ZENSHIN 2000/08/07(No1968 p06)

ホームページへ週刊『前進』月刊『コミューン』季刊『共産主義者』週刊『三里塚』出版物案内販売書店案内連絡先English

 

週刊『前進』(1968号1面1)

 サミット決戦が大高揚

 裏切り執行部打倒! 闘争団守れ!
 8・26国労臨大続開大会絶対阻止へ

 8・6広島−8・9長崎に結集を

 沖縄サミット=戦争会議粉砕の七月沖縄現地闘争は、いま一つの最大の二〇〇〇年政治決戦として大きな爆発をかちとった。反戦共同行動委員会に結集する本土の六百人の労働者・学生が沖縄現地に決起し、闘う沖縄人民の怒りの行動と大合流して、サミット厳戒体制を打ち破る歴史的な大闘争を実現した。闘う沖縄人民、闘うアジア人民と連帯して、サミットと真っ向から対決し、世界の帝国主義強盗どもに大打撃を与えた。闘いは何よりも沖縄サミットにかけた日帝・森政権の狙いを破綻(はたん)させ、在沖米軍と基地を追いつめる大闘争として爆発したのだ。沖縄米軍基地撤去、名護新基地建設阻止、有事立法・改憲阻止へ新たな闘いの橋頭保が築かれた。二〇〇〇年前半において、われわれは、衆院選決戦、七・一国労臨時大会決戦を始めとする階級的労働運動の前進の闘い、そして、名護新基地建設阻止、沖縄サミット粉砕決戦の三大決戦の勝利的地平を切り開いてきた。この二〇〇〇年の階級決戦は、さらに八・二六国労臨大続開阻止の決戦、八・六広島―八・九長崎反戦反核闘争、九・三自衛隊首都治安出動演習粉砕闘争から十月三里塚闘争、そして十一月全国労働者総決起集会へと、労働者階級人民の革命的大衆行動を促進しつつ、それを同時に階級的労働運動の奔流(ほんりゅう)へと発展させる闘いである。しかもここにおいて、国鉄決戦が労働者階級の死活をかけた重大な決戦テーマとなった。国労闘争団の不屈の決起にこたえ、闘争団を守り抜き、八・二六続開大会を阻止する大決戦に立ち上がろう。七・三〇東京―八・五関西の革共同政治集会の基調報告で武装し、二〇〇〇年後半決戦の勝利へ進撃しよう。

 第1章 「戦争会議粉砕!」厳戒破って大デモ

 沖縄サミット粉砕決戦は、まず何よりも沖縄県民の根底的な怒り、自己解放的決起としてかちとられた。七千人を集めた七・一五沖縄県民大会の大高揚、七・二〇嘉手納基地包囲「人間の鎖」行動の二万七千百人による圧倒的な成功、名護東海岸住民によるサミット直撃の請願行動など、沖縄県民自身がサミット翼賛による沖縄圧殺攻撃を打ち破る新たな決起を開始した。
 この沖縄人民と連帯し、反戦共同行動委は、結成以来最大の六百人の派遣団を組織し、七・一九から五日間、全力で闘い抜いた。
 とりわけ二十一日の名護・部瀬名(ぶせな)のサミット会場に向けての全学連白ヘル隊列を先頭とした反戦共同行動委の戦闘的デモは、デモ禁圧の攻撃を打ち破って炎天下で縦横に闘われ、名護市民から熱い共感をもって迎えられた。
 これらの闘いは、沖縄サミットそのものの反動的正体を浮き彫りにし、「サミット歓迎」によって封じ込められようとした沖縄の怒りを再び力強く爆発させるものとなったのだ。
 その沖縄サミットでは何が行われたのか。
 まず二十一日、米帝クリントンが糸満市摩文仁の平和の礎(いしじ)で行った演説は、沖縄を泥靴で踏みにじるもので、断じて許せない。米兵による七・三女子中学生暴行未遂事件など米軍犯罪に一切言及せず、逆に「日米同盟があってこそ、今日のアジアの平和がある」「沖縄は同盟の維持のために死活的役割を果たしてきた」として、沖縄米軍基地を維持していく姿勢を露骨にした。基地の「整理」という言葉は口にしたが、それは「縮小」ではなく、統合・強化なのだ。二十二日深夜にキャンプ端慶覧で行った米海兵隊・家族を前にした演説では、世界で戦争する軍隊の「誇り」すら強調した。
 二十二日の日米首脳会談では、稲嶺沖縄県知事や岸本名護市長が普天間基地の名護受け入れの条件としていたペテン的な「十五年使用期限」問題について、クリントンも森も門前払いで話題にもせず、名護新基地建設を強行する意志をむき出しにした。それは、南北朝鮮首脳会談以降の激動する朝鮮情勢の中で、米日帝が中国・朝鮮への侵略戦争の発動準備を進めているからなのである。
 日帝の沖縄サミットにかけた狙いは、沖縄闘争を圧殺し、名護新基地建設を推進するための戦争会議として実現することであった。だからこそ、「基地の島=沖縄」の現実をそのままにして「沖縄から平和の発信」などと唱えることのペテン性は完全に明らかになった。これは、逆に沖縄の怒りの火に油を注いでいる。名護新基地建設攻撃との激突はいよいよ本格的に始まる。
 さらに、沖縄サミットは、二九年型大恐慌の切迫とそれと一体のアジア情勢の激変、中東情勢の危機の中で、激しい帝国主義間争闘戦の場となった。米帝クリントンは、全体重をかけて「中東和平交渉」をギリギリまで行い、遅れて沖縄に到着し、滞在日程を短縮して帰国した。だが、この「中東和平交渉」は二十五日、決裂した。このことは、パレスチナ解放闘争の圧殺による「和平」策動の破綻であり、米帝の中東支配の危機と新たな侵略戦争情勢を引き寄せている。
 また、サミットのG8首脳会議では、「朝鮮半島に関する声明」と「地域情勢に関する声明」を発表したが、それは帝国主義強盗どもが北朝鮮やユーゴスラビアをむき出しの戦争の論理で非難するものである。まさに、サミットは戦争会議なのだ。とりわけ、沖縄米軍基地の強化による米日帝の朝鮮・中国侵略戦争策動が一層強まったのである。
 経済討議で出されたG7声明は、特に日帝に対して「内需主導の経済成長」と「構造改革」を要求した。日帝がサミットの「目玉」とした「IT革命」について、「グローバルな情報社会に関する沖縄憲章(IT憲章)」を採択したが、それは逆に、米帝が主張した規制緩和や競争政策の必要性を強調するもので、この面でも米帝は自らの覇権を貫くことを露骨に狙った。
 米帝を始めとする世界の帝国主義が完全に日帝・森を見透かし、議長国・日帝の面目を平然とつぶす策動を行った。帝間争闘戦が激化する中で、日帝の危機と破産は浮き彫りになった。
 このことは、総選挙における森・自公政権の敗北に続いて、日帝の政治危機を一層激化せずにはおかない。沖縄闘争―名護決戦の新たな爆発を先頭に、日帝・森自公政権打倒へ労働者階級人民がさらに総決起すべき時が来たのである。

 第2章 7・1超える闘いで「四党合意」を葬れ

 この沖縄サミット決戦の歴史的爆発を受けての、当面する最大の決戦が、国労臨時全国大会の続開を絶対に阻止する闘いである。
 許せぬことに国労中央は、七月二十一日の中央執行委員会で、臨時全国大会の「続開大会」を八月二十六日に東京・社会文化会館で開催すると決定し、「指令第八号」を発した。国労中央は、「四党合意」受諾の方針案を「採決」するためにのみ、大会を強行しようとしているのだ。こんな臨大など絶対に開かせるわけにはいかない。
 七・一を上回る闘争団、JR本体、支援の労働者の決起で、八・二六続開大会をなんとしても阻止しなければならない。そのために何よりも、いま一度、国労三万の底の底からの決起をつくり出し、「四党合意」への怒りを組織しよう。「四党合意」を事実上粉砕した七・一の歴史的勝利の地平を打ち固め、「四党合意」を完全に葬り去り、現本部執行部を総辞職させ、宮坂・チャレンジ一派、革同上村一派を打倒し、闘う新たな執行部を樹立しなければならない。
 今やその新たな闘いが闘争団の決起を先頭に始まった。七・一を闘った闘争団への共感が圧倒的に広がり、国労中央に対する怒りがいよいよ高まっている。

 権力に魂売りわたした本部

 国労中央が臨大続開を決定した理由はただ一つ、何がなんでも闘争団を切り捨てることだ。国家権力、政府・自民党、JR連合らの意を受け、闘争団を抹殺することで、国労を「首切り容認組合」に変質させ、解体することである。
 彼らは、当事者である闘争団の三分の二以上が反対しているにもかかわらず、その闘争団の理解を得ようとする努力すら完全に放棄している。そればかりか、国労本部からの「三度めの首切り」を許すなと、やむにやまれず「演壇占拠」にまで至った闘争団の闘いを、「大会破壊の暴力行為」(七月三日付「第六六回臨時全国大会と大会休会についての見解」)と居丈高かつ一方的に非難し、チャレンジ一派や革同上村一派が機関を私物化して出した声明などでは、闘争団を「暴徒」とののしっている。その一方で、政党・政府関係者に対しては「衷心よりお詫(わ)びする」(同)などと平身低頭しているのだ。
 今や国労中央が闘争団を始めとする組合員には背を向け、ひたすら国家権力、政府・自民党、JR資本の側に立っていることは明白だ。国労中央は、もはや「千四十七人問題の解決」などまったく考えていない。労働組合としての団結など一切眼中にない。
 七・一臨大で示されたように、国労内には今や修復しがたい亀裂が生じている。それは何よりも国労中央が、「JRに法的責任なし」を核心とする「四党合意」受諾を決定するための臨時大会を、国家権力に強制されて強行したからだ。七・一の一切の事態の責任は、百パーセント国労中央にある。本当に国労の団結を考えるならば、「四党合意」受諾を撤回し、少なくとも棚上げにし、堂々と全国大会代議員選挙を実施し、定期全国大会を開催すべきなのだ。八月下旬は、本来なら定期全国大会が開催されるべき時期である。そもそも臨大の「休会」から二カ月近くも再開できないということは、国労中央自ら臨大の破産を自認したに等しい。
 にもかかわらず、あくまでも臨大続開を強行するということは、もはや国労中央は国労組織が分裂しても構わないと考えているということだ。「四党合意」に反対し闘おうとする闘争団を始めとする組合員を完全に切り捨てるということなのだ。誰が「組合民主主義」を否定しているのか。誰が国労の団結を破壊しようとしているのか。今や、あまりにも明白だ。
 しかもそれだけではない。許しがたいことに、宮坂・チャレンジ一派、革同上村一派が牛耳る地方本部などは、闘争団の物販オルグを締め出し、闘争団の糧道を断つという最も卑劣な手口さえ用いている。
 盛岡地本のチャレンジ一派は、音威子府闘争団に支援労組への「謝罪」を要求している。仙台地本のチャレンジ一派は、稚内闘争団に対して「大会を破壊した行動に加わっていた」として、「この事態はこれまでの関係に影響を及ぼさざるを得ない」と恫喝している。このことを見れば、彼らが闘争団を切り捨て、その生活すら奪おうとしていることは明らかだ。

 臨大強行こそ最大の暴力だ

 今、闘争団はこうした卑劣な策動に抗して、JRの職場に入り、「四党合意」の正体を暴き、これは闘争団だけでなく、JR本体組合員自身の問題であることを必死に訴えている。そうした中で、「暴力」キャンペーンは吹き飛ばされ、闘争団とJR本体の新たな団結がつくられつつある。
 それにしても、国労中央やチャレンジ一派、革同上村一派らの反動的な「暴力」キャンペーンを断じて許すわけにはいかない。
 彼らの「暴力」キャンペーンのデタラメさは、あたかも「演壇占拠」などの行動は組合員以外の「妨害勢力」がやっており、それにあおられて一部の闘争団や組合員が加わっていたとしていることである。こういうウソで、闘争団の根底的な怒りの決起を否定し、圧殺しようとしているのだ。
 さらに、そもそも「演壇占拠」を「暴力」だと言うなら、日本労働運動は「暴力」の歴史そのものではないか。とりわけ総評労働運動においては、日教組でも全逓でも、執行部の裏切りに対し押しかけて追及したり、演壇を占拠するなど当たり前に行われてきた。今、「暴力」キャンペーンを張っているチャレンジ一派自身が、八六年十月の修善寺大会に至る過程で、九月の中央闘争委員会の会場になだれ込んだ、当時の青年部の責任者ではないか。
 だいたい、「暴力」と言うなら、国家権力・機動隊を導入し、ジュラルミンの盾で組合員に襲いかからせたのはいったい誰か。組合員を逮捕させてまで、大会を強行したのは誰か。これこそ巨大な暴力だ。これに対する必死の抵抗を「暴力」と非難する資格が誰にあるというのか。
 むしろ、闘争団を先頭とする組合員の決起こそが、国労を消滅の淵(ふち)から救った百パーセント正義の闘いだった。それは国労を解体する「四党合意」を打ち破り、国労の闘う力と団結を示し、国家権力に大打撃を与えたのだ。このような力を敵に突きつけることなしに、どうして国鉄闘争に勝利できるのか。
 さらに七・一の闘いは、JR総連=カクマルに対してものすごい打撃を与えている。カクマルは反革命通信『解放』七月十七日号付で、「“できレース”の国労臨時大会」などと、闘争団の「演壇占拠」は国労中央の「筋書きどおりの進行」だとわめいている。JR東労組の『緑の風』七月十五日付も、同様に「国労は臨時大会で若干のトラブルを演出」などと言っている。JR総連=カクマルは、闘争団を先頭とする国労組合員の力に度肝を抜かれ、「できレースだ」「演出だ」などいう反革命的言辞でごまかすことしかできないのだ。
 七・一臨大は、JR総連=カクマル打倒の力をも示した。こういう力をもっている闘争団こそ「国労の宝」であり、今こそ全組合員の力で支え抜かなければならないのだ。

