COMMUNE 2005/3/01(No.347 p48)

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3月号 (2005年3月1日発行)No.347号

定価 315円(本体価格300円+税)


〈特集〉 世界戦争前夜の中国の体制危機

□米帝ブッシュの戦争重圧下での生き残り外交
□「改革・開放」政策の矛盾が中国大乱へ大爆発
□「1国2制度」ゆるがす台湾民進党の再選勝利

●翻訳資料 米帝の世界支配を基本任務としたAFLIC−O中央(上)

●国際労働運動 南朝鮮・韓国/非正規法改悪阻止、2月全面ストへ−−室田順子

    1・9三里塚初デモと旗開き

三里塚ドキュメント(11-12月) 政治・軍事月報(11-12月)

労働月報(11-12月)  闘争日誌(10月)

コミューン表紙

   教育労働者の闘い

 ブッシュの2期目の大統領就任演説は、イラク侵略戦争の泥沼化にあえぐ米帝が、さらに戦争を全世界に拡大しようとする姿勢をくっきりと示した。ブッシュは「オーナーシップソサエティー(所有者の社会)」つまりブルジョアジーのための政治を掲げ、「世界の平和は、自由を世界に拡大することによって実現できる」と叫び、そのためには武力行使をも辞さないと宣言した。世界戦争計画の発動をとことん推し進めるということである。一方、日帝・小泉は、通常国会初日の施政方針演説で、郵政民営化を強行する意志を強調するとともに、日米同盟を強めていくことを明らかにしている。この米帝ブッシュの世界戦争計画と、それと一体となって日本の戦争体制づくりに突進する小泉政権に対する決戦の年として05年を闘いぬこう。

 イラク情勢は、イラク人民の武装解放闘争が一層激化し、1月末の暫定国民議会選挙は完全に破産している。人口の4割以上が住む地域が、武装解放勢力による解放区あるいは半解放区になっている。米帝占領軍は、ファルージャ総攻撃のような大虐殺戦争を繰り返しながら、制圧することはできず、かえって民族解放闘争の力を強め、米軍の死傷者も激増している。こうした中で、昨年末にインド洋沿岸一帯を襲ったスマトラ沖地震と大津波による災害は、死者30万人にも及ぶ大規模な惨禍をもたらし、さらにその「復興援助」と称して米帝を始め帝国主義諸国が競って軍隊を送り、民族解放闘争の圧殺と資源・勢力圏争奪に乗り出している。帝国主義とは人民の犠牲の上に、人民を搾取・収奪・抑圧・虐殺して成り立っているのだ。

 日帝の攻撃は、公務員労働者に対する大規模なリストラと労働組合解体攻撃として激しく吹き荒れている。その頂点にあるのが、郵政民営化攻撃と教育労働者に対する「日の丸・君が代」強制の攻撃だ。戦争に向かって、労働者の全面屈服と動員を行おうとする攻撃である。とりわけ、一昨年の10・23都教委通達以来の東京都における「日の丸・君が代」強制との闘いは、決定的な意味を持っている。文部科学省や石原が「日の丸・君が代」強制に躍起になっているのは、戦争に子どもたちを駆り立てるためだ。これを粉砕する闘いは、戦争協力拒否の闘いの最前線の闘いだ。昨年の階級的労働運動の推進軸となった教育労働者の不起立の闘いを、今年3〜4月の卒・入学式闘争でさらに発展させ、労働者の総反撃の突破口を開こう。

 『前進』新年号論文(革共同政治局の1・1アピール)では、きわめて重要な綱領的・路線的な提起が行われている。昨年の11・7労働者集会の歴史的な意義を強調し、日本革命・アメリカ革命・朝鮮革命―世界革命の展望を確信に満ちて提起している。労働者階級の自己解放の思想としてのマルクス主義を現代に復権し、「党とソビエトと労働組合」の関係を鮮明にさせ、闘いの展望を指し示している。情勢論においても、「米帝ブッシュ論」「日米枢軸論」などの重要な視点が打ち出されている。この新年号アピールを学習し、新指導路線で強く一致し、一丸となって労働者国際連帯と階級的労働運動の発展をかちとろう。動労千葉労働運動を徹底的に学び、動労千葉を支え、広げていくことが重要だ。そのためにも、3月教労決戦の勝利をかちとり、教育基本法改悪阻止、改憲粉砕に向かって労働者階級の進撃をかちとろう。  (た)

 

 

翻訳資料

 翻訳資料

 米帝世界支配を基本任務としたAFL−CIO中央(上)

