翻訳資料2
募兵官に反対して立ち上がろう
ロサンゼルスの「校内の軍国主義に反対する連合」の闘い
アーリーン・イノウエ 『学校再考』誌 2006年春
丹沢 望訳
非営利部門で20年間にわたって働いた後、私は1997年にロサンゼルス学区に再就職した。私はこの学区の東ロサンゼルスのセオドア・ルーズベルト高校でスピーチと言語の専門家として働いた。この学校は私の母親が第二次世界大戦の始まった頃に通っていた学校である。 私の母親がルーズベルト高校に通っていた頃と比べる今は様変わりだ。当時に立ち戻ってみると、この学校は人種的に多様な学校であった。現在ではルーズベルト高校は町村合併後の統合ロサンゼルスで最大の高校であり、学生の95%がラテン系・メキシコ系アメリカ人である。近郊の貧しい労働者地区にあり、ラティーノの生徒5000人がいる通年複数科校(年間を通じて複数の学科が存在する学校)である。 私はすぐに、校内の白人以外の学生の多くが年中入れ代わっていることに気が付いた。またすぐに制服を着た軍の募兵官が自由に学生たちと話しながら高校のキャンパスを徘徊しているのにも気が付いた。私は誰か他の人もこれに気が付いたかどうか注意して見てみた。だがすぐにこれは普通のことだとみなされていることを感じ取った。私は彼らが何を言っているか聞き取れるくらい近くにじわじわと近づこうとした。学生たちは興味をそそられたようであり、募兵官は大学費用や特別支給金を出す約束をしていた。私は困惑したが、事情がよくわからず、何と言うべきかあるいはどうすべきかわからなかった。 結局私は、ロサンゼルス地域の教師、学生、両親、帰還兵の草の根組織である「校内の軍国主義に反対する連合(CAMS)」の創設者になった。CAMSは9・11以後のイラク戦争が開始される前の時期に、われわれの息子や娘たちをうまい話で誘惑する軍の募兵活動について、学生や地域社会に情報を与えたり、教育をする活動を開始した。
「私が軍だ」
9・11以降、ブッシュ政権が戦争に突進するなかで、私はそれに強い関心を持ち抗議する数百万の人々の隊列に合流した。ラップ音楽を高々と鳴らし、「私が軍だ」というステッカーを張ったハンビー(牽引用のバーのついた軍用車)に乗り、無料のTシャツを持ってきた募兵官がキャンパスに溢れた。私は、戦争と若者の募兵を阻止するために私のできるすべてを行うことが私の道徳的義務であり責任であると感じた。私は、軍に将来の兵士を供給するのは私の学校のような学校であることを知っていた。これは、子どもを戦争で失うことしか思い浮かばない親として、毎日世話をしてきた若い命を心配する教師として、そして戦争は正しい回答ではなく、若者は大砲の餌食であってはならないと考える平和と正義を求める活動家としての私を悩ませた。
私は、軍国主義が保育所から成人学校まですべての場所で目立つようになり、高校で全面化していることに気づき始めた。カウンセリング室の壁にかかっている国境警備隊のカレンダー、学部のバスルームの鍵を束ねた「軍隊に入ろう」と書かれた飾りひも、廊下に張られた大きな軍人の切り絵、青少年予備役将校訓練隊(JROTC)の写真やトロフィーの展示物、さらに保育所の事務所に寄贈された写真の上に置かれた海兵隊の徽章も見つけた。
この学区では、平和な学校環境の形成、紛争解決や批判的思考、問題解決の方法についての教育、対話と非暴力による良好な人間関係の促進などの戦略に基づく、「多様性のための教育」(差別反対の教育)と呼ばれる運営方針を持っているのに、このようなことがどうして正当化されるのか私にはわからなかった。
私は教師や学校職員に軍隊が学校を雇用市場としていることについてどう考えているかと質問し、これについて組合のニュース通信に記事を書き始めた。
私はルーズベルト高校が全国でいちばん海兵隊の募兵が行われている学校であるという評判を得ていることを知った。軍の募兵官がキャンパスに群がり、口説き文句にひっかかりやすく、それを信じやすい生徒に働きかけている。何人かの生徒は、毎週電話がかかってきたり、軍の募兵官が突然家に訪問してきたり、昼食を一緒に食べようとキャンパスでつきまとうと話している。ある場合には、募兵官は若者に、君は大学には入れないだろうが、募兵に応じれば家族に名誉を与えるだろうと話して、学生の感情をもてあそんだ。
だが2003年1月、校長が軍の募兵官の学校への訪問を制限する学校の方針をうちだすと、ルーズベルト高校の雰囲気は劇的に変わった。それは学校全体を驚かせた。彼女(校長)は、軍の募兵官に企業や大学の代理人と同様の学生への接触権を与える「落ちこぼれ防止法」第9528項に対して適切な制約が必要であると考えたのだった。彼女は、軍の募兵官はルーズベルト高校では常に企業や大学の募集係よりも大きな学生への接触権を持っていること、そして、彼らの存在が学業成績の達成目標を支えるものではないという事実を認識していた。学校のこのような政策は、学校指導評議会で審議・決定された。これによってルーズベルト高校は、この学区の60の高校のうち唯一、軍の募兵官の学校訪問を制限する明確な政策綱領をうち出した高校となった。軍の募兵官はもはや個々の生徒に接触したり、教室に入ったりすることもできなくなり、年4回あるいはそれより少ない回数、予め設定された時だけ募兵の受付を行えるにすぎなくなった。