 執行部打倒し国労の再生を

 この闘争団を切り捨てようとする国労中央は、そもそも「解決水準」をいかに上げるのかなどまったく眼中にない。彼らは別の意図を持っているのだ。それは一刻も早く「闘争終結」を図り、闘争団を切り捨てJR連合に合流するという魂胆である。
 七月五、六日に開催されたJR連合定期大会であいさつした葛野会長は、「JRに法的責任がないことの大会承認は、国労にとって苦渋の選択であっても、速やかに解決し、心新たに民間企業における労働組合としての運動の再構築を心から期待する」と述べている。さらに、明石事務局長は集約答弁で「問題は、その後の国労の体質である。国労との統一という言葉ではなかったが、そのような話があった。……ただ国労については、一つ目に国労が千四十七名問題を解決すること、またもうひとつは組織形態の見直しと国鉄という名前を捨てるべきだということである」とうそぶいている。
 また、葛野は『労働レーダー』七月号で「名実ともに国鉄改革法を認め、JRの使用者責任を問わないことを決めれば、その時点で国労という名前も意味を失うことになる」と露骨に言っている。
 要するに、JR連合が言うように、国労が「四党合意」を認めることは、国労の名称変更や全国単一体の解体に直結している。宮坂書記長らが九八年定期大会の「補強案」で提起した国労の名称変更や組織の再編などは、まさにJR連合との合作であり、「四党合意」受諾の後は、自ら国労組織を解体してJR連合に合流することが狙いなのだ。臨大の運動方針案に言う「将来を見据えての運動と組織展望」とはこのことだ。
 まさに、「四党合意」を認めるのか否かは、闘争団だけでなく、国労三万総体の未来を決する問題である。国労の階級的再生をかけて、八・二六続開大会を絶対に阻止し、現執行部の打倒、新たな闘う執行部の樹立をかちとろう。

 第3章 国鉄決戦に勝利し新潮流運動躍進へ

 この国労臨大続開をめぐる攻防は、日本労働運動総体の命運を決する闘いである。今や労働組合が首切りを承認するか否かということをめぐって、戦後日本労働運動の基軸を担ってきた国労を二分する激烈な攻防となっている。このことをめぐって連合、全労連などナショナルセンターをもまき込む日本労働運動全体の分岐をつくり出している。国労の闘う旗を守り抜くことは、全労働者の課題なのである。
 今、日本の労働者は、産業再生法、民事再生法などによるすさまじいリストラ攻撃にさらされている。大手百貨店の「そごう」が倒産し民事再生法の適用を申請したようなことが、さらに全産業で拡大しようとしている。二〇〇〇年春闘ではすさまじい賃下げ攻撃が吹き荒れた。労働者の生活をかけた闘いが全産別で問われている。
 その中で、電機連合などの連合大単産は、春闘解体方針を今夏の大会で次々と打ち出している。また、全逓大会における「郵政公社化」=民営化推進方針をめぐる激突、日教組大会での「日の丸・君が代」や教育改革攻撃をめぐる左右の分岐など、労働運動全体が激しい流動を開始している。
 この時、国労臨大をめぐって起きている事態を全労働者に訴え、支援を広げていくことは、闘う労働運動の新たな潮流をつくり出し、日本労働運動を再生させる決定的な闘いである。同時にこれは、二〇〇〇年後半の決戦全体の帰すうを決する闘いである。

 9・3治安出動演習粉砕を!

 当面する八・六―八・九広島・長崎反戦反核闘争を大成功させよう。とりわけ「八・六ヒロシマ大行動」への全国の教育労働者の総決起をかちとろう。
 戦後五十五年目の「八・一五」の闘いを、憲法改悪・有事立法粉砕闘争の突破口として闘おう。
 さらに、ファシスト石原による九・三自衛隊三軍治安出動演習を粉砕しよこのする闘いを、朝鮮人・中国人・アジア人民との連帯をかけて、また、新安保ガイドライン攻撃との闘いとして、ファシスト石原都政と全面対決し、都労連を始めとする労働者の総決起で闘おう。
 これらの闘いを組織し、その先頭で闘う党の建設に全力を挙げよう。夏期一時金カンパ闘争を貫徹しよう。機関紙拡大、労働者細胞の強化・拡大の闘いに全力で取り組もう。

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週刊『前進』(1968号2面1)

 沖縄圧殺の戦争会議痛撃する大デモ 基地撤去の奔流が日米帝を揺るがす
 厳戒破りサミット粉砕とどろく

 「帝国主義の戦争会議=沖縄サミット粉砕!」を掲げ、反戦共同行動委員会は結成以来最大の六百人の沖縄現地派遣団を組織して決起し、闘いの大爆発をかちとった。七・三少女暴行未遂事件や七・九ひき逃げ事件、サトウキビ畑での傍若無人の海兵隊演習など、たび重なる米軍犯罪と演習への沖縄人民の怒りと連帯し、七月二十日の嘉手納基地包囲「人間の鎖」大行動、二十一日の名護現地集会とサミット会場=部瀬名(ぶせな)への戦闘的デモ、二十二日の普天間基地撤去闘争と首里城晩餐(ばんさん)会粉砕闘争を連続的に闘った。全学連(大山尚行委員長)は、この闘いのために沖縄現地行動隊と決戦先遣隊がサミット戒厳令の重圧をはね飛ばして名護、那覇など各地で宣伝戦を行い、決戦本番を百八十人の部隊で牽引(けんいん)した。沖縄サミット粉砕闘争の大爆発は、日帝・森政権が狙った沖縄闘争解体、沖縄人民圧殺の策動を完全に打ち破り、普天間基地無条件全面撤去・名護新基地建設絶対阻止に向かって、沖縄闘争の永続的発展の展望を大きくこじ開けた。九州での外相会合と蔵相会合、沖縄での首脳会合という今回の一連のサミットは、帝国主義の危機と矛盾、とりわけ日米争闘戦の非和解的激化と戦争への動き、日帝の絶望的危機をはっきりと突き出した。米帝は危機的な「中東和平首脳会談」の合意に全力を注ぎつつ、クリントンの「平和の礎(いしじ)」演説で、「沖縄は日米同盟にとって死活的に重要」と宣言し、SACO(日米特別行動委)合意貫徹、沖縄基地強化の野望をあからさまにした。そして首脳会合では「朝鮮半島に関する特別声明」「中東和平など地域情勢に関する声明」を発表し、帝国主義各国が延命をかけて、朝鮮や中東やユーゴスラビアで侵略戦争を強行していく意図を露骨に表明した。闘う労働者人民は、これと真っ向から対決して闘いの大爆発をかちとった。

 21日・名護 部瀬名の会場へ進撃
         反戦共同 名護市民と大合流

 七月二十一日、サミット厳戒体制を突き破って全国から結集した反戦共同行動委員会は、名護市内の幸地川親水公園に登場した。二万七千人余で大成功した嘉手納基地包囲行動の高揚感を引き継ぎ、サミット粉砕・名護新基地建設阻止の決意に燃え六百人余が集まった。
 「ついに二十世紀最後の二〇〇〇年、最大の決戦の日がやって来た。沖縄サミット=戦争会議粉砕の戦闘的デモに決起しようではないか。名護市民、沖縄県民と連帯し、全世界から結集している人民と断固合流して、部瀬名のサミット会場に進撃するデモをかちとろう!」||大山尚行全学連委員長の基調報告で全参加者のサミット粉砕の意志はひとつに固まった。
 午前十一時半すぎ、白ヘルメットの全学連を先頭に勢いよく名護市内デモに飛び出した。英語とハングルで「米軍は沖縄と韓国から撤退せよ!」と大きく書かれた横断幕を先頭に進む。
 第二梯団は全国労組交流センターの労働者部隊、そして第三梯団に部落解放同盟全国連合会、婦人民主クラブ全国協議会など諸団体が続いた。全国連の黄色のゼッケンが沖縄の日差しに鮮やかだ。
 ギラギラと照りつける太陽のもと、怒りが汗となって滴り落ちる。沿道で手を振って声援する名護市民、シュプレヒコールに呼応しこぶしを突き上げる子どもたち。数人の中学生が飛び入りでデモに参加した。
 昼の名護市内中心部デモを打ちぬいた部隊は、さらに午後三時、海岸沿いを走る国道58号線の世富慶(よふけ)に再度登場した。いよいよ部瀬名に向けてデモで進撃だ。前方に部瀬名岬の万国津梁(しんりょう)館が見える。「機動隊の壁をぶち破って、サミット会場へ断固進撃しよう!」||ただちにデモは出発した。
 サミット会場をめざし、スクラムを組みシュプレヒコールをたたきつけながら、約三`のデモを戦闘的に打ち抜いた。

 市民とともに総決起集会

 デモに先立ち、反戦共同行動委員会は、午前十時半からサミット粉砕総決起集会をかちとった。集会に先立ち、名護東海岸でヘリ基地建設に反対して闘う金城繁さんの三線(さんしん)演奏が行われた。
 集会で、沖縄からの連帯のあいさつに立った知花昌一さん(反戦地主、読谷村議)は「私たちはサミットに反対する大きなうねりの中で、基地の再編を阻止していきたい」と述べた。
 読谷村で農業を営む知花盛康さんは、「クリントンが来て沖縄基地の役割を評価し、これからも半永久的に沖縄に基地を置いていくという筋書きがはっきりしている。このサミットを絶対に受け入れられない」と述べた。
 次に、三里塚芝山連合空港反対同盟の木内秀次さん、北富士忍草母の会の天野美恵事務局長、動労千葉の労働者が本土からの熱い連帯のあいさつを行った。木内さんは「最前線基地・沖縄と、本土最大の民間出撃基地・成田、三里塚反対同盟は沖縄ととことん連帯して闘う」と語った。
 続いて部落解放同盟全国連合会の金平通雄共闘部長、関西労組交流センターの江渡績(いさお)代表、沖縄労組交流センターの真喜志康彦代表が決意のこもった発言を行った。金平さんは「差別の洪水と闘う部落解放闘争の勝利は、沖縄の人民の闘いとともにある」と連帯を熱く語った。
 決意表明の最後に、全国の大学から初参加した全学連の一年生四人が発言、あふれる闘志に大きな拍手がわいた。
 最後に関西反戦共同行動委の入江史郎代表が行動提起を行い、サミット粉砕へ名護市内デモに出発した。
 この日、沖縄サミット反対実行委員会は正午からさくら公園で集会を開催し市内デモを闘った。全国キャラバンを展開して沖縄に結集した「止めよう戦争への道! 百万人署名運動」は、この集会に大挙して参加した。またヤンバル・ピース・ウェーブ実行委員会は宮里公園で集会後、部瀬名へ向かうファミリーピースウォークを行った。警察の反対運動禁圧を打ち破って、名護市民は米軍基地撤去・名護新基地建設阻止の固い意志をサミットにたたきつけたのである。

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週刊『前進』(1968号2面2)

 20日・嘉手納 2万7100人が基地包囲
          
米兵犯罪に怒り燃える

 米帝のアジア・太平洋最大の侵略出撃拠点=嘉手納基地を「人間の鎖」で包囲する行動が、実行委員会(共同代表・佐久川政一沖縄大学教授ら六人)の主催により、サミット前日の二十日午後二時から行われた。面積約二千ヘクタール、周囲十七・四`の侵略基地は、これまで最大の二万七千百人の人間の鎖で完全に包囲された。
 沖縄労組交流センター、全学連を始めとする反戦共同行動委員会は六百人の大部隊で参加し、完全包囲の一翼を担った。
 反戦共同行動委は、正午頃から、基地北側の「安保の見える丘」から嘉手納町役場に至る平和市民連絡会の受け持ち地域に陣取った。このあたりは、コンクリートの高い塀にさえぎられて基地の中は見えない。しゃく熱の太陽がぎらぎらと照りつける中を、午後一待過ぎから独自の決起集会を開いた。
 東京反戦共同行動委代表で、派遣団長の三角忠さんは、「クリントンが訪日を遅らせるなど、サミットは沖縄県民の闘いによって足元からぐらついている。今日の行動を断囲成功させ、明日はサミット会場へ迫る闘いをやろう」と呼びかけた。さらに沖縄の労働者や本土から参加した人びとが次つぎと決意を語った。
 集会を開いている間にも参加者を乗せたバスが基地沿いの道路を続々と通過したくさんの市民団体がフェンス際に集まった。辺野古の「命を守る会」や「二見以北十区の会」などの名護ヘリ基地反対協は、予定を倍する大結集を実現し、早くから配置についた。
 いよいよ午後二時、第一回目の包囲行動の合図があった。基地の内側に向かって立ち、結び合った手を高く上げてアピールした。上空には報道のヘリコプターが五、六機も舞った。延々と続く人間の鎖。全学連の鎖には、在沖二十八年というアメリカ人の神父が飛び入りで加わった。
 二回目は二時半から、さらに三回目は三時から再び五分間ずつ手をつなぎあい、包囲を成功させた。
 沖縄と日本本土、そしてアジアと世界の人民が連帯して立ち上がり、米軍基地撤去の意思をたたきつけたのだ。

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週刊『前進』(1968号2面3)

 20日・嘉手納 平和市民連絡会が集会
          反基地の国際連帯を
          北富士・天野美恵さんが発言

 二十日午後四時から、かでな文化センターで、「基地・軍隊に反対する平和交流集会」が、「沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会」の主催で開かれた。「人間の鎖」行動の熱気を引き継いで、行動を終えた千人を超える参加者が会場に詰めかけ、熱気にあふれた。
 第一部のアトラクションの後、主催者を代表してあいさつした中村文子さん(一フィート運動の会代表)は、「二十世紀は沖縄にとって受難の世紀だった。沖縄戦はその最たるものだが、あれだけの犠牲を払っても沖縄に平和は戻らず、全国の米軍基地の七五%を背負わされている。今日の包囲行動の共感を持ち続けて、ともに基地撤去へ歩もう」と呼びかけた。
 第二部で「沖縄からの報告」に立った新崎盛暉さんは、「沖縄サミットは、基地の県内移設の雰囲気づくりを狙うものだが、サミット直前に続発した米軍犯罪と南北朝鮮首脳会談はサミットを大きく揺るがしている」と現状を分析、さらに「この間の韓国やプエルトリコ、フィリピンの反基地闘争との交流の中で、沖縄基地問題を世界的広がりの中でとらえ、沖縄の孤立感を克服する契機が生まれている。今日の行動を第一歩とし、サミットを反転攻勢の契機として闘おう」と訴えた。新崎さんの提起は、会場全体の大きな拍手で確認された。
 沖縄と同様に米軍演習で住民が虐殺され、生活と生業が破壊されているプエルトリコと韓国の反基地闘争の代表が登壇した。怒りを込めて被害の状況を報告し、沖縄と連帯して闘う決意を表明した。
 第三部では、フィリピン、ハワイ、台湾、ドイツなどからの参加者に続いて、米軍演習と闘う北富士闘争の現場から、忍草母の会の天野美恵事務局長が発言した。天野さんは、「北富士は五十年間、基地反対・演習反対でゲリラを続けてきた。これからも沖縄と連帯し基地撤去のため、アジアの平和のために体を張って闘う」と発言した。会場から大きな拍手が起こった。
 最後に金城睦さん(弁護士)が閉会あいさつに立ち、「われわれはサミットに先制パンチを食らわせた。基地撤去を求める民衆の決起が、ほうはいと世界各地にまき起こっている。民衆の連帯の力が平和と人権の二十一世紀をつくる大きな力となる。頑張りましょう」と結んだ。
 反戦共同行動委は翌日のサミット粉砕闘争への決意をあらためてうち固めた。

