ZENSHIN 2000/10/09(No1976 p08)

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週刊『前進』(1976号4面1)

国労解体の最先兵=日本共産党
「4党合意」承認を推進する革同上村一派の犯罪的役割

 高田 隆志

 「四党合意」撤回をかけた国鉄決戦はきわめて緊迫した局面にある。この間の七・一臨大から八・二六続開臨大の過程で日本共産党スターリン主義の果たした役割は、許すことのできない反労働者的なものである。同時に、七・一臨大という歴史的な決起は日共スターリン主義をとことんまで追い詰めている。まさに国鉄決戦とそれに対する日共の敵対の中に、今日の日共の「資本主義の枠内での民主的改革」路線の反動的本質が最も鋭く現れているのである。権力・資本に屈した日共・革同のチャレンジグループと一体となった国労解体策動を絶対に許してはならない。今こそ国鉄闘争への敵対者、国労解体=連合化の先兵・日本共産党を打倒しよう。

 臨大めぐる革同分裂と7・1決起の意義

 「四党合意」とは、国鉄分割・民営化によって選別され採用差別されて首を切られた千四十七人の労働者の問題を「解決」すると称して、自民党、保守党、公明党の与党三党と社民党との間で交わされた合意である。それは「解決のための枠組み」として、「国労がJRに法的責任がないことを認める。(それを)国労全国大会(臨時)で決定する」とし、それを決定したら、「雇用」や「和解金」について考えるというふざけたものである。
 四党が国労に対してこのようなことの全国大会決定を迫るということ自体が、労働組合に対する権力の支配介入であり、不当労働行為そのものである。しかもその内容は「JRに法的責任がない」、つまり千四十七人の首切りは正当であったことを認めたら「人道的観点から」「すみやかな解決のために努力してやろう」というものなのだ。
 これは国鉄分割・民営化体制のもとでの国労の十四年間の闘いを一切否定するものであり、労働委員会制度をも破壊するものだ。
 何よりもそれは、国労闘争団など千四十七人の国鉄労働者とその家族の十四年間に及ぶ営々たる苦闘を踏みにじり、その存在を抹殺する攻撃である。「四党合意」は、すべての闘う労働者にとって絶対に認めることのできないものなのである。
 五・三〇「四党合意」を国労臨時大会で強行しようとする攻撃の先頭にチャレンジグループとともに立ったのが、日共・革同上村派であった。彼らはチャレンジグループ以上に凶暴なやり方で、何がなんでも「四党合意」承認を臨大で実現しようと躍起になってきたのである。
 革同のキャップであり、国労副委員長である上村自身が「これは党中央には了解済みである」(四月革同会議)と公言していたように、このような反革命的な強行方針が日本共産党中央との意志統一なしにできるはずがなかった。「四党合意」の当事者ではない日本共産党が、チャレンジと一緒にやるのは、共産党中央自体が、千四十七人問題の「早期解決」の名による反動的決着を狙っていたからである。
 革同上村派は、宮坂書記長とまったく同じ敗北主義から、自ら先頭に立って国鉄闘争を終息させ、国労の「連合化」も辞さない道に踏み切っていたのである。そして、多少のあつれきがあっても、反対の意見を制圧して、七・一臨大ですべてを決着することができると読んで、強行突破を狙っていたのである。
 日共中央も、そのような読みで、自ら手を汚さないために、『赤旗』では五・三〇「四党合意」に対する評価も、七・一臨大に向かっての動きも一切報道さえせず、無関係を装ってきたのである。
 そもそも不当労働行為である「四党合意」を、日共が「労働組合の決めることだから干渉しない」などという口実で見過ごすことは、「政党」を名乗るものとして許しがたいことなのである。何も語らないことは、「四党合意」容認ということだったのだ。
 日共は、臨大で「四党合意」承認が決定されれば、それを「労働組合の決定」として、事後的に「やむなし」と承認する考えで臨んでいたことは明白である。