全国的・地方的連携
私は、フィラデルフィアで行われた最初の全国反募兵活動会議に参加した2003年の6月に、反募兵活動にのめり込んでいった。それはまさに私が必要だと思っていたものであり、活動家のネットワークでもあり、援助と助言を提供してくれる機関であった。(その後05年にわれわれはNNOMI『軍国主義に反対する青年の全国ネットワーク』という、運動の過程で団結と連帯を作り出すために活動する全国組織を作った)
私は他の人たちもロサンゼルスの反募兵活動に参加するだろうと期待していた。私はロサンゼルスの中心部での集会を告知し、平和で公正な地域社会を実現できるとあらゆる人に話をした。私はビラをもって平和と公正を求めるイベントに出かけていき、軍隊の神話について書いたパンフレットを配布した。だが最初はわずかに一握りの人しか来なかった。他の人たちも参加させるためには何が必要かを私は考えた。ロサンゼルスの統一教員組合(UTLA)の人権委員会の何人かのメンバーが関心を持ち始めると、突破口が切り開かれた。私は、学生に関する問題は社会正義に関する問題とともに、教師の権利のための闘いの中で見失われていると感じていたので、教員組合の中では活動的ではなかった。だが時代は変わった。そしてUTLAの中には他の組合と合流して反戦労組連合を形成した進歩的な潮流が存在した。UTLAの人権委員会は「戦時予算はすべての子どもを落ちこぼれにする」というTシャツをデザインした。そして、戦争と、われわれの学校と生徒に対するその影響についての討論を開始するためのティーチ・インを行おうとする私の意欲を熱烈に支持してくれた。
私とUTLAの同盟は非常に有意義であった。なぜならば、われわれはこの学区の4万4000人の教員組合の組合員と連絡網を形成でき、メディアとの接点ももつことができた。さらに教育委員会に提案を行う際に、影響力を行使することができた。われわれは組合の広報にティーチインについての広告を出し、数百のビラを撒いた。これによってこのティーチインに数百人の教師、学生、両親や地域の人々が参加した。それはロサンゼルスの全地域をカバーする広範な教師のネットワーク形成の出発点となり、われわれの存在を目に見えるものにした。
(中略)
数カ月後、われわれは校内の軍国主義を阻止することを目指す広範な民衆のネットワークを創出するために全市的な大イベントを組織する必要があると決定した。われわれは04年2月に市内の学校で全一日の会議を開催することを計画した。これは戦略、情報、学生や教育指導者や平和と公正を求めて闘う活動家の経験などを共有することを目的としていた。われわれはその名称を「校内の軍国主義に反対する連合」と決め、他の学校や地域社会に活動を拡大し、資金集めの計画を立てた。
われわれはロサンゼルス教育委員会の委員たちに対して、多くの学校で起きている不正な募兵活動についての情報を提示する活動にも着手した。学生、教師、両親と地域社会の人々は自分たちの経験について証言した。両親たちは通訳つきでスペイン語で話をし、募兵官からの迷惑な電話や自分の子どもたちの意志に反した軍事教育課程(JROTC)への引き込みとそこからの子どもたちの取り戻しの困難さなどについて語った。市内の他の学校の教師と地域社会の代表者は、募兵官が反戦の文書を配布した学生をどんなに汚い言葉でののしったかについて語った。学生たちは、ASVAB(軍務適性総合テスト)が軍の試験であり、ペンタゴンのデータベースの重要な源泉であることをだれも教えてくれなかったということについて証言した。別の学生は、軍の募兵官がどんなふうに自分を家まで車に乗せていってやろうと言ったか、そして自分の連絡先を教えるまで車から降ろそうとしなかったかについて語った。
後に、教育委員長は私に対し、われわれが彼らに情報を提供するまで、教育委員たちは地域の学校で何がおきているか知らなかったと語った。教育委員会は新たに「軍の募兵活動に関する学区諮問委員会」を設立した。この委員会は、学区のスタッフや情報にわれわれが直接コンタクトできるようにしてくれた。われわれは3カ月ごとにミーティングを行い、そこで学校当局や軍の関係者に現状と政策に関する質問を行い、説明を求めた。今のところ、このミーティングの成果はすぐには現れていないし、特に学区当局がわれわれの質問に対しのらりくらりと身をかわすのには不満を感じている。だがこの会合からわれわれは目に見える成果を得つつある。最も顕著な成果は、軍の募兵官の学生への接触の際の制約に関して詳細に説明するという学区全体の政策が出されたことである。アメリカで2番目に大きな学区が、初めて軍の募兵活動に関する成文化された制限条項を作ったのである。
CAMSの戦略