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週刊『前進』(1968号2面4)

 (解説)

 沖縄人民と連帯貫き、名護闘争へ展望開く

 沖縄サミット粉砕闘争は、沖縄全島に超厳戒体制を敷き、マスコミを動員してサミット歓迎ムード一色に塗りつぶそうとした日帝・森政権と稲嶺県政の思惑を完全に打ち破った。七・一五県民大会に続いて、二万七千百人が参加した二十日の嘉手納基地包囲「人間の鎖」行動。その大成功は、沖縄人民はけっして米軍基地との共存など受け入れられないこと、基地ある限り闘いは永続的に続くことをはっきりと突きつけ、翌日からのサミットに先制パンチを食らわせた。
 反戦共同行動委員会は、この沖縄人民の怒りと深く結びついて闘い抜いた。名護と那覇の街に唯一の“サミット絶対反対派”として反戦共同行動委が大部隊で登場し、市民と大合流し、そして嘉手納、普天間、瑞慶覧など米軍基地に肉薄するデモをやり抜いた。この闘いの貫徹でサミット戒厳令の重圧を打ち破り、今後の沖縄闘争の展望を圧倒的に切り開いたのである。日帝のもくろみは完全に破産し、依然として名護新基地建設の進展に、何の展望も見いだせないでいる。
 沖縄圧殺の戦争会議=サミットが示したものは、帝国主義間争闘戦の非和解的激化ということであり、その中で日米帝国主義が沖縄を二十一世紀も「基地の島」として確保し続けようとしていることである。クリントンは二十一日朝、糸満市摩文仁の「平和の礎」の前で演説し、「アジアの平和は日米同盟関係で守られている」「沖縄は、この同盟関係維持のために死活的な役割を担ってきた」と、沖縄基地を今後も無期限に保有する意思を真正面から強調した。
 さらに翌二十二日の日米首脳会談では、基地の再編・強化しか意味しない「SACO最終報告の着実な実施」で日米が合意した。森は沖縄で行われたこの会談で、沖縄基地の整理・縮小や「十五年使用期限問題」について何ひとつふれなかったばかりか、「アジア太平洋地域の平和と安定のために日米安保条約が果たしている役割は大きい。引き続き米軍のプレゼンス(軍事展開)は重要だ」とクリントンに述べたのである。
 これは日米争闘戦の激化と中国・朝鮮―アジア情勢の激動化のもとで、日帝が日米安保と新ガイドラインを水路としながら、沖縄の一層の軍事拠点化と日帝の戦争国家化を進めるということの表明である。
 日帝は、昨年のケルン・サミットの百倍以上の八百億円もの巨費を投入し、陸海空自衛隊や海上保安庁の艦船・航空機、全国の警察官二万二千人を動員して「サミット警備」を敷いた。この軍事体制そのものが、米軍と共同した、沖縄を拠点とする朝鮮・中国侵略戦争準備そのものであったことを徹底的に断罪しなければならない。
 このもとで名護の漁民が長期間にわたって操業停止を強いられ、観光客の激減で業者が大打撃を受け、検問・職務質問・通行規制や、墓まで暴く検索で人権が踏みにじられるなど、沖縄人民は大きな犠牲を強いられたのである。「沖縄県民は国策に全面協力せよ」と迫る攻撃が強制されたのである。それは侵略戦争に動員する攻撃そのものである。
 だが、こうした攻撃は沖縄サミット粉砕闘争の大爆発で完全に打ち破られた。
 米軍犯罪・事故の続発に対する沖縄人民の怒りはいよいよ高まり、南朝鮮の駐韓米軍撤去闘争とも結合して、沖縄闘争は新たな高揚過程に入った。沖縄闘争は米日帝の朝鮮・中国―アジア侵略戦争、中東侵略戦争と真っ向から対決する最前線の闘いである。
 日帝・森政権は絶望的な危機と破産を深め、サミットの終了をもって名護新基地建設のための攻撃に出ようとしている。いよいよ沖縄―本土を貫く基地撤去闘争の爆発が重要だ。断固決起しよう。

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週刊『前進』(1968号2面5)

 三大決戦勝利のため絶大な夏期カンパを

 すべての『前進』読者の皆さん、支持者の皆さん。圧倒的な夏期一時金カンパを革共同に寄せてくださるよう、重ねて訴えます。
 今回とくに強調したいことは、沖縄サミット決戦の圧倒的勝利の地平の上で、まだの方はもちろん、すでにカンパを寄せられた方にも再度お願いしたいということです。その理由は、二〇〇〇年決戦が巨大に発展し、後半戦にかけてますます爆発することが不可避だからです。
 サミット決戦は、権力の超厳戒態勢を打ち破り、闘う本土人民が嘉手納、名護現地、普天間、那覇市内と縦横無尽に登場し沖縄人民と熱い合流をかちとって、日帝にサミットの大破産を強制しました。ここに二〇〇〇年決戦の前半戦は、革共同が革命的大衆行動の組織化を三大決戦として明確にさせて闘うことで、圧倒的勝利的地平をかちとったと高らかに宣言することができます。
 こうした前半戦の勝利の基礎には、皆さんから寄せられた絶大なカンパの力がありました。心から感謝いたします。
 しかし二〇〇〇年決戦の決着はまだついていません。危機と破産を深める日帝・森政権が一層凶暴に襲いかかってくることは明らかです。後半戦の闘いこそが、党と全人民にとって真の決戦となりました。
 国鉄闘争は、八・二六続開大会までの新たな一カ月の死闘に入っています。この続開大会を含め十月中旬の国労定期大会までの三カ月間の動と反動のせめぎあいの中から、労働運動の新しい革命的潮流が躍り出ることは間違いありません。
 また、都知事石原の九・三自衛隊三軍統合治安出動演習を全力で阻止しなければなりません。この闘いは、日本階級闘争が本格的なファシストとの決戦に突入したことを意味しています。
 九・三演習は、「防災」に名を借りて自衛隊の大部隊を出動させ、首都に戒厳令を敷くための治安出動演習、侵略戦争演習そのものです。石原はそのために「三国人」発言で、デマと排外主義・差別主義をあおっています。絶対に阻止しなければなりません。
 私たちはこうした巨大な決戦を闘いつつ、春の衆院選決戦の成果をうち固めて、二〇〇一年の都議選と次期衆院選に向けた闘い、とりわけ十一月労働者集会に五千人の結集を実現するために全力で闘い抜きます。
 自自公−自公保のもとでのすさまじい政治反動と生活破壊攻撃の激化の中で、労働者人民の根底的決起が始まりました。
 すべての皆さん。革共同とともに後半決戦に猛然と突入し、二十一世紀を革命の時代として切り開こうではありませんか。そのためにいま一度、絶大な夏期カンパを心から訴えます。

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週刊『前進』(1968号3面1)

 22日・宜野湾 海兵隊の侵略戦争出撃拠点・普天間基地撤去へデモ
     
 ”クリントン演説は許せぬ”

 サミット二日目の七月二十二日午後、反戦共同行動委員会は普天間基地のある宜野湾市のあすなろ公園で四百五十人「ガイドライン=戦争法を廃止せよ/普天間基地無条件全面撤去」の集会と普天間基地へのデモを行った。
 集会では、前日の二十一日に糸満市の平和の礎で行われたクリントン米大統領演説に対し、各発言者から激しい怒りの表明が続いた。二十数万の沖縄戦の犠牲者の名前が刻んである平和の礎を前にして、ぬけぬけとSACO合意完全実施を宣言し、「礎の心」「命どぅ宝」などの言葉を使いながら、今後も沖縄に米軍が居座り続け、侵略戦争を繰り広げると言い放ったクリントン演説をどうして許せようか。
 さらに基調報告に立った東京反戦共同行動委員会事務局長の結柴誠一杉並区議が、沖縄サミット警備特別派遣部隊の警官が交通事故を起こし、大学生の女性が重傷を負ったことを報告し、弾劾した。
 連日沖縄現地で闘い抜いてきた反戦共同行動委員会は、ますます怒りに燃え、沖縄県民との連帯をかけ、集会と普天間基地へのデモを貫徹した。
 集会は午後一時二十分から新城節子杉並区議の司会で始まった。新城さんは、クリントン演説は、SACO合意をスケジュールどおり行うという沖縄の闘いへの挑戦状だと弾劾した。
 主催者を代表して反戦共同行動委員会共同代表の長谷川英憲さんが、沖縄の怒りと結んで、本土の闘いの決意と行動を一身に体現して闘おうとあいさつ。
 続いて北富士の天野美恵さん、神戸の被災地雇用と生活要求者組合の長谷川正夫代表が連帯のあいさつを行った。
 天野さんは、前日の名護でのデモの時の警察権力の暴言に怒り心頭の弾劾を行い、反戦共同行動委員会の沖縄サミット粉砕決戦の闘いは勝利したと宣言した。
 長谷川さんは、被災地も権力や行政の圧力の中で闘ってきたと話し、本土の人間として沖縄に応える闘いをしたいと決意を語った。
 基調報告に立った結柴さんは、前日の名護現地闘争は、沖縄サミットの戦争会議としての本質を暴き出し、破産させたと総括した。またクリントン演説の中の「私たちはすべての約束を約束どおりのタイミングで果たします」というのは、二〇〇二年までに新基地を建設するということ、基地機能の強化を「整理縮小・統合」という日本政府のペテンを徹底的に暴き出す必要があると訴えた。さらにクリントンが「命どぅ宝」という言葉を使って、かつて琉球が薩摩に支配されたように、米軍支配を沖縄県民に強要しようとしていると弾劾した。
 結柴さんの基調報告の後、連日の闘いへの水や氷のカンパ、救護活動に携わった医療労働者や監視弁護士のみなさんが紹介され、会場から大きな感謝の拍手が送られた。
 最後に西村綾子相模原市議、沖縄労組交流センター、全学連沖縄現地行動隊から決意表明が行われた。
 西村さんは、日本政府は沖縄を犠牲にしてアジア侵略戦争をやろうとしていると弾劾し、沖縄との連帯をさらに拡大し、責任を持って闘おうと呼びかけた。
 沖縄労組交流センターを代表して青年労働者が、七・三米兵暴行未遂事件とクリントン演説は絶対に許せないと、激しい怒りを爆発させた。そして沖縄の未来をつくる闘いをやると力強く決意表明した。
 沖縄現地での闘いを担ってきた全学連沖縄現地行動隊の学生は、安心して眠ることも、平和な暮らしも送れないのが沖縄の現実だと七・三米兵暴行未遂事件を弾劾し、基地撤去しかないと訴えた。そして沖縄は金にも暴力にも屈しないと力強く宣言し、全学連はいつでも沖縄にかけつけ、全力で闘うと宣言した。
 沖縄派遣団団長の三角忠さんの行動提起の後、米海兵隊の航空基地である普天間基地へデモが出発した。
 盾を並べて基地ゲート前を固める機動隊を弾劾しデモを貫徹。デモ隊の「普天間基地の無条件全面撤去」の声に、大勢の中高生が手を振って声援を送る姿が見られた。

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週刊『前進』(1968号3面2)

 22日・那覇 首里城晩餐会を弾劾
         
デモに市民の熱い共感

 二十二日午後六時、反戦共同行動委員会は、サミット歓迎晩餐(ばんさん)会が行われている那覇・首里城へのデモ(反サミット実行委員会主催)に参加した。
 デモは那覇市の中心部、沖縄県庁前からの出発だ。県庁に向かって日帝に屈服し名護新基地建設を狙う稲嶺県政へ怒りのシュプレヒコールをあげた。
 参加者が続々と結集してくる中、デモに先立ち、反戦共同行動委員会は独自の集会を行った。
 まず北中城(なかぐすく)村議の宮城盛光さんと動労千葉の労働者があいさつを行った。
 宮城さんは、クリントン演説は、沖縄に再度の屈辱を強要するものであり、サミットは基地を強化するためのものである、絶対に許せないと訴えた。
 続いて大山全学連委員長は、沖縄県民との連帯をかちとり、首里城へ進撃しようと檄を飛ばした。
 沖縄のたたかいに連帯する東京会議の狩野正幸さんは、韓国やフィリピン、世界の人民と連帯し、沖縄闘争に勝利しようと訴えた。
 全国沖縄青年委員会委員長の新城峯子さんは、「子どもたちの未来を守るために、体を張って血を流してでも、基地を撤去しなければならない。名護では小学生のランドセルや墓の中まで調べている、祖先への冒涜(ぼうとく)だ」と怒りをこめて弾劾した。
 沖縄労組交流センターの力強い決意表明の後、反サミット実行委の出発前集会に合流した。
 主催者を代表して牧師の西尾市郎さんがあいさつした後、フォークシンガーのマヨナカシンヤさんの「G8サミットみんなで粉砕」などの歌声で気勢をあげ、県庁前を出発した。千人近い参加者で膨れ上がったデモ隊は、地元の商店や事務所の人や観光客などの圧倒的注目と共感を集めながら国際通りを抜け、沖縄サミットの歓迎夕食会が行われている首里城に向かって進んだ。
 「サミット粉砕」や「名護新基地建設阻止」を訴えるデモの宣伝カーの声に、道行く人や家や商店からも人が出てきて鈴なりになってデモ隊に声援を送った。一緒にシュプレヒコールをする人や、海外から来た人たちが近づいてきて、エールを交換しあうシーンも見られた。
 首里城まで後わずかとなった坂道の途中で「この先規制中」と表示した電光掲示板と共に機動隊が阻止線を張っている。この先が首里城だ。サミット粉砕の決意に燃えたデモ隊は、不当な規制をものともせず、首里城に向かって拳を突き上げ、戦争会議=サミットを弾劾し抜いた。