 国労闘争団を「暴徒」と罵倒

 ところが、それはあまりにも浅はかな読みであった。国労闘争団を先頭とする国労組合員の怒りのエネルギーは、日共スターリン主義の思惑をはるかに上回る激しさをもって七・一に爆発したのである。七・一国労臨大を取り巻く国労と支援の労働者の大結集、そして五時間遅れで開かれた臨大での「四党合意」反対の意見、そして闘争団家族の壇上に駆け上っての必死の訴え、最後の宮坂書記長の集約発言で採決が強行されようとすることに対する闘争団を先頭とする壇上への殺到、こうした闘いのすべてが臨大を休会に追い込み、「四党合意」承認を粉砕したのである。それは労働者階級の底力、階級的正義をまざまざと示した感動的な闘いだった。
 演壇占拠という手段が、「四党合意」によって「三度目の首切り」を自分の組合から宣告されようとしている当事者である闘争団のやむにやまれぬ、正義の決起であったことは明白である。
 決死の闘いをやりぬいた闘争団は、この闘いを「直接民主主義としての演壇占拠」であったと宣言した。「私たちにはこれしかなかった。自分たちの運命は自分で決める」と。
 この七・一決起によってそのもくろみを粉砕された国労執行部は、猛然と「反暴力」キャンペーンを張った。七月三日の国労中執見解は、「一連の大会破壊の暴力行為に対し、非難すると共に憤りをもって抗議する」と闘争団の決起を非難している。
 この中執見解と軌を一にして闘争団を「暴徒」呼ばわりしたのが革同である。革同が牛耳る国労東海本部地方代表者会議は、「書記長集約が終わると同時に一部の暴徒と化した者たちが、演壇や議長席の机や椅子を破壊し、暴力によって会場を占拠する暴挙にでた。これらの暴徒の中に、一部ではあるが残念ながら組合員・闘争団員が加わっていた」と反革命的に罵倒(ばとう)した。
 だが、「四党合意」の推進で動く革同の内部で、これに対する反対の声が七・一臨大を前に高まり、七・一臨大では、会場警備の革同上村派と反対派が会場入り口で激突するところまで分裂を深め、臨大後は一層対立を激化させてしまったのである。
 革同上村派は、八・二六続開大会に向けて、機関で決定した東京地本の警備動員とは別個に総勢五百人からなる自警団の動員をかけた。明らかになった「七・二二革同会議議事録」には、上村報告として、「革同の自主的防衛参加(大会成功のために自主的に参加)目標五百人(革同、チャレンジ)」として、各地方の動員割り当て数まで記されている。七・一の警備が二百人だから、これがいかに大きな動員であるかがわかる。革同上村派は、力ずくで「四党合意」の受け入れを決定しようとしていたのだ。

 全労連大会で四党合意反対

 しかし、この後開かれた日共系の全労連大会(七月二十五〜二十七日)で事態が一変した。この大会では、国鉄闘争についての意見が続出し、しかも発言者のすべてが「四党合意」の不当性を弾劾する立場を表明した。
 これより前、五・三〇「四党合意」に際して、尾張部全労連国鉄闘争本部事務局長が出した談話は、「四党合意は十三年に及ぶ千四十七名問題の解決に向けての動きとして歓迎する」と評価した上で、「当該組合である建交労鉄道本部(全動労)と全動労争議団、全労連幹事会とも協議の場を設定することを政府・運輸省に求める」というものだった。つまり、「四党合意」を支持した上で、自分たちにも同じ解決に向けての場を作ってほしいと政府にお願いするものだった。
 全労連大会では、この尾張部談話が批判され、「撤回すべきだ」という意見が出された。これに対して、坂内全労連事務局長は二度も答弁に立たされ、「全労連の国鉄闘争方針には、いささかのゆらぎもなく、基本方針を堅持して闘う」「国鉄分割・民営化を強行した政府に責任があること、数々の不当労働行為を繰り返したJRに解決責任があること、これは明確である」として「四党合意は重大な問題を含んでいる」と公式に表明した。
 国労革同上村派とまったく異なる見解が、日共系のナショナルセンターの大会で確認されたことは重大である。これ自身、日共の労働運動路線の破産の現れと言えるのである。

