをもって「ロシア人が判断する(あるいは党が判断する)思想がある」などという非難に転じているが、ここまでくると悪質な扇動である。重要なことは、白井の西欧文明に対するアジアの対置には、隠蔽(いんぺい)された大アジア主義の匂いがふんぷんとしていることである。
 西欧よりも早くアジアが民族形成をなし遂げたかどうかが問題なのではない。繰り返すが、世界史と世界交通・世界市場が、どう形成されてきたかが問題なのだ。始まりは偶然だが、中国交易市場、地中海交易市場、東南アジア交易市場、インド洋交易市場、イスラムの地中海=インド洋=東南アジアの交易市場、モンゴル=中国=中央アジア=アラブの世界的・ユーラシア交易市場等々……が、それぞれ歴史的に継起しつつ、互いに刺激しつつ、相互に契機となりながら、最後的にいったんヨーロッパに収斂されることで「大航海」時代を開き、それによって世界市場へ、世界交通へと世界史が必然的に形成されてきたのだ。
 そして、世界革命の前提としての世界市場・世界交通が、どのように諸文明によって形成され、それがどのように世界資本主義の転覆をとおして共産主義へと引き継がれていくか、それがわれわれの問題なのである。それ以外に、いったん人類史の前史で全面的に美化されるようなものがあるというのか。世界革命と労働者自己解放をとおした世界共産主義のみが、一切を止揚するのだ。それまでの歴史は、発展は悲劇として、進歩は反動として、解放は疎外としてしかありえないのだ。
 最後に、白井の民族規定とりわけ「言語共同体」論と「民族の永続性」についても批判的に検討しなければならないことを付言しておきたい。この規定は、そもそも「在日」の二世・三世が日本語を母語化してしまっても、民族意識が強烈に育成されている現実にも立脚していない。これは、ひとつの例に過ぎないが、しかしわれわれにとってきわめて重要な事実である。さらに、民族規定も、資本主義における国民経済の成立、帝国主義の民族抑圧の中で問題になってくるのであり、それを近代以前の「民族」と二重写しにさかのぼって論じることはできない。
 さらに白井の「民族の永続性」論は、抑圧と分断ではなく、〈融合がどうしたら実現できるのか〉の、困難ではあるが切実な問題を切り捨て、反対している点で断じて同調できないものである。
 革共同への反革命的敵対行動を売り物にする白井朗を粉砕せよ。(了)

 

 

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