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週刊『前進』(1968号3面3)

 ”反サミット派が席巻”−−参加した学生・労働者の声

 全学連は、サミット粉砕決戦の爆発のために名護市内全戸ビラや街宣などを連日担い抜き、闘いを牽引した。その全学連の学生および反戦共同行動委員会沖縄派遣団の労働者から、闘いに参加しての感想を寄せていただいた。(編集局)

 ゛見事に成功゛
■学生(一年・男性)
 最初は嘉手納基地を本当に囲めるのかどうかすごく不安だった。しかし三回目は見事に成功。三回目は僕の隣にも三人、車で駆けつけた人が入ってきた。沖縄の人の「基地はいらない」という気持ちを感じた。
 僕は沖縄現地行動隊に参加していて、一カ月ぶりの沖縄だった。デモをやって、多くの人が家から沿道に出てきて、手を振って、シュプレヒコールもしていた。明らかに沖縄人民のサミット反対の気持ちは大きくなっていた。この情勢をつくりだし、戒厳体制の中でデモをやりぬいたことの一つの力となれたことは本当にうれしいと思った。この三日間に学んだことを本土に伝え、反戦反基地運動を爆発させたいと思った。

■学生(二年・男性)
 これまでの闘いの積み重ねの上に、七・三事件に対する怒りが重なって一気に基地反対の怒りが解き放たれ、サミット圧力を打ち破って最大動員で勝利して、痛快だった&驚きだった。
 「サミット中にデモができるかどうか」というかつての予想を覆して、反サミット派で名護を席巻できて、最高。われわれが、この情勢を切り開いてきたし、当日も部瀬名に向けて唯一デモを叩きつけた。名護市民は闘い続けている。闘いはこれから。

■学生(三年・男性)
 本当にこの広い嘉手納基地をとりかこむ人間の鎖がつながるのか? そんな心配をしたが、とりこし苦労! すごい盛り上がりだった。

■学生(二年・男性)
 手を振ってくれる人がいて、とてもうれしかった。この地平を築いたのは、大部分全学連現地行動隊によるものだと感じた。やはり、サミットは粉砕しかないんだと強く感じた。
 今回はサミット反対で、沖縄への連帯になるのか少し不安な部分もあったけど、やはり、政治的なもくろみは、見え透いていたし、沖縄の人たちこそ、ひしひしと感じていたのだと思う。その中で、その怒りを解き放ってデモを貫徹したことが、本当に勝利だったと思う。

■学生(一年・男性)
 まさにサミットを粉砕しつくすような大デモであったと思いました。このデモで、名護市民との連帯が勝ち取られたと思いました。この連帯はやはり、われわれがこれまで、サミットの反革命性を訴え続け、それと市民の意識ががっちり結びついたからこそかちとられたと思いました。

■学生(一年・男性)
 二万七千人の参加で嘉手納基地を完全に包囲した。それは私たちの基地撤去、反戦平和の心だ。みんなで手をつなぎ、人間の鎖で基地を包囲したとき、本当に感動した。
 サミット粉砕決戦ということで、気合い入れて望んだ。二万人以上の警察権力の弾圧をはねのけ、数々の集会、デモを勝ち取った。沖縄の心をわがものとして、基地撤去まで闘うゾ。■学生(三年・男性)
 基地押しつけ、サミット翼賛化を狙ったどす黒い日帝の野望を完全に打ち砕き、かつ、沖縄−本土を結ぶ闘いが新しく始まったということが認識された。

 人々の熱い視線
■学生(三年・男性)
 デモをしているとき名護の人々の熱い視線を感じた。絶対に基地をつくらせてはいけないと、あらためて強く感じたのでした。

■学生(一年・男性)
 三回目の包囲の準備をしている時、通りがかりの人が飛び入りで鎖に参加した。これを見て、迷いはしたけど沖縄に来て良かった、自分の判断は圧倒的に正しかったと思った。以後の活動のエネルギーにもなった。
 これで闘いが終わったわけではなく、むしろ、闘いの始まりであることもあらためて確認し、地元に帰ってこの闘争の報告を学友にすると共に、新たな戦力を獲得できるような活動をしていきたい。

■学生(三年・男性)
 「サミット歓迎」「平和の発信」という形での基地撤去闘争への規制がかけられる中で、「サミット粉砕」を掲げ、しかもそれが名護住民の支持を得たことに感動した。
 「サミット=粉砕対象」として、つまりは帝国主義打倒以外に沖縄の平和がないということを最後まで訴えることができ、そしてその主張に多くの現地の人が共感してくれた。

■学生(一年・男性)
 一度目のデモは市内で行われ、圧倒的な注目の中、勝利できたと思います。これは名護市民との連帯を完全に貫いた上にあったのだと思います。二度目のデモはとても長かったけど、とにかくものすごい気迫で戦闘的に貫徹されました。僕自身これで、ものすごく空気入って最高でした。
 二十二日のデモが普天間と那覇で行われましたが、このデモが、本当にものすごい声援の中で貫徹されたということです。言葉で表せるほど平易なものではありません。この中で、僕は日本のすべての闘いの原点を垣間見ることができたようなきがします。まだまだ連帯しきれていないけど、一歩一歩前進したいです。■学生(三年・男性)
 とりあえず現地に行ってみるか程度の気持ちで参加したのだが、予想を上回る熱気と決起に感動し放しだった。史上最大の包囲行動、戦闘的なデモなど、まさに人民の怒りが具体化し帝国主義打倒への胎動を始めた沖縄に来たことは大変よかったと思う。今後も沖縄闘争を全力で闘っていきたい。

 断固やり抜いた
■学生(四年・男性)
 サミットで反戦・反基地闘争をつぶし、戦争国家化を押し進めたい政府に対して、断固デモをやり抜いたことは、自分の中の反戦の気持ちをすべて吐き出せたと思う。名護の会場ヘリ基地は絶対にこの手で粉砕したいし、しなければならないことを再度確認できた。こういう行動をガンガンやろうぜ!
 いろいろな闘争で闘ってきたが、沖縄に来たのは初めてだった。沖縄は暑い、やはり現地闘争は熱い、何より沖縄の人々、そして本土から闘いに来た人々がアツかった。自分は戦争に絶対反対し、そして人々の生活を踏みにじる政策に断固反対し、闘い続ける。

■学生(一年・男性)
 サミット戒厳体制・暑さ・一日に二つのデモをやるという不安材料はあったけど、大したことはなかった。それ以上にサミット会場の方に向かってデモ行進ができてよかった。

■学生(四年・男性)
 「サミットは内面的にも表面的にも失敗」。これが唯一の真実です。われわれのデモが一つでも迎え入れられないことがあったか。日帝の狙いが一つでも貫徹されたか。基地絶対反対が日米帝の問題として突き出されたとき、沖縄は屈服したか。すべて否です。このサミット粉砕は必ずやこれからの闘いの原点としてそびえ立つ。

■学生(三年・男性)
 非常にすばらしいと思った。基地に反対する人が結集し、「人間の鎖」を完成することができた。並大抵のことではないと思う多くの人々に希望を与えることができると思う。

■学生(二年・男性)
 段々と自分自身が変わっていくということに驚いた。いつの間にかサミットに対する考え方や思いが、デモという行動によって自分の中に吸収され、最後のデモでは自分の意志による行動として貫徹できたように思う。

■フリーター(二十代・男性)
 とても暑かったが、根性でやり抜いた。もっと部瀬名会場まで近づきたかった。デモ警備もうすかったし、突撃すれば突破できたような気もする。

■労働者(四十代・男性)
 暑さの中で、汗でぬれた手と手をつなぎ基地を包囲できたことは、基地撤去に向け大きな前進をかちとることができたと思う。
 私たちのデモに住民の方々が手を振って応えてくれたことは、暑さの中で消耗していた気力、体力を回復させることができるほど喜びを与えてくれた。また共に闘っている実感が持てた瞬間であったと思う。

■労働者(三十代・女性)
 午前中の市街地でのデモは、人通りは少なかったけど、ほとんどの人が注目し、手を振ったり、ニコニコして見ている人が多かった。会釈するだけで「絶対基地はつくらせない」という気持ちが通じ合ったようで、うれしかった。

■労働者(二十代・男性)
 市内のデモではものすごい数の警察権力がいたにもかかわらず、弾圧をはねのけて市民の声援の中、あらためて、サミットは誰も歓迎していないということが実感できた。
 戦争になって一番犠牲になるのは一般の人々である。軍隊は人々を守るのではなく国を守るためのものだ。だからこそ今、反対の声を上げなければならない。

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週刊『前進』(1968号3面4)

 《投稿》大破産した沖縄サミット
       沖縄労組交流センター
 真喜志 康彦

 七月二十一日から始まった沖縄サミットは、日帝の総力をあげた攻撃にも関わらず大破産に終わった。
 まず、一連の九州・沖縄サミットは、外相会議に米帝・オルブライトの不参加という異常な事態で始まった。極めつけは、クリントンの七・二〇日米首脳会談のボイコットと沖縄サミットへの「出発の遅れ」ということであった。過去のサミットでこのような事態があったであろうか。
 議長国としての日帝・森のメンツは丸つぶれである。「普天間問題」にもたつく日帝に対する米帝の報復的なやり方である。
 当然にも「普天間問題」は議題にも上らず、ましてや「十五年問題」や「沖縄基地の整理・縮小」は問題にもならなかった。このことに稲嶺県知事や岸本名護市長はがく然となった。「平和の発信」どころではなかったのである。
 次に、沖縄県民の反応は「サミットフィーバー」どころか、クリントンの「命どぅ宝」(だから米軍基地は必要)発言に怒りが爆発している。米軍基地に対する沖縄県民の怒りは二十日の「嘉手納基地包囲行動」の二万七千人の結集で示された。
 また、日本全国からの二万二千人の警備は市民生活を圧迫し、「サミットなどこない方がよかった」と怒りがあふれている。
 こうして、沖縄サミットは県民の怒りを買い、大破産した。その根底において全国からの反戦共同行動委員会の決起が大きく情勢をつくりだした。沖縄サミット粉砕決戦を戦略的に見据え、準備してきた勝利性を確認することができる。
 沖縄労組交流センターも微力ながら闘い抜いた。
 闘いはこれからだ。いわゆる「祭りの後」だ。名護新基地建設が動き出すだろう。この攻撃と全力で闘う。八・六ヒロシマ、八・九ナガサキ、十一月労働者集会に全力で邁進(まいしん)する。(投稿)

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週刊『前進』(1968号3面5)

 20日・厚木 ”厚木基地撤去を” 沖縄に連帯し3700人立つ

 七月二十日、神奈川県大和市の引地台公園で「沖縄嘉手納基地包囲に連帯し厚木基地撤去をめざす神奈川集会」が、神奈川平和運動センター、県民のいのちとくらしを守る共同行動委員会、基地撤去をめざす県央共闘の主催で開かれた。婦人民主クラブ全国協と百万人署名運動神奈川県連絡会もこの行動に加わった。集会参加者には、サミット反対を訴える労組交流センターのビラがまかれた。
 嘉手納基地包囲などの沖縄の闘いの大高揚は、本土の労働者人民の新たな闘いへの意欲を生み出している。この日の集会には、沖縄と結んで本土からも基地撤去の闘いをつくり出そうと熱望する厚木爆音訴訟団の住民を軸に、神奈川県内の各労働組合が呼応して、三千七百人が集まった。
 集会の冒頭、嘉手納基地包囲闘争の現場からの電話で基地が完全に包囲されたと伝えられると、大きな拍手がわき起こった。
 主催者あいさつをした神奈川平和運動センターの代表は「沖縄でサミットを開催する政府の意図は、米軍基地の固定化にある」とサミットを弾劾した。基調報告をした基地撤去をめざす県央共闘の代表は、厚木基地の飛行差し止めを訴え、「全国で基地撤去の運動を」と呼びかけた。
 集会後、厚木基地を南北からはさむ形で、二手に分かれてのデモに打って出た。基地のフェンスに達するとデモ隊は次々に立ち止まり、抗議の意思を込めた赤いリボンを結びつけた。
 闘争破壊のために押しかけたカクマルは、各労組の旗が林立する中、JR総連の旗も出せず、反革命的正体を労働者から糾弾され消耗しきった姿をさらした。

 県民大会受け日比谷で集会

 七月十八日、日比谷野外音楽堂で「基地はいらない沖縄県民大会に連帯しよう沖縄からのメッセージ中央集会」がフォーラム平和・人権・環境の呼びかけで開かれ、都高教、東水労や都内の自治労各単組などが結集した。
 集会では嘉手納基地包囲闘争への参加が呼びかけられた。集会後、参加者は「米軍基地撤去」などのスローガンを唱えて東京駅までのデモを貫徹した。
 労組交流センターはサミット粉砕を訴えて集会参加者にビラをまいた。

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週刊『前進』(1968号4面1)

 本部のパートナー路線撤回へ
 「日の丸・君が代」処分−教組破壊と対決し新潮流運動の大躍進を

   マル青労同教育労働者委員会

 教育労働運動が重大な決戦を迎えている。「日の丸・君が代」闘争に対する処分攻撃との闘い、管理強化や新勤評攻撃との闘い、さらに教育基本法改悪阻止の闘いは憲法改悪阻止と一体の一大決戦だ。教労決戦の現局面と二〇〇〇年決戦後半戦の課題を提起したい。