 反革命性・ペテン性と動揺示す『赤旗』声明

 こうした全労連大会に見られる日共系労働組合の動きは、七・一臨大を粉砕した闘いがいかに大きなインパクトをもっていたかの現れであった。それは、闘う国鉄労働者の決起に正当性があるというにとどまらない、真に国労再生の突破口を開く意義をもっていたということであり、日本労働者階級の闘いの鑑(かがみ)、手本として輝いているということでもある。
 日共指導部は、このまま事態を放置していた場合には国労革同の崩壊のみならず、百万人の全労連の分裂と失陥さえ生み出しかねない、という労働運動指導の全面的破産の危機に直面したのである。
 これは日共にとって、一九六四年の四・一七春闘ストライキに対する敵対がもたらした危機以来の大変な事態であった。
 交運共闘と公労協の歴史的なストライキ宣言に対して、日共は「四・一七ストは、アメリカ帝国主義のたくらむ挑発スト」だとする「四・八声明」を発表して公然と真っ向からストに反対した。ストは中止になったが、その後、総評民同は、日共をスト破りとして大量統制処分にかけた。全逓、全電通では日共が壊滅するほどの処分が出される事態となった。国労では、革同のキャップが自己批判してのりきりを図った。
 四・一七スト破りは、偶然的なことではない、日共スターリン主義の本質にかかわることだった。ストライキは労働者の自己解放的な決起であり、大いなる階級的実力闘争である。これは革命につながるものである。日共はそれゆえにストを恐れ、ストから逃げ回ってきたのである。日共の労働運動指導の破産がここに刻印されている。
 今回の事態は日共としてそれ以来三十六年ぶりに陥った大きな危機である。
 こうして、日共はついに八・二六続開大会を前に、『赤旗』八月十九日、二十日付に、国労問題に対する見解を発表せざるをえなくなったのである。これは、基本的に、分裂している革同の両派の顔を立てようとする「二股膏薬(ふたまたこうやく)」のようなペテン的な声明であった。
 声明は、「N・S」なるイニシアルで、「一〇四七人の採用差別と国労の続開大会について」と題して上下に分けて掲載された。これが五・三〇「四党合意」以後初めての党的見解の表明だった。
 内容的には、「JRに法的責任あり」「四党合意は国労に『法的責任なし』をおしつけている」などと言って、あたかも道理のある態度をとっているかのように見せている。例えば次のように言う。
 「JR各社の『法的責任なし』という立場は、このような憲法と労働法の基本原則を蹂躙(じゅうりん)する不当な立場です」
 「問題はこの文書(四党合意)が、JRへの復職や雇用確保、経済的損失の補償額などについては、解決の『手順』が示されているだけで、具体的な中身が何もないまま、『法的責任なし』の承認をおしつけていることです。これでは、問題の解決を一層、困難にさせることになるでしょう」
 だがこの声明は、「四党合意」承認を臨大において宮坂・チャレンジとともに強行しようとしたのが、日共中央指導下の革同上村派であったことをまったく覆い隠している。自分たちが国労内で「四党合意」強行を推進した張本人であるのに、それに無関係な顔をして「論評」を加えること自体が許せないことである。
 またこれは、「四党合意」の撤回を主張するものではない。
 しかも、七・一臨大について、次のように言う。
 「そして、書記長の集約答弁の最中に、一部の闘争団員らが壇上に駆け上がって、机や椅子を放り投げたり、マイクを奪うなどしたため、議場が混乱し、大会議長の判断で休会となりました」
 「暴力行為は許されませんが、休会せざるを得なかったのは、闘争団や家族、職場組合員や支援団体のなかに、雇用や経済的補償の具体的な中身なしに『JRに法的責任なし』とすることなどへの根強い不満と怒りがあったからではないでしょうか」
 だが、闘争団を支持するとは絶対に言わない。むしろ「不満はわかるが暴力行為は悪い」と言いたいのだ。
 しかし、そもそも「不満と怒りがあった」というなら、革同の指導部として自己批判することから始めなければいけないのだ。
 さらに、「人道的立場から早期解決を」という反動的路線を依然として良いことのように振り回していること、また、「その際(国労として具体的に解決する時)、何よりも大事なことは一致できる要求にもとづく団結です」と言っていることは重大である。これは最も低いレベルでの要求の統一ということであり、チャレンジグループの、闘争団をほうり出したいという要求への統一ということにつながるのだ。
 「四党合意」反対なら当然出てくる結論は続開大会中止でなければならないにもかかわらず、この声明は「十分な討論をつくし、自らの力で障害をのりこえ、展望をひらくことが期待されます」と言って、続開大会推進の立場を明らかにしているのである。「どう解決するかは国労自身が決めること」として、国労の自主性、主体性を重んじるかのように言うが、「四党合意」ほど国労を解体する暴力的な攻撃があるか。そのことをまったく言わずに、日共は国労の自己解体を推進したのである。
 「障害をのりこえ」とは何か。“続開大会を実力阻止するなどということは二度と許さない″ということである。これがこの論文の実践的結論なのである。
 日共の意図は、後々まで「日本共産党としては『JRに法的責任なし』を認めたことも、『四党合意』を承認したこともありません」と責任回避できるようにして、実際は大会決定に従うという形ですべて承認することであった。
 だが、この声明は、日共の影響下の広範な労働者の「四党合意」への怒りをさらにかきたて、大流動情勢をつくり、大きな動揺を内外に生み出した。
 「N・S」がペテン的に言っていることと、実際に革同上村派がやってきたこととはあまりにも整合性がないのだ。片方は何がなんでも「四党合意」承認を押し通そうとし、片方はペテン的にせよ「四党合意はJRに法的責任なしを押しつけるもの」などと言う。このようなことがうまく通用するわけがなかった。