CAMSの目的には、学校における軍国主義という直接的課題を越えた任務も含まれる。われわれは学校の環境を変え、若者のために兵役に代わる平和的な選択肢を増やし、社会的公正や希望を与えることを望んでいる。われわれは学生たちが自分たちの夢と情熱を追い求める機会を得られるようになることを望み、生活を維持できる職業を選択でき、軍に入ることなく大学に行けるすべを得られるようになることを望む。われわれは「最高の職業、経歴、未来」というブックレットや、高等教育に関するパンフレットを作った。だが、われわれは、それはまだ出発点に過ぎないと思っている。多様性と学生のリーダーシップを促進する包容性、活力、求心性のある組織を創造しなければならないことも理解している。
われわれが推進する特別な戦略の一例は、オプトアウト作戦キャンペーンである。これはロサンゼルス統合学校区(LAUSD)が、「落ちこぼれ防止法」とそのオプトアウト条項の条件を満たすという点で、問題があるということに焦点を合わせた戦略である。われわれは、教育委員会への通知経緯に関する懸念を提示した。すなわち、それが短時間でおざなりに行われたこと、混乱した情報の提示、学生との通信権の欠如などである。そこでわれわれは学生全体に情報を周知し、教員組合の代表や平和と公正を求める団体のイベントでのビラの配布などの独自の計画を立てた。CAMSは、裏面に英語とスペイン語で免除申請書類を印刷した数千部の資料集を作り、配布した。
この闘いは、学生の急速な組織化の引き金となった。学生たちはテーブルを置き、自分たちで作ったオプトアウト要求の大きなマークを出し、クラスの仲間たちに対して情報を与えるように要求した。彼らはビラや反募兵活動の文書を配布し、マルチメディアを使った意見の表明を行った。ある学校では、校長はオプトアウトに関する情報の公開を拒否すると公的に発表した。これに対して教師たちが抵抗闘争に入ったことを知ると、生徒たちの多くが(ユニホームを着たフットボールチームも含めて)怒り、校長室に乱入した。
オプトアウト者の数が発表されるとわれわれは有頂天になった。われわれは去年よりも5000人多い生徒をオプトアウトさせるという目的を達成した。ロサンゼルス統合学区の6万3000人の低学年から高学年の生徒の18%にあたる総計1万1350人のオプトアウトを実現したのだ。ルーズベルト高校では、オプトアウトの学生数を200人から600人へと約3倍化させた。2005年にはオプトアウトの数は24%増大し、1万5000人以上になった。
だが数よりもさらに重要なのは、このキャンペーンから得た経験だ。ミシェル・ビレガスという学生は、彼女の属する学生サークル(MEChA アステカ系メキシコ人学生運動)の学生とともに反募兵のビラを配布する活動を開始した。校長は、学校当局の許可を得る必要があると言って彼女がビラをまくのを止めさせた。彼女の母親が娘の運動に参加し、インターネットでCAMSを探しだした。ビレガス夫人はわれわれに手紙を出し、支援を求めた。われわれは彼女からのeメールを受け取り、返事を書き、そのコピーをACLUに送った。学区の弁護士と相談した後、学校当局は態度を変え、学生がどの場所でもビラを配布することを許可した。だが事態はそこで終わらなかった。この事件はミシェルと彼女の母親を力づけ、二人はCAMSに加入し自分たちの高校で指導的役割を果たすようになった。
認定学校
昨年、われわれはより多くの人々がわれわれの活動を支援することに関心を持つようになったことがわかったので、どのような活動をすべきかについて明確で詳細な活動手順について提示することを必要になった。学校に子どもを通わせていない地域社会の人々や帰還兵たちは、真剣にわれわれを支援したいと望んでいたが、何から始めるべきかわからなかった。われわれは、近郊の諸学校をより広範な地域社会が活動に参加するための活動拠点とする構想を立てた。そこでわれわれはCAMS認定学校計画と、誰もがどのようにしたら学校を非軍事化しそれにかわるものを作り出す手助けができるかを述べた段階的手引きを行うツール・キットを作った。われわれはこの計画を9月に、ロサンゼルス地区の35の学校で開始し、06年秋にはそれを50校に増加させる計画を立てている。
今日では東ロサンゼルスのルーズベルト高校を訪問してみれば、3年前と比べて非常に雰囲気の違う高校になったことがわかるだろう。募兵官は「ルーズベルト高校はわれわれを叩き出した」と主張し、もはやキャンパスに二度とやってこようとは思っていない。
これに対して、MEChAなどの団体の学生は、「本は好きだけど、爆弾は嫌い」「兵士じゃないよ学生だよ」などと主張するすてきなTシャツを着て、反募兵のビラや大学の情報に関するパンフレットを配布している。彼らはすべて少数者から出発して多数になった人々の組織活動の証である。
CAMSは、私の多大な期待をはるかに越えて成長した。それは私に組織することと、共に協力して活動する力を教えた。だが、心が落ち着いた今、学生たちが「私は以前は軍隊に行こうと思っていた。しかしあなたが私に教えてくれたことが私の考えを変えた。みんながこういうことを知る必要がある」と言うのを聞く時、わたしは最高に報われた思いがする。
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