 卒・入学式闘争への処分攻撃うち破れ

 国旗・国歌法成立後初の卒業式・入学式闘争を経て、教労決戦はいよいよ重大な攻防に突入している。
 まず第一に、「日の丸・君が代」攻撃との攻防である。文部省は六月二日、各都道府県・政令指定都市の小中高の卒・入学式における「日の丸・君が代」実施率を発表した。発表された実施率は、数字の上では急上昇した形となっている。だが、教育現場の粘り強い抵抗闘争で依然「日の丸・君が代」が式場・式次第に入り込めていない実態があり、制圧とはほど遠い。
 「日の丸」掲揚・「君が代」斉唱が強行された学校では、生徒・保護者の不起立・退場の闘いが飛躍的に広がった。卒・入学式自身が生々しい階級闘争の場に転化し、「日の丸・君が代」強制をめぐる非和解的対立とその闘いの高揚が全社会に浮き彫りとなった。
 このことに危機感を燃やす文部省・各都道府県教委は、卒・入学式闘争への報復処分、決起した生徒への呼び出し調査、実施率が依然低い地域への集中攻撃を強めている。
 処分攻撃では、生徒の退場への指導拒否を理由とした教員への処分(大阪府立高)、市教委の頭越しの県教委の校長に対する処分策動(広島県府中市)、後述する国立A小の教員への処分策動など、その内容において重大なエスカレーションが狙われている。
 こうした中で、産経新聞など右翼やファシスト勢力が「西の広島」と並んでシンボル的に攻撃のターゲットとしているのが、「日の丸・君が代」のまったくない「祝う会」を続けてきた東京・国立市である。
 国立の卒業式では、都教委と右翼の圧力のもとで、警察が教職員を排除して校長が屋上に「日の丸」の掲揚を強行しようとした。これに対してA小学校では、卒業生が式後に校長に説明を求めた。このことを、産経新聞が事実を歪曲した校長報告書をネタに「児童が校長に土下座を要求した」などと中傷し、その背後に「偏向教育」があるとするキャンペーンを連日のように繰り返している。
 四月二十六日には、右翼が街宣車六十台で市内を行進し、中学校の周辺では「A小の卒業生出てこい」などと連呼した。A小では当日、午後の授業をとりやめ、児童が集団下校せざるを得ない事態となった。さらには、「子どもを誘拐して殺す」などと書かれた脅迫状がいくつかの学校に郵送される事態まで引き起こされている。
 A小の事態は衆院文教委でもやり玉にあげられ、都議会では都知事・石原が「グロテスクな出来事」などと言い放ち、自民党文教部会も動き出している。都教委は、「市教委の報告書は不十分」として自ら教職員に対する調査にのりだし、取り調べまがいの事情聴取が行われてきた。そして、「卒業生に職員会議の内容をもらし、校長への反発をあおった」「式当日の朝まで校長に話し合いを求めた教員は、教育公務員としての自覚にかける」などと教職員への処分が策動されているのである。
 こうした凶暴な攻撃こそ、「日の丸・君が代」強制の道理のなさの表れであり、敵の攻撃の破綻(はたん)性を示すものである。産経新聞を先兵とする右翼、自民党・文部省、都教委一体となった「国立の教育」へのむきだしの介入・支配に対し、全国から怒りの反撃を叩きつけなければならない。

 管理強化・既得権のはく奪を許すな

 第二に、「日の丸・君が代」闘争の基盤をもなしてきた、教育労働者の職場の団結と抵抗を解体する管理強化の攻撃である。
 文部省が今年度より学校教育法施行規則を改悪したことにより、職員会議の補助機関化(「職員会議は校長の補助機関」と明記して、その決定権を奪い、教職員と校長の意見が対立しても校長の独断専横をまかり通らせる)、地域住民参加の学校評議員制度の設置によって校長権限を強化するなど、全国で管理規則改悪が強行されている。
 東京や広島で主任制の実動化にむけた新たな攻撃が始まっている。東京の人事考課制度は、「自己申告書を提出しない者は強制異動の対象とする」という恫喝で自己申告書の提出が強要され、強引に実施に移されている。教育改革国民会議の審議事項には「不適格教員の配転基準」「教員免許更新制」が挙げられ、「指導力不足」「不適格教員」の名によって、組合活動や平和教育実践への弾圧とパージが策動されている。
 第三に「服務規律是正」の名による勤務時間運用、時間内組合活動、自宅研修権など、既得権をことごとく奪い去る攻撃である。時間内組合活動に関しては、広島高教組への大量処分、広島、三重での過去にさかのぼった給与返還請求などの不当労働行為、組織破壊攻撃がかけられている。
 これらは、「日の丸・君が代」攻撃と一体で教組運動の路線的変質を迫るきわめて政治的な攻撃であると同時に、「高コスト構造是正」の名による官民を通じた資本攻勢の一環である。
 勤務時間運用の改悪による休息・休憩時間のはく奪は、労基法改悪の一斉休憩廃止の波及である。時間内組合活動への攻撃は、チェックオフ禁止論に示される連合労資関係の転換と軌を一にしている。
 また文部省の調査研究協力者会議は五月、教育労働者と保護者の切実な要求である「三十人以下学級の実現」を退け、非常勤・再雇用を活用した能力別授業編成をうちだす報告をまとめた。常勤教員の授業時間を非常勤講師に分割することを奨励するこの報告は、教労版のワークシェアリング・雇用ポートフォリオというべき代物である。
 教育労働者に激しい攻撃を集中しつつ、首相の諮問機関・教育改革国民会議は、五月以来三つの分科会でハイペースの論議を進めている。九月に予定される中間報告には教育基本法見直しが盛り込まれようとしている。奉仕活動義務化、専門教師による道徳指導(第一分科会)、小・中・高の独立法人化の検討(第二分科会)、十五歳からの大学への「飛び入学」(第三分科会)など、戦後教育を大転換させる教育改革を次々とうちだしている。

 8・6に総結集し広島に続き闘おう

 このように日教組運動の存亡にかかわる大攻撃がかけられているにもかかわらず、連合日教組指導部は七月の第八十八回定期全国大会において、何ひとつ反撃する方針を打ち出さず、二〇〇〇年度運動方針はこの期に及んでも破産したパートナー路線にしがみつく代物となっている。
 「日の丸・君が代」攻撃については、昨年の大会で運動方針に復活させた「強制反対」を再び消し去り、「対立を増幅させない」などという屈服方針となっている。教育基本法改悪に対しても、右翼文化人で固めた教育改革国民会議そのものには反対せず「連合を通じて意見反映をはかる」というのである。
 だが、本紙前号に既報のとおり、大会では広島両教組からパートナー路線への公然たる反旗が翻され、旧来の左右の枠を超えた分岐が生み出されつつある。
 二〇〇〇年後半の教労決戦と教育労働運動の階級的再生にむけて、以下の三点を訴えたい。
 第一に、沖縄サミット決戦の爆発を引き継ぎ、八・六広島に総結集しよう。
 八月広島・長崎反戦反核闘争は、沖縄と並ぶ反戦闘争拠点をめぐる攻防であり、「侵略・戦争を再び繰り返すな」という労働者の階級的原点を再生し、新たに発展させていく闘いである。同時に八・六広島は、森・自公保政権による戦争国家体制づくりの環である「日の丸・君が代」攻撃−教育基本法改悪攻撃との最大の攻防点である。
 文部省による「是正指導」とそのもとで繰り広げられた右翼、自民党、反動勢力一体となった「広島の教育」への攻撃こそ、教育基本法を踏みにじる暴挙であった。広島両教組が平和教育・解放教育を通じて反戦意識を継承し発展させる役割を果たしてきたことへの弾圧であり、ヒロシマつぶしそのものであった。その踏み絵が「日の丸・君が代」の強制であった。
 広島両教組は、不退転の決意で「徹底対決」の闘いに立ち上がり、報復的な組織破壊攻撃をもはねかえして辰野教育長を追いつめている。世羅高校の教職員と生徒の闘い、新市(しんいち)の中学生の決起は、全国の教育労働者を始めとする人民を鼓舞激励し、今春の卒・入学式闘争を切り開いた原動力であった。この闘いは、「日の丸・君が代」闘争の永続化の展望を切り開くと同時に、教育基本法をめぐる階級対立をも明示し、一大政治決戦を切り開きつつあるのだ。
 何よりも教育労働運動にとって、八・六広島の闘いは、日教組運動の階級的再生をかけた新しい潮流運動である。パートナー路線に反旗を翻して不屈の対決・抵抗の闘いを繰り広げる広島両教組を防衛し、これに続く決起をかちとろう。
 第二に、ファシスト石原打倒へ、都労連の最先頭で九・三自衛隊三軍演習阻止へ決起しよう。
 自民党支配の危機と野党の総転向の深まりという政治情勢の中で、ファシスト石原との対決は、いよいよ重大となっている。石原は、腹心の浜渦を副知事に任命し、重要ポストに剛腕局長を配置し、都労連を解体する分割・民営化型リストラ攻撃にのり出そうとしている。教育長には、リストラの総元締めである現総務局長の横山を任命して、都立高統廃合・民営化攻撃を強めようとしている。
 九・三自衛隊三軍演習は「周辺事態」における国家総動員体制の予行演習であり、都の労働者に戦争協力を強制する攻撃だ。「日の丸・君が代」で学校を制圧し、「心の東京革命」で教育労働者に愛国心教育を強制する攻撃と一体である。全都の教育労働者は、九・三三軍演習阻止の都労連決起の最先頭にたとう。
 第三に国労臨大決戦に総決起し、階級的労働運動の新潮流運動に合流しよう。
 七・一国労臨大での闘争団・家族の決起は、教育労働者の魂を激しく揺さぶっている。《労働者には譲れない魂がある、労働運動には超えてはならない一線がある》という叫びが、修善寺大会に続いて現場組合員の力で闘う路線を守り抜いた戦闘力が、パートナー路線下で苦闘する教育労働者を限りなく激励している。
 思えば、日教組本部は、スト処分による昇給延伸という敵の兵糧攻めの前に、労使協調路線に転じ全国統一闘争を放棄した。文部省との密約を党員協で意思一致しつつ、現場組合員にはだまし討ちで寝耳に水の路線転換を強行したのが、九五年の第八十回定期大会であった。国家権力への敗北主義と組合員不信に貫かれた民同労働運動のこうした手法は、国労本部の四党合意承認の臨大強行策動とも通ずるものがある。
 十三年間に及ぶ国鉄闘争の地平とその中で培われてきた階級的団結の質に改めて学ばなければならない。四党合意をめぐる激突のただ中から、階級移行した既成指導部と決別し、国鉄労働運動の新たな階級的路線と指導部が生まれ出ようとしている。この闘いに肉薄しなければならない。
 「日の丸・君が代」強制、人事考課制度をめぐり、日教組運動は自らの存亡をかけて第二の勤評闘争を決意すべき時がきている。五六〜五七年の勤評闘争が五七年国鉄新潟闘争や五八年の全逓の団交実力再開闘争と連なる闘いであったように、二〇〇〇年教労決戦もまた、国鉄決戦と一体で階級的労働運動をつくりだす闘いなのだ。
 現場組合員の力で闘う路線と方針をもぎりとり、広島に続く徹底対決の闘いにたちあがろう。新潮流運動の大前進を切り開こう。

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週刊『前進』(1968号4面2)

 法大経営学部 学生大会に1500人
 ”権利守り戦争に反対する” 自治会つぶしに反撃

 法政大学経営学部自治会は七月十日、二〇〇〇年度定期学生大会を千五百人の結集でかちとりました。日帝=文部省が全国大学で学生自治破壊を策動する中、全学連の拠点校・法政大学で学生大会が大結集でかちとられたことは、法政大学当局はもとより、日帝=文部省に痛撃を与えたことは間違いありません。
 日帝は沖縄サミットをもって朝鮮侵略戦争を強行しようとしています。大学に対しては学生の自由と権利を圧殺し、侵略翼賛大学化攻撃を狙っています。
 このような中で、私たちに問われていることのひとつ目は、学生自治会を守りぬき、全学生の自由と権利を体現するものとして登場させることです。経営学部自治会では学生の個別分断化が進む中、クラスやゼミなどにおける学生の団結の強化を促進してきました。学生一人ひとりの横のつながりが学生自治を保障する土台です。学生総体の問題意識に肉薄し、体現していくことも求められます。
 問われていることのふたつ目は、われわれ学生がどのようにあるべきかということを提起し、一致していくことです。闘う沖縄人民、南朝鮮・韓国人民と連帯し、日帝の朝鮮・中国侵略戦争策動に対して真っ向から立ち上がっていくこと、沖縄サミット粉砕闘争、八・六広島闘争に決起していくことです。
 このふたつの課題はまったく切り離せないものです。学生の自由・団結意識が根底にあってこそ反戦闘争への全学的決起がかちとられるし、反戦勢力が学内主流派として登場していてこそ学生の自由と権利が保障されるということです。
 学生大会では、「一、学生の自由と権利を守る取り組み。二、戦争と差別に反対する取り組み」という二〇〇〇年度方針が承認されました。
 ひとつ目の課題では、クラスコンパ、クラス名簿づくりを促進し、学生の要求を自治会を先頭にして実現することが確認されました。ふたつ目の課題では、沖縄サミット決戦に代表派遣団を送ること、ファシスト=石原都知事に辞任を求める取り組み、九・三自衛隊三軍統合演習に反対することが確認されました。沖縄現地闘争には多くの一年生が決起しています。
 学生大会の議事終了後、大仁田厚氏を講師として記念講演会が行われ、盛り上がりを見せ大成功でした。学生の問題意識や希望をとらえて記念講演の講師を選び、学生が何かをつかめる講演会にするという意識性が成功の鍵でした。
 最後に、勝利の鍵は、学生の決起に確信を持ち、学生全体に責任を取りきるという立場で学生大会に臨んだことです。全国大学で学生の自由と権利を体現する堅忍不抜の自治会づくりに取り組もう。法大生は最先頭で闘う決意です。

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週刊『前進』(1968号4面3)

 《投稿》検証・介護保険−−その破産と悲惨な現実

 介護保険制度施行から四カ月がたち、その破綻があらわとなり、いたるところで事故や犠牲が頻発している。介護保険制度は絶対に廃止しかない。A市で起きた一人暮らしの高齢者宅での火事について、グループホーム職員のEさんから投稿が寄せられました。(編集局)