 労働運動への日共の反革命的指導と破産

 『赤旗』声明に事態を沈静化する効果はなかった。両派に都合よく読み取れるように作られたものであったが、実際には上村一派に大打撃になってしまった。
 八・二六の強力な「大会警備」体制のために「自警団」まで組織し、警察機動隊の警備を頼んで、暴力的に強行突破しようと図ったが、最終的には採決の断念にまで追い込まれた。しかも、国労闘争団の本部追及の闘いの前に、ついに執行部は「総辞職」を表明せざるをえなくなった。これは画期的な事態である。
 国労本部は、続開大会で「四党合意についての一票投票」を提案し、反革命的のりきりを図ってきた。
 しかし、一票投票は、組合規約にもなく、闘争団の切り捨てを組合員に強制するもので、それ自体が「四党合意」という不当労働行為を強行するための許しがたい攻撃である。
 日共は、この一票投票を「組合民主主義」として重視するという態度で、これによる四党合意承認に望みをかけようとしてきた。
 国労定期大会の代議員選挙の革同上村派の候補のビラには、次のように書かれている。
 「私は、『四党合意』に賛成か、反対かと問われれば、『法的責任なし』を認めた『四党合意』には反対です。しかし、『四党合意』の中で、十三年間のたたかいの一つの到達点として、『雇用問題・解決金問題』を明記させた話し合いの場(解決交渉)ができるのも事実です。われわれから、『四党合意』を蹴って、話し合いの場がなくなることには反対です」
 「国労の総団結を大事にし、組合民主主義の立場から最高決議機関である大会で決定した『一票投票』を成功させよう。もうこれ以上の混乱は御免です」
 こんなでたらめな理屈はない。「『四党合意』には反対」と言いながら「『四党合意』を蹴ることには反対」という。いったいどっちなのだと言えば、「蹴ることに反対」なのだ。
 もともと「四党合意」を推進し、臨大で強行するために立ち働いてきた革同である。それが、「四党合意」反対の闘争団を始めとする国鉄労働者の怒りの決起で二度までも粉砕され、「四党合意」は風前の灯(ともしび)になった。それで「反対だけれども、話し合いの場ができたのだから蹴ってはいけない」などという苦し紛れのペテンを使って、「四党合意に賛成せよ。一票投票は○だ」と言っているのだ。
 これこそ『赤旗』声明の実践的結論なのである。日共はそこで「『JRに法的責任なし』の『四党合意』は問題」などと言った上で、「一致できる要求で団結を」などと言って、続開大会での決定を支持していたのだ。この声明の線に沿って、革同上村派は「四党合意」についてのペテン的な理屈で強行することを決定したのだ。
 まさに日共中央の指示で、革同上村派が反革命的に動いていることがここに示されている。チャレンジを牽引(けんいん)する役割さえ果たしているのだ。

 「資本主義の枠内」路線の帰結

 なぜ、国鉄決戦で日共がこのような反労働者性と破産性を現すのか。それは、ここに全ブルジョアジー対全プロレタリアートの階級決戦があるからである。闘争団を先頭とする国鉄労働者の闘いに、プロレタリアートの階級的反乱の火の手が示されているからである。これが日共反革命を追い詰め、その反動性を暴き出しているのである。
 そもそも日共は、「資本主義の枠内の民主的改革」路線に立って以降、一切の階級的な見方、考え方、闘い方を一掃し、階級闘争を放棄する方向に突っ走っている。日共が労働者階級の政党でなくなることの核心的な現れが、国鉄闘争への敵対と裏切りにあるのだ。
 日共にとっては、国鉄闘争が千四十七人問題として残り、不屈に闘いぬかれていること自体があってはならないことであり、一刻も早く終結しなければならないことなのである。
 日共は、日帝・資本の大失業・リストラ攻撃とまったく闘わず、これに対する労働者階級の決起の時代に、逆に資本と一緒に資本主義の救済を図る政党に変質した。それは安保・自衛隊を容認することとひとつのことである。だが同時にそれは、日共の労働運動指導の破産を突き出し、一層の党的危機を生み出すものであることも完全に明らかになった。
 「四党合意」撤回をかちとり、国鉄労働運動に対する反革命的役割をあらわにする日共・革同とチャレンジを打倒し、闘う執行部を打ち立て、国労の階級的再生をかちとるため闘おう。
 

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