 原因は介護保険 要介護高齢者に一人暮らし強制

 二〇〇〇年五月、A市の一人暮らしの高齢女性Bさん宅で、火事が起きました。幸いBさんは無事でしたが、この火事は介護保険によってもたらされた事故です。六月二日付商業新聞をもとに検証しました。
 Bさんは軽い老人性痴ほう症で施設に入所していましたが、介護保険制度により「要介護1」の認定を受けて、介護保険施行を前に今年三月末に施設を出され、四月から自宅で一人暮らしを始めていました。
 そして訪問介護サービスを民間大手の指定業者と契約し、ヘルパーによる食事の準備などの家事介護を、毎日午前十時〜十一時と、午後五時〜六時の二回ずつ受けていました。
 家族はヘルパーに「火を使わせないでほしい」と念を押していましたが、ヘルパーは当日、午後五時にBさん宅に着き、Bさんに「電気炊飯器のスイッチを入れるよう」頼み、買い物にでかけました。Bさんは間違って、炊飯器ではなくガスコンロの火をつけてしまいました。火事は午後五時三十分頃に起きました。
 Bさん宅には、同じヘルパーがこれまで十回ほど来ており、火災後、家族はヘルパーから「炊飯器のスイッチは八回ほど頼んだが、大丈夫だった」と説明を受けました。家族は「痴ほう症の老人は日々状態が変わることに配慮してほしかった」と話しています。
 この火事の原因は、介護保険制度にあります。介護保険施行によって、Bさんは入所していた施設を追い出されてしまいました。介護保険制度では「要介護1〜5と認定された高齢者は施設入所出来る」とされているにもかかわらず、追い出されたのです。それは介護保険によって、施設の収入源が入所者各人の要介護度に応じて支払われるという(介護報酬)仕組みに変わったからです。
 前制度では、特別養護老人ホームの運営は「措置費(公費=税金)」で、老人保健施設の運営は「施設療養費(医療保険七〇%、公費三〇%)」で賄われてきました。 いずれも要介護度に関係なく、特養の場合は入所者一人当たり月額約二十七万円、老健は約三十三万円が施設に支払われてきました。(八八年資料)
 介護保険では入所者の要介護度に応じて一日の単価を決めるので、要介護度の高い高齢者を入所させるほど収入が増えます。施設は要介護度3〜5の入所者の割合を高くしなければ運営が困難と言われ、Bさんのような要介護度1〜2の高齢者は施設からはじき出されてしまったのです。
 しかし要介護度が低いからといって、決して自立生活ができるわけではありません。要介護認定の1〜5は「要介護状態である」ということであり、「要介護状態」の定義は「寝たきりや痴ほうなどで、常に介護を必要とする状態」とされています。またBさんのような軽度の老人性痴ほう症の特徴として、「今までできた作業(家事、買い物)にミスまたは能力低下が目立つ」(臨床的判断基準)とされており、少なくとも常時見守りが必要な状態です。そのようなBさんが十分な介護の保障もない在宅で、一人で、事故もなく、安全に暮らせるはずがありません。
 Bさんは火事で家に住めなくなったため、現在施設に入所しています。Bさんが戻った施設は短期入所施設であるため、家族は特別養護老人ホームを探して十数カ所に問い合わせましたが、最高百人が待機している状態です。(厚生省は介護保険制度導入後は特別養護老人ホームをほとんど増やさないという方針です)
 介護保険制度は「介護を社会全体で支えるために生まれた」とうたい、保険料だけは社会全体から一人残らず徴収しますが、施設も増やさず、少ない施設からも金にならない高齢者は閉め出し、在宅介護は細切れの宅配のような介護サービスしか提供されません。

 ヘルパーは… 事業者と利用者のはざまで繁忙

 介護保険制度では、ヘルパーさんの訪問サービス時間は、原則一時間単位となっています。
 事業者は時間で金を稼ぐ制度なので、一時間で切り上げ、別の利用者の介護に向かわせます。ヘルパーさんがもう少しやってあげたいと思っても、時間がきたら別の利用者宅に向かわねばなりません。ヘルパーさんは事業者と利用者のはざまに立たされ、繁忙さは極まり、人間的な心が否定されていきます。
 今回の火事では、ヘルパーさんは午後五時に訪問して、Bさんに炊飯器のスイッチを入れることを頼んで買い物にでかけました。火事が発生した午後五時三十分には、ヘルパーさんはまだ買い物から帰っていませんでした。食事準備ででき上がった総菜を買うだけで三十分以上かかり、それから食台にならべ、食べられるようにするまでを一時間以内でしなければなりません。訪問してすぐに買い物に走らなければならないくらいですから、食事準備に一時間いっぱいかかっていたと思われます。
 ヘルパーさんがBさんに炊飯器のスイッチ入れを頼んだことについて、県ホームヘルパー協議会事務局は「なるべく自立を促すのが制度の趣旨。痴ほうの人はムラがあるし、要望も様々なので、どこまでがヘルパーの業務かの線引きはヘルパーの判断」と言って火事の責任を転嫁しています。しかし訪問してすぐに買い物にでかけなければ間に合わないのに、どうしてその日の状態を確認できるのでしょうか。またその日の状態を確認できないのに、どうして痴ほう症老人の自立を促すことができるのでしょうか。派遣されたヘルパーさんにとって、時間がなく、「業務の線を引く判断」ができないような仕事になっているのです。
 訪問して、心の通う会話もなく、お年寄りの状態を無視して、炊飯器のスイッチ入れを頼み、買い物に走り、食事を準備するだけで精一杯という中で火事が起きたのです。介護保険制度で、ヘルパーの訪問時間を原則一時間に限定していることに無理があり、このような事故が発生したのではないでしょうか。
 どんなに部分的な介護といえども、その人に合った介護があります。それはじっくりと話を聞いたり、観察して、初めて知ることができ、そうして初めてその人に合った介護ができるのです。一時間の訪問時間では、そうした会話もできず、最低限必要な介護を、機械的にこなすという、ヘルパーにとっておよそ介護とは言えない非人間的なサービスを一日中、コマネズミのように宅配して回らねばならないのです。

 家族にとって 事業者が利用者を選別する制度

 介護保険は「利用者本位の介護サービスの提供」を基本理念とし、「サービスの主体はあくまでも利用者であり、利用者自らがサービスを選択し、決定することを基本とする」とされています。また介護保険における介護支援サービス(ケア・マネジメント)の基本理念の中核は一貫して「介護サービス利用者の立場に立つ」とされています。
 しかし、Bさんの家族は「(Bさん)本人が炊飯器のスイッチを入れていることを聞いていたが、介護を受けている負い目があって、会社側には言えなかった」と話しています。この話からうかがうと、介護サービスが利用者の立場に立って提供されていたと言えるでしょうか。また介護保険制度は利用者本位になっているのでしょうか。
 介護を社会保険形式にした意義のひとつに「利用者の選択の尊重」が掲げられています。そして「民間業者などの多様な事業主体の参入による民間活力の活用も図られ、実質的な選択の幅が拡大することから、高齢者による選択という観点からみてふさわしい制度」として、利用者が事業者を選択できるとしています。
 しかし在宅サービス事業は公的サービスの委託料や助成金が削減され、営利を目的とした民間企業がばっこしつつあります(コムスン、ニチイ学館、ベネッセ、日本介護サービスなど)。これらの企業は採算の取れるサービス提供を優先させます。現実に、全国千カ所以上の拠点と一万人以上のヘルパーを抱える業界最大手のコムスンは六月十五日、採算の合わない過疎地の事業所の閉鎖と、社員千六百人のリストラを発表しました。過疎地域では保険料だけ払って介護を受けられない状態になります。低所得者や重度の介護も拒否されかねません。
 介護保険は「利用者が事業者を選ぶ」という宣伝になっていますが、「事業者から介護サービスをお金で買う」ようになったため、逆に事業者が利用者を選ぶことになってしまいます。
 家事援助は報酬単価が低く抑えられているので、頼む方も負い目を感じ、なにも言えなくなってしまいます。今回の火事は、福祉を営利化するという介護保険制度の根本的な矛盾から発生していると思います。

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週刊『前進』(1968号5面1)

 警察とカクマルに全面投降した白井朗を徹底粉砕せよ
 革共同破壊の反革命策動許すな
  宇津井 剛

 白井朗は完全に反革命の立場に移行してしまった。腐敗を極め、これまでの革共同の闘いと歴史を否定しているばかりか、それを汚し破壊しようとしている。白井は革共同から脱落・逃亡した途端、反帝・反スターリン主義世界革命戦略やその理論を投げ捨て、九八年の逮捕と自供とその後の過程をもって完全に階級移行したのである。白井の主張なるものが、プロレタリア世界革命の実践、その一環としてのファシスト・カクマルとの革命的内戦に対して終始敵対視し、その意義を否定していることは驚くばかりである。革共同は階級的怒りを込めて、白井の革共同破壊策動を徹底的に粉砕することを重ねて宣言する。

 権力への屈服居直り「正当化」する卑劣漢

 白井朗は反革命の立場に完全に転落した。
 そのことを示す決定的事実の第一は、白井は権力への投降分子であり、もはやどのような意味でも階級闘争を語る資格などない、恥多き反階級的な卑劣漢に成り下がったということである。この点を確認することは、階級闘争を担う者にとって決しておろそかにできない原則問題であり、重要なことである。
 白井は九三年に革共同から脱落・逃亡した後、九八年に金沢のホテルで自滅的失火を起こして権力に逮捕された。都合のいい時には、自らを「革共同政治局員」「最古参の最高幹部」などと名乗っていながら、それを名乗ったら革共同の指導部と見なされて弾圧を受けるとみるや、白井は「自分は革共同からは逃亡しました。革共同の一員ではありません」と言い訳したような人物なのである。
 白井は「失火事件は事実なのですべて取り調べに応じて、一旦はその件は終了した」(『中核派民主化宣言』八三n)と書いている。一体いつから革共同が、事実か事実でないかで完全黙秘をしたり取り調べに応じたりと使い分ける党になったというのか。
 そして「ホテル宿泊が偽名であったため旅館業法違反で逮捕状を執行された」件については、「すでに失火事件についてはすべて取り調べに応じているために、黙秘は意味がないと判断した」(同八四n)と居直っているのである。
 要するに白井は初めから敵権力と完全黙秘で闘うという思想性や立場をもっていないのである。敵に捕らわれたときに自ら名前を明かさないことや、事件の大小にかかわらず完全黙秘をもって対決するのは革共同の同盟員のイロハである。白井は、権力の弾圧を回避したいという一点で、自分の意志で権力の取り調べに積極的に応じたのだ。こういうのを権力への屈服というのである。
 白井は釈放してもらうために、べらべらしゃべる無節操な輩であり、帝国主義者への屈服を恥じない人物だったからこそ、権力は略式起訴・罰金刑の判決ですませたのである。これまでこの種の事件で逮捕されて完黙して闘った革共同の同志で「罰金刑で釈放」というのは聞いたことがない。
 「釈放をかちとり、原稿を完成することが私の階級的任務であると判断した」(同八四n)というが、権力と闘うことを第一の階級的任務としないような立場とはどういう立場なのか。権力と闘えない思想で書かれている白井の原稿とは一体何だというのか。それこそ、闘う運動と革共同を日帝権力と一体となって破壊する目的の原稿なのだ。

 3・14復讐戦を否定し本多書記長を裏切る

 第二は、白井がカクマルとの革命的内戦を完全に否定しており、三・一四復讐戦を否定し、先制的内戦戦略の第一段階(フェーズT)、第二段階(フェーズU)の闘いを否定しているということである。
 白井はなんと、ファシスト・カクマルの「訪問」に対してまったく闘わなかったばかりか、反革命に命乞いをし、投降・屈服した上で、果ては「談合」までしたのである。
 白井にはカクマルに対する怒りなどかけらもない。カクマルが反革命であるという階級的規定とも無縁となった。本多延嘉書記長は命をかけて反革命カクマルと闘い、無念にも虐殺された。その対極に、カクマルと取り引きして、生きている白井朗が存在している。反革命に命乞いし投降した上で、革共同破壊のために、かつて革共同指導部であったことを材料にカクマルと反革命的に談合したのだ。そこでデタラメなことをしゃべりまくり、闘う人間であれば絶対にしないことをして平然としているのだ。白井は身も心もカクマルに売り渡した投降分子である。この一点だけでも、白井は階級闘争から追放されなければならない。
 また白井はカクマルとの革命的内戦の意義を完全に否定している。
 革共同は本多書記長を先頭に、破防法弾圧を打ち破って七〇年決戦を党の総力を挙げて闘った。その決戦の真っただ中で、カクマルは「権力と闘ったから」という理由で七一年十二・四反革命を凶行した。革共同はこの反革命との闘いを、日本階級闘争の発展が生み出した、独特の形をとった不可避な内戦として受け止め、二重対峙・対カクマル戦として闘ってきた。今や白井はこの闘いを全否定し、カクマルの本多書記長への虐殺に対する三・一四復讐戦に反対している。
 「たしかに復讐戦は必要であった。しかしそれを軍事主義的に徹底する方法ではなく、…政治宣伝と大衆闘争に力をいれることでカクマルを凌駕し究極的な勝利を獲得する方法を追求するべきであった」(同七三n)白井はカクマルとの内戦が軍事を抜きに戦えたかのように描き出している。三・一四復讐戦の爆発が革共同を守り抜いたのであり、二重対峙・対カクマル戦の勝利を切り開いたのである。
 さらに許せないことに、三・一四虐殺は本多書記長にも誤りがあったと、カクマルへの怒り、自己の主体的な責任を抜きに言及している。「(本多書記長が)自分自身の戦争の方法を十分練り上げられないままに……彼の本来の落ち着いた判断力を低下させた結果があのような悲劇的な事態をうみだしたと考えている」(同七二n)。絶対に聞き逃せない言葉だ。
 その上許せないことに、白井は先制的内戦戦略のフェーズTの闘いを全面的に否定したうえで、フェーズUの闘いを敗北主義的に描き上げることに必死になっている。「この誤りの決定的な深化はいわゆる先制的内戦戦略の第二段階(PU)の決定であった。……その誤りの頂点は八六年サミット粉砕の軍事主義であった」「国家権力に軍事的に敗北した事実を正面から認めて、先制的内戦戦略の第二段階(PU)を否定する総括がいま求められている」(同七四n)と言う。
 反革命との闘いは先制的内戦戦略のフェーズT、フェーズUの戦争方式をとって初めて可能だったのだ。ファシスト・カクマルとの内戦を革命戦略的に位置づけ、革共同が民間反革命と積極的に闘って勝利してきたことが、今日の革共同と闘う人民の隊列を防衛してきたのだ。革共同は、ファシストと最もよく闘ったし、今も闘っていることで人民の尊敬をかちとっているのだ。実際この闘いの勝利的貫徹が今日のファシスト・カクマルの弱体化をもたらし、人民の闘いを活性化させているのである。
 特に、フェーズUの闘いは、ファシストとの死闘が続いている条件下にあって、いまだ革共同がそれに基本的に制約されている中で、日帝の反動政策への踏み切りと革共同への絶滅攻撃に必死で対応した闘いであった。このフェーズUの闘いはゲリラ・パルチザン戦という形をとって、戦後政治の総決算攻撃と天皇制攻撃による総転向攻撃に反撃し、三里塚闘争、国鉄闘争などを守ることで、戦闘的大衆闘争を切り開いていったのだ。九〇年決戦の勝利に上りつめる過程は、現在の五月テーゼ下の戦闘的大衆闘争を準備する闘いでもあった。今日の戦闘的大衆闘争はフェーズUの闘いなくして語れないのだ。
 「国家権力への軍事的敗北」などと歴史を偽造する白井は、今日の革共同と戦闘的大衆闘争をつくり出してきた土台的闘いそのものを否定している。それこそ自ら権力に屈服し、カクマルに命乞いして革共同と戦闘的大衆闘争を破壊しようとしている白井の転向した姿を象徴的に示している。

 共産主義者としての自己崩壊が最大根拠

 第三は、白井があたかも「分派闘争」「党内闘争」であるかのように装っているが、とんでもないということである。白井は自己の破産を理論的粉飾をもってごまかそうとしてきたが、理論的にも完全に破産した結果、脱落・逃亡したのである。日々、日帝と闘っている革共同に対する憎悪、その破壊願望をむきだしにしているだけである。
 @まず、白井は「党が理論問題を封殺した」というような言い回しをし、あれこれ何か理論問題で革共同と白井が対立し、白井がそれを契機として理論闘争をする立場で党から脱落したかのように押し出そうとしているが、事実はまったく違う。白井は組織原則にのっとった問題解決の闘いを何ひとつしなかった。責任を取ることを放棄したあり方が批判され、それに耐えられなくなって逃亡したのである。
 白井の問題は、九〇年決戦の真っただ中に、政治局としての政治指導・組織指導の放棄、現実的な運動と戦争の責任を一切取らない問題としてあった。自分の意見を組織原則にのっとって討論することを放棄したことに根拠がある。問われたのは、白井自身が革共同の一員(指導部)として、反帝・反スターリン主義世界革命の綱領的立脚点に立ち、組織原則にのっとって闘うかどうかだった。
 そのことを、白井自身が自己批判で明らかにしていた。「私は『共産主義者』の責任者であるはずなのにその指導責任を果たしていないで……私一人だけが、党の理論の向上のために努力しているかのようなポーズを取っているが、『恐ろしくクダラナイ』態度である、という批判を全面的にうけいれなければならない」「私は全同志の批判によって、会議においてはそれを認め、自己批判を約束しながら、アジトに帰ると別のことをやり、まったく別の主旨の文書や手紙を書く、というおよそボルシェビキ的ではない作風を八カ月も続けたことについてふかく反省せねばならぬと思う」(『共産主義者』一二三号一四三n)と白井は自己批判していた。
 A次に、政治局声明で明らかにしたように、白井の脱落・逃亡は、共産主義者としての内的な自己崩壊が最大の根拠だった。それが白井の組織指導の問題に象徴的にあらわれたのである。
 白井は革共同の指導部でいながら、「個人的」特権に固執し、これ以上ないほどの官僚主義であった。白井の官僚主義的体質と革共同は我慢強く闘ってきた。
 白井の指導は、同志の実践上の苦闘を共有したうえでの指導や批判となっておらず、非だけを一方的に高みに立ってあげつらうものだった。指導−被指導の関係の中でメンバーが変革されると同時に指導部自らも変革されるような生きた組織的同志的関係を、白井はつくろうとしなかった。それは白井の無責任さと同志への責任の転嫁の手法として現れた。
 「他人を批判し口汚くののしりはするが、けっしてみずからに引きつけて考えない(=自己批判的にはとらえようとしない)山村の組織的あり方への厳しい批判の爆発だったのだ。実践家を軽蔑(けいべつ)し、厳しい実践の真っただ中で死活をかけて責任をとる者への同志的信頼をまったく理解できず、自己の失策を他人のせいに」(同一二〇n)してきたのが白井だったのだ。
 白井は革共同は官僚主義だとかスターリン主義だとか言い出しているが、まったくマンガ的な「黒を白と言いくるめる」言い草でしかない。まさに白井の組織指導や組織的あり方こそが問題とされ、その無責任さ、官僚的で非同志的・非組織的あり方こそが問題となったのである。指導部としての共産主義的変革が真正面から突き出され課題となった時に、白井は一度はその変革への道を歩もうとしながら(九三年自己批判)、それを貫けず、革命を目指すという立場も放棄し、自己の変革から逃げ出してしまったのだ。これが白井の脱落・逃亡の核心的な問題である。だから白井はそこを一言も語れない。
 白井は、「内戦の激烈化と非合法・非公然活動と生活の困難さの中で、革命家としての自己喪失(自信喪失)のゆえに理論家であることに我執したと率直に認めるべきだったのだ。それを素直に認めず『創成以来の唯一の指導部』だから自分はそれだけで最高の指導部だというこだわりを『理論家』であることですりかえようとした」のだ。(同一二〇n)。

 綱領的立場を喪失しマルクス主義を放棄

 Bさらに、そもそも白井は思想的理論的に、すでにマルクス主義を放棄し、プロレタリア独裁とレーニン組織論を否定して、ブルジョア民主主義者に転落していた。ソ連スターリン主義崩壊の過程で、プロレタリア世界革命に絶望し、共産主義を投げ捨てた転向者なのである。
 白井はソ連スターリン主義の崩壊を最後まで確信できなかった。白井は「ゴルバチョフ=最後のスターリニスト」「エリツィン=転向したスターリニスト」という規定に反対し、スターリン主義は必ず歴史的破産をとげるという綱領的立場に反対した。しかもプロレタリア革命に絶望していた白井は、民族革命こそが世界革命をもたらす力であるとした。労働者階級自己解放の思想によって、プロレタリア世界革命の実現をめざすという革命的共産主義者の綱領的立場を投げ捨てた。それは『共産党宣言』の全否定として進行した。
 「私の民族論文に対する清水同志の『民族問題メモ』における批判は、最大の問題点たる『宣言』のプロレタリア国際主義を帝国主義段階においてこそガッチリと確認し、民族問題、民族対立を止揚する普遍的階級としての、世界史的存在としてのプロレタリアートの歴史的に偉大な役割の確認、これをなしとげていないという論点、これが第一にして最大の問題である」(同一三七n)「民族問題を歴史的に解決しうる普遍的な階級としてのプロレタリアートの世界史における歴史的な登場の画期的・根源的意義について、『共産党宣言』がきちんと説きあかしているにもかかわらず、それを引用して論じながら、肯定的・積極的にマルクスの主張を押し出すことをせず」(同一三六n)、プロレタリアも祖国をもつという強調をもって、『共産党宣言』の真髄そのものを否定していったのである。
 白井はマルクスやレーニンの労働者階級自己解放の実践上の問題意識を共有する立場に立って、民族問題についての理論的深化と実践の豊富化=強化をかちとっていくという課題から逃げ出し、実践的にも思想的にもマルクス主義、レーニン主義を投げ捨てた。
 白井は“帝国主義国プロレタリアは腐敗していて、今日の革命主体として論じることはできない。今日では民族解放闘争が世界革命の主体となるべきだ”と強調したいのである。プロレタリア階級闘争と民族解放闘争を対立的に論じるのが白井の手法である。プロレタリア世界革命の立場が吹き飛んでいるのである。
 それは労働者階級を主体にした階級の自己解放を軸にしてあらゆる抑圧・差別からの解放をかちとっていく綱領的立場に敵対するものである。世界革命は階級によってか、民族によってかと設定し、民族の第一義性を主張するのである。それを突き詰めていって、結局、マルクスは誤っていた、またスターリン主義はレーニンが間違っていたから発生した、として論じていくことになる。
 それは、白井朗には「闘うアジア人民と連帯し、日帝のアジア侵略を内乱へ」のプロレタリア世界革命(アジア革命)の路線と反帝・反スタ世界革命という綱領的立場がまったくないことに起因している。
 国家権力やファシスト反革命と命をかけて闘うという思想も綱領的立場もまったくない白井が、革共同への非難・中傷攻撃を全力で行っているのだ。白井の今の目的は革共同を破壊することだけである。革共同を破壊するのに役立つという限りで権力に容認され、ファシストと取引している反階級的存在だ。そのことに本人も積極的意味を見いだしている反革命的人物である。
 二〇〇〇年決戦の重要な柱のひとつとして白井反革命を粉砕しよう。
 

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週刊『前進』(1968号5面2)

 2000年日誌

 阻もう! 戦争への動き

 7月18日〜24日

 「協力要請を拒否できない」

 「沖縄は同盟維持に不可欠」

●陸上自衛隊も多国間演習に初参加 米帝が紛争対処、平和維持活動を想定して、タイ、オーストラリアなどの各国と新たな多国間軍事演習を来春から行う予定で、日本政府も二〇〇二年度から陸上自衛隊を中心とした部隊参加を念頭に、自衛隊幹部をオブザーバー参加させる方針であることを明らかにした。(18日)
●自民党・靖国神社問題懇談会スタート 自民党は靖国神社のあり方を見直すための「靖国神社問題懇談会」(座長・野中幹事長)の初会合を開いた。首相の公式参拝に向けた環境整備を図ることを目的に、「今年中に結論をだし、来年から参拝してもらう」との道筋を描いている。(19日)
●北朝鮮が“ミサイル開発断念”も ロシアのプーチン大統領は、首脳会談で金正日総書記が「平和的宇宙開発を目的にロケット本体を」外国が提供することを条件に、「外国のミサイル技術だけを使う用意がある」と表明したことを明らかにした。(19日)
●周辺事態法第9条の解説改定 昨年七月に作成した「第9条の解説案」を改定した。これまで、自治体が管理する空港や港湾を米軍が使用する場合、自治体が民間航空機や船舶を運航している関係者と調整にあたるとしていた。これを、国が自治体と民間の調整にあたるとし、国の調整責任を前面に出した。そのため、国が自治体・民間に協力要請することを想定している十三項目について、初めて中央省庁の担当部局を明記した。さらに、住民請求や自治体議会の決議では協力要請を拒否できないことを明記した。(20日)
●嘉手納基地包囲行動に2万7千百人 基地はいらない人間の鎖県民大行動実行委員会主催の嘉手納基地包囲行動に二万七千百人が集まり、嘉手納基地の周囲十七・四`を完全に包囲することに成功した。(20日)
●厚木基地撤去行動には3千7百人 嘉手納基地包囲に連帯する神奈川集会が米軍厚木基地に隣接する公園で開かれ、三千七百人が集まった。(20日)
●在韓米軍基地でも撤去を求める闘い 在韓米軍が毒劇物のホルムアルデヒドを下水に流していたことが市民団体の調査で判明した。これに対して、七月十三日、市民、労働団体、学生など数百人が、在韓米軍司令部などが集まるソウル・竜山基地で米軍基地撤去を求めて立ち上がったことが報道された。(20日)
●「嘉手納の戦略的重要性は増していく」 嘉手納基地包囲行動に対して、嘉手納基地トップのジェームス・スミス准将(第一八航空団司令官)は、「嘉手納基地は戦略的に重要で、冷戦時代に比べその重要性は増していく」と挑戦的に語った。(20日)
●「沖縄は日米同盟維持のため不可欠」とクリントンが演説 糸満市摩文仁の「平和の礎(いしじ)」でクリントンは、「アジアが平和であるのは……日米同盟があるから。だからこそこの同盟は維持されていかなければならない。もちろん、沖縄は、この同盟維持のために、不可欠な役割を担ってきた」と日米同盟と沖縄米軍基地は不可欠と演説した。(21日)
●朝鮮半島に関するG8特別声明 G8首脳会合は、朝鮮半島に関する特別声明を出した。その中で、北朝鮮に対して「安全保障、不拡散、人道および人権の諸問題をめぐる国際的な懸念への対応を要求する」と声明することで、北朝鮮スターリン主義に一層の帝国主義への屈服を要求した。(21日)
●名護新基地基本計画の早期策定で合意 日米首脳会談で、普天間飛行場代替施設について、早期に基本計画を策定することを双方が確認した。これを受けて、日本政府は名護新基地建設のための「協議機関」を八月下旬にも設置する。首脳会談では、在日米軍駐留経費負担の特別協定で、今年度予算より約三十三億円減額する新協定を結ぶことでも合意した。九月に開かれる日米安保協議委員会で調印される。(22日)
●米軍の貢献で「平和を享受」 クリントン米大統領は、キャンプ瑞慶覧で米兵や家族に演説し、沖縄の駐留米軍によって世界の「平和を享受できている」と語り、日米安保のかなめである沖縄駐留米軍の意義を強調した。(22日)
●沖縄で米軍が廃棄物を不法投棄 米軍北部訓練場に隣接する東村高江の国有地で、英字で記された食料品のパッケージや模擬弾を収納するケースなどを含む数dの廃棄物が、不法投棄されていた。現場では米軍の大型車両が目撃されている。(23日)
●次期中期防衛力整備計画(次期防)策定に着手 政府は安全保障会議を開き、次期防(二〇〇一−二〇〇五年)の策定作業に着手した。計画の柱は、@自衛隊の情報・指揮通信システムの強化、A対テロ・ゲリラ特殊部隊の設置、B長距離輸送機・哨戒機の開発・国産化、C空中給油機導入などとなる。(24日)

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週刊『前進』(1968号6面1)

 8・9狭山全国統一行動へ総決起を
 異議申し立て棄却を許さず事実調べ、再審かちとれ

 棄却攻撃めぐる重大な決戦局面

 昨年の七・八高木棄却決定から一年余、今、第二次再審・異議審闘争は、日帝・東京高裁第五刑事部高橋裁判長の棄却攻撃をめぐる重大な決戦場裡にある。
 三月末、弁護団が異議申立補充書を提出し、異議審の攻防は高橋裁判長による棄却策動が切迫する局面に入った。その中で部落解放同盟全国連合会と部落解放共闘会議は、七・八棄却決定一周年中央闘争の大高揚をかちとり、今夏異議審決戦への突入を宣言した。そして全国連は、直ちに「上告棄却二十三カ年糾弾・異議審勝利八・九狭山全国統一行動」に結集し、東京高裁要請行動へ総力決起することを呼びかけた。
 異議審闘争は七・八中央闘争をもって新たな段階に突入した。この呼びかけにこたえ八・九狭山全国統一行動に全力で決起しよう。
 棄却攻撃の切迫は、危機を深め、朝鮮・中国―アジア侵略戦争に向かって突進する日帝の戦争体制づくりの攻撃の一環である。新ガイドライン下の森自公保体制による沖縄サミット―名護新基地建設攻撃、国労解体攻撃、有事立法・改憲攻撃と一体の攻撃として、棄却攻撃が切迫している。
 都知事・ファシスト石原の「三国人」発言と九・三自衛隊治安出動演習の攻撃、森首相の「神の国」「教育勅語復活」発言などによる排外主義・差別主義の扇動、解同本部派のそれへの全面的屈服と転向の下で激増する部落差別と対決し、糾弾闘争の復権を掲げて八・九全国統一行動に決起し、異議審闘争に勝利しなければならない。

 事実調べ拒否は早期棄却の企み

 高橋裁判長による早期棄却策動の切迫は、何よりも高橋が高木同様、事実調べをいまだに行おうとせず、検察官に証拠開示の命令・勧告を行わないことに鋭く示されている。これ自体が棄却攻撃そのものだ。
 事実調べを行い、検察庁が隠し持つ全証拠を開示すれば、石川さんの無実と権力の差別犯罪が満天下に明らかになり、再審開始は不可避となるがゆえに、裁判所は狭山再審の第一次請求から二十三年間ただの一度も事実調べを行わず、無実の血叫びを踏みにじり、再審請求を棄却し続けてきた。そして、高橋裁判長もまた早期棄却を企んでいるからこそ、事実調べをかたくなに拒絶しているのだ。
 再審事件において、事実調べを行うことなく再審が開始された事例はいまだかつてない。事実調べをやるかやらないかは再審開始か否かに直結している。われわれは何がなんでも事実調べをかちとり、東京高検が隠し持つ全証拠の開示をかちとらなければならない。
 国家権力総ぐるみの三十六年間の差別犯罪・差別裁判を全面的に居直る極悪の差別決定に対する部落大衆と労働者人民の怒りはますます燃え広がっている。
 ペテン的手口で白を黒と言いくるめる高木決定には、一片の正義も真実もない。高木決定は完全に破綻(はたん)している。狭山差別裁判は裁判とは名ばかりで、国家暴力によってかろうじて支えられているにすぎない。高木棄却決定を粉々に打ち砕き再審開始を断固としてかちとろう。

 高木決定粉砕した補充書、鑑定書

 三月末に狭山弁護団は、異議申立補充書、斎藤第二次鑑定書、半沢鑑定書、神戸第二次鑑定書などの新鑑定書と、Tさんの事情聴取ビデオ・事情聴取書(別件逮捕・違法捜査)、事実取調請求書(神戸・半沢・斎藤の三鑑定人とTさんに対する証人尋問請求)を裁判所に提出した。
 斎藤第二次鑑定は、第一次鑑定を補強し、脅迫状の封筒に書かれたあて名の「少時」の文字が万年筆(ペン)で書かれたものであることを疑問の余地なく明らかにし、ボールペンで書かれたとする高木決定の誤りを完全に証明した。
 半沢鑑定書は、石川さんの書き癖(特性)について分析した。石川さんには「え」を片仮名の「エ」と書く癖(六十七字中六十六字が片仮名の「エ」)があり、「や」については、脅迫状で用いられている片仮名の「ヤ」が対照資料では百四十八字中に一字も使用されておらず、平仮名で「や」と書くのが石川さんの書き癖である。また脅迫状の「け」の第二筆・三筆、「す」の第一・二筆、「な」の第一・二筆は、右肩環状連筆で連続して書かれているのに対して、対照資料の石川さんの文字はごくわずかな文字を除いて右肩環状連筆の文字がなく、これらの文字については、右肩環状連筆しないのが石川さんの書き癖である。
 脅迫状の筆跡と石川さんの筆跡には安定した相違性(異筆性)があることを解明した半沢鑑定は、高木決定のでたらめな「心理的条件」「環境」による筆跡の違い論を具体的分析をとおして完全に粉砕している。
 神戸第二次鑑定は、確定判決が言う「雑誌『りぼん』を見て脅迫状の文字を書いた」という条件を無視し文字の作為性の検討を欠落させている検察側三鑑定書は信用できず、鑑定書としての適格性を欠くというものであり、なんらの検討もなしに「三鑑定は信用できる」とした高木決定を崩壊させる鑑定である。
 これらの新鑑定は、石川さんの無実を証明する「新規かつ明白な証拠」である。事実調べを絶対にかちとらなければならない。

 石川さんの闘魂にこたえ闘おう

 狭山百万人署名運動を強力に推進し、狭山新パンフを学習し、七・二九〜三○全青交(全国青年交流集会)の圧倒的な成功をバネに、八・九全国統一行動の大高揚を実現しよう。
 権力の弾圧と東京高裁の不当な四条件を粉砕して、八・九要請行動を成功させよう。石川さんの不屈の闘魂にこたえ、異議審闘争を総力で闘いぬき、高木棄却決定を取り消させ、再審開始をかちとろう。全国連は三月全国大会で差別糾弾闘争の復権を宣言し、狭山闘争を基軸に三大闘争路線を全力で推進し、五万人組織建設に向かって前進している。ともに闘おう。
 そして、衆院選決戦、国労臨大決戦、沖縄サミット決戦が切り開いている勝利的地平の上に、八・六広島−八・九長崎反戦・反核闘争の成功と国鉄決戦の爆発をかちとり、九・三自衛隊治安出動演習を阻止し、十一月労働者集会への五千人結集を断固実現しよう。

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週刊『前進』(1968号6面2)

 国政に初挑戦 衆院選を闘って

 住民の自己解放性に満ち満ちた決起 広能 正一

  二○○○年三大決戦の最大の闘いである衆院選決戦を、全党の総蜂起戦として勝利的に闘った。私は今回初めて地域のオルグを担当し、この蜂起をつうじていろいろなことを学んだ。
 今回の選挙戦は党の闘いであると同時に住民自身の闘いでもあった。
 結果は二万二千七百九十九票で当選には至らなかった。非常に悔しいが、しかし国政初挑戦で“大政党”と互角に闘えたという実感と手応えをつかんだ。この悔しさと自信をバネにして、次の衆院選に勝利することをあらためて誓う。
 今回の選挙戦の最大の意義は、革共同が介護保険(社会保障問題)の領域に挑戦し、介護保険が四月に導入され、介護問題を抱えた多くの住民が切り捨てられていく状況の中で、「パン」の綱領を真っ向から掲げて登場したことである。住民の中からは、率直な意見として「介護保険廃止の方針を待っていた」との声が上がった。大情勢と住民の切実な声(いのちの叫び)にマッチした選挙綱領である。
 住民自身の選挙戦に関していえば、「住民の会」が結成され、支持者層が完全に広がった。会員の中には学会員、共産党支持者の人もいる。“大政党”が介護保険推進の立場に立ち介護保険が導入されることによって、苦しんでいる人の結集体として、会ができたのである。受動的ではなく、行政に対して要求を実現するために団結した先鋭な要求者組合と言える。
 さらに、これまで陰ながら支持していた住民も公然と介護保険反対運動に加わり、杉並の政治地図が完全に一変した。
 「住民の会」運動の持っている大衆性、自発性、自己解放性が、介護保険導入で具体的に困っている人をとらえ始めたのである。
 六月三日の「住民の会」結成大会が八百六十人の結集でかちとられ、会員の思いを直接国会に届けるために、いのちの一票を長谷川さんに託することがアピールされた。われわれはこの「住民の会」とともに、介護保険廃止をメインスローガンにして国政選挙に打って出た。これまで政治に“無縁”だった人や、既成政党に幻滅して棄権していた人も含めて、住民が決起し始めた。
 とくにファシスト・石原親子を徹底的に批判した。前回選挙までムード的に伸晃に入れていた、寝たきりの連れ合いを抱えた人は、会の要求と自分の要求が合致していることに共鳴して入会し、集票活動を担う活動家になった。
 また、地域ビラに「自分の名前を使って」と申し出る人や、初めて街宣に参加して、長谷川さんと並んでアピールする人など、伸晃陣営では考えられない住民の自発的な決起が次々と起こった。
 票差は大きいが、住民を獲得した内容と今後の杉並での運動の展望を思えば、住民自身の自己解放性あふれる闘いが伸晃(=自公)を追い詰めたと私は思う。
 この闘いを引き継いで、次の選挙では絶対に当選をかちとるぞ!

 介護保険への区民の大きな怒り組織 森川 涼子

 地域を担当していた私にとって、介護保険闘争を大衆運動に組織するという命題の下で、日々の活動があった。だが三月ごろまでは、どうやったらそんな糸口がつかめるのか見当がつかない区民からの反応と、ただ格闘していた。
 しかし、社会保障制度の解体問題に党として取り組むことは、選挙の今だからということではなく、革命党の一つの重要な政策の確立として、重要なことだという思いを、日々固めることができた。
 それは、昨年の都議補選、東大阪市議選の経験で、介護保険導入が今後の労働者の社会保障制度解体の大きな転換軸になっていくということが突き出されていたこともある。
 しかし今回の衆院選では、それにとどまらず、労働者の階級的意識を解体する意図があることが、医療・福祉の現場の切り捨てにともなってはっきりしたからでもある。それに対して、革命党としての政策が選挙戦術にとどまっていたら、吹き飛ばされるのは目に見えていた。党として国政に挑戦するにあたって、この問題にすべてを絞り込み、闘ったからこそ、区民の心を真につかむことができたのだと思う。
 不景気やリストラ、過度の競争原理にたたき込まれている子供の教育、共働きの上に親の介護に疲れはてた女性たち、労働者家庭は確実に崩壊を起こしている。杉並でも例外ではなかった。追いつめたのは社会保障問題だけではないが、介護保険はそういった家庭に確実にとどめを刺す。例外は一握りの超高所得者のみであり、そういう連中が作り、導入した制度が、介護保険制度だ。
 そのような実感を持ってから、「全額公費負担と言うなら財源はどうするのか」という反発にも、「財源不足を引き起こしたのは与党の責任。そのために社会保障費を削るなんて有権者を納得させる口実で、どこの国も使っている常とう手段だ。そんな論理に都合よくだまされていいのか」「一枚岩でない自民党が公明党の票を利用し一致団結して社会保障体制をぶっ壊そうとしてきた。向こうがその気ならこっちも団結して有権者の恐ろしさを示すべきだ」と、思う存分に食い下がることができた。
 また、「消費税を介護保険の財源に当てる」と税率アップを画策し始めたことで、八九年の勝利した都議選の時の消費税導入を阻止できなかった悔しさを思い出した。あの時も口実は「福祉目的」だった。どこまで民衆を愚弄(ぐろう)する気か。「それならすべて暴露してやる」という思いにかられた。あの時、三%の消費税にこれほど民衆が反発するのかと驚いたが、今回の介護保険に対する当事者たちの怒りの爆発の大きさとつうじるものを感じた。
 どんな悪政に対しても、民衆の闘う団結を作り出すことができれば展望が切り開かれるということを、国政選挙に挑戦して実証できたと思う。

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週刊『前進』(1968号6面3)

 7・12東京 8・6−8・9へ決起誓う
        
 ”新たな核戦争許すな”

   七月十二日、東京の文京区民センターで、七・一二反戦反核東京集会が開催された。平日の夜にもかかわらず、勤め帰りの労働者や学生などが、八・六広島―八・九長崎闘争への決起を誓い合う集会となった。
 初めに相模女子大教授で反核物理学者の吉田義久さんが「反核と現在」と題して講演した。
 吉田さんはまず、九六年の包括的核実験禁止条約(CTBT)成立後、アメリカ政府が「老朽化核兵器の保守管理のため」と称して行う未臨界核実験など新たな核開発が、アメリカの核兵器独占独走態勢を完成させるものと断罪した。
 さらに第一次世界大戦から現在までの核開発の歴史を概括し、七三一部隊を始めとする日本軍の軍医たちが敗戦後、米軍の核開発にも資料提供することで戦争責任を免れたと指摘して、「米ソ核軍拡に決定的な役割をはたしたのは日本の天皇制だ。天皇の戦争責任を追及しない反核集会はナンセンスだ」と提起した。
 続いて全国被爆者青年同盟の柴田利明さんが長崎から駆けつけ、「長崎の朝鮮人被爆者」と題して講演した。柴田さんは 長崎の平和祈念像の製作者が戦時中は軍神像を制作していたことや、被爆一年後に被爆被害を暴露して発行された『長崎の鐘』の著者・永井隆も廬溝橋事件に軍医として出兵していた事実を暴露し、「日本がアジアに何をしたのかという問題を抜きにして、原爆被害の問題を語ることはできない。アジア侵略の歴史に責任をとることなくして、反核運動はない」と訴えた。
 そして長崎では一九四五年のうちに一万人近くの朝鮮人被爆者が死亡したことを明らかにし、この事実に対して日本人被爆者の多くが「そんなに朝鮮人がいたはずはない」と否定することを弾劾して、「今こそ朝鮮の人びとと連帯した反核闘争をつくりあげよう」と訴えた。
 被爆五十五周年八・六広島−八・九長崎反戦反核闘争全国統一実行委員会の三角忠さんが基調報告を行った。三角さんは、米軍の打ち出した「統合ビジョン二〇二〇」が戦略の重点をアジアへ転換していることを報告し、新たな世界戦争・核戦争の切迫を弾劾した。
 また、日帝の核武装策動が、JCO臨界事故と二人の労働者の虐殺、核燃料サイクルへの暴走などを生み出していると弾劾した。
 そして既成原水禁運動をのりこえ、「アジア侵略、ヒロシマ・ナガサキ、オキナワをくり返すな!」のスローガンを鮮明に掲げ、第三次世界大戦を起こさせないための闘いとして八・六−八・九を闘うことの重要性を訴えた。
 続いて決意表明が行われた。法政大学の学生は、沖縄サミット粉砕決戦への決意を元気にアピールした。東京被爆者青年同盟は、八・六広島−八・九長崎への決起とならんで、九・三自衛隊三軍統合演習阻止への決起を訴えた。
 最後に参加者全員で「団結ガンバロー」を行い、八・六−八・九への総決起を誓い合った。

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