 ハリー・ケルバー 2004年11月8日〜12月13日

 村上和幸訳 

【解説】

 昨年10月17日にワシントンで行われた百万人労働者行進(MWM)は、イラク侵略戦争の泥沼化と大統領選のさなかに2大政党から独立した労働者自身の運動を掲げて闘い抜かれた。これに、350万人の組合員を代表する労組が賛同したことは、支配階級・政府と癒着し、イラク侵略戦争を支持し、民営化を容認する既成労働運動を根底から揺るがしている。
 本誌昨年11月号は、AFL−CIOの6分の1勢力であるAFL−CIOカリフォルニア州連盟大会決議文を掲載した。AFL−CIO中央がアメリカ帝国主義の機関NED(民主主義基金)の資金を使って海外侵略の先兵を務めていることを追及した決議だ。MWMを切り開いたILWUローカル10(国際港湾倉庫労組第10支部)の地元、カリフォルニアから、帝国主義労働運動を弾劾する闘いが巨大な規模で開始されている。
 02年4月、ベネズエラ労働者階級は街頭を埋め尽くして蜂起し、中南米支配・石油支配を狙う米帝主導のクーデターを打ち破った。この勝利は、「民主的労働組合を援助する」と称するAFL−CIOの国際活動の正体を暴いた。AFL−CIOは米軍・CIA・NEDと協力し、経営者団体と癒着した御用組合を育成して、労働者階級への襲撃を準備してきたのだ。
 AFL−CIOスウィーニー執行部は、戦闘的なポーズをとって登場してきたが、本質は以前と変わっていない。
 AFL−CIOは、アメリカと世界の闘う労働運動に追及されてもなお、米帝の先兵として血なまぐさい策動をつづけている。
 インド洋大津波の被害救済と称して、AFL−CIOは、インドネシア、スリランカ、タイに置いている「連帯センター」(本文参照)を通じてインドネシアの階級闘争に介入している。米軍(そして自衛隊)による石油・天然ガス資源争奪戦への突入、インドネシア軍がアチェで大災害に乗じて行っている独立運動鎮圧作戦=大虐殺を支援するものだ。AFL−CIO中央の打倒は急務だ。
 ここに掲載する翻訳資料の原文は、『AFL−CIOの暗い過去』と題して、昨年11月から筆者が主催する『レーバーエデュケーター』というホームページに連載された。
 次号に掲載する「下」では、米帝の侵略の先兵を務めているAFL−CIOの役割が付随的なものではなく、その中心軸であることがさらに明確にされている。
 筆者のハリー・ケルバー氏は、1933年に組合組織化の闘いを始めて以来の組織者、機関誌紙編集者としての経歴を持っている。 訳文は、重複などを削除して短縮し、若干順序を入れ替えた。
【〔 〕内は訳者による補足〕】

………………………………………

 AFLーCIOの暗い過去

 私がこの問題を研究し、『AFLーCIOの暗い過去』という6回の連載を書こうと決めたのは、カリフォルニアの多くの組合が数年間、AFL−CIOの60年にわたる秘密対外活動の「疑惑一掃」キャンペーンを行ったにもかかわらず、解決していないからだ。
 AFL−CIO国際局は、「帳簿公開」を拒否した。これは、AFL−CIOがCIA及び国務省とどのように協力して諸外国の民主的に選出された政府を転覆し、米企業の利益に反する民族主義な労組ナショナルセンターを分裂させてきたかという薄汚い歴史が暴かれてしまうからだ。
 この「暗い過去」が本当に終わり、アメリカ労働運動の対外政策が透明になった新たな時代が始まったのかどうかは疑わしい。われわれの疑念と恐れを払拭するには、過去と現在の間に、あまりに多くの類似性がある。
 必要なことは、AFL−CIOの対外政策について十分に情報を与えられ、討議の中で発言権を有する独立した監査委員会を設けることだ。カリフォルニア州の組合は、労働運動の恥ずべき過去を非常に熱心に暴いてきたのだから、これが二度と起こらないように、監査委員会を設置するためのキャンペーンの先頭に立ってほしい。

 ミーニー、元共産党トップをAFL−CIO国際部門に

 ニューヨークのアイルランド系の配管工であったジョージ・ミーニーは、アメリカ労働運動の押しも押されもせぬリーダーに上り詰めたが、30年近くもジェイ・ラブストーンというリトアニア生まれのユダヤ人と協力しつづけた。彼は、1927年から29年までアメリカ共産党の書記長をつとめた人物である。
 これは奇妙な取り合わせだった。ミーニーは、葉巻をくわえた強い意志をもった労働運動指導者で、フランクリン・ルーズベルトからロナルド・レーガンにいたるまでの全大統領とファーストネームで呼び合う仲だった。ラブストーンの方は、狡猾で精力的な、舞台裏のやり手だった。彼は、ソ連だけではなく、西欧についても実体験があった。
 二人を結びつけたものは共産主義への憎しみであり、自分たちがコントロールする世界の親民主主義労組のネットワークを作るという野心的計画だった。彼らは、1941年に、国際婦人服労働組合(ILGWU)の委員長だったデービッド・デュビンスキの紹介で知り合った。当時は、ミーニーがAFL書記長になったばかりのころだった。ラブストーンの後ろ楯だったデュビンスキは、ミーニーに「やつは大丈夫だ。転向したんだよ」と言った。
 すでにミーニーは、ワシントンのAFL−CIO本部を司令部として各国労組のナショナルセンターを世界的に結合させるビジョンを持っていたので、ラブストーンを国際関係プログラムの推進のために雇うことにした。大胆で変則的な取り決めだったが、それを知った労働界の指導者たちも、ほとんど反対する者はいなかった。
 ラブストーンは、1917年に17歳で共産党員になり、党のトップにのぼりつめたが、アメリカの党に若干の独立性を与えるように要求したため、29年にモスクワでのコミンテルンの会合でスターリンの命令で追放された。その後十数年、彼は反対派共産党を作ろうとしたが、成功しなかった。
 41歳の時、彼はアメリカ労働運動から共産党員を消滅させることを自分の仕事とすることになる。彼は、照準をCIOに定めた。共産党員とその同調者がCIO指導部の中にいたし、共産党は18個ほどの加盟労組中央の中で影響力を拡大していた。彼は特に、CIOの中で2番目に大きい労組、全米自動車労組(UAW)を狙った。
 ラブストーンは、UAWの最初の委員長、ホーマー・マーチンの参謀長として仕え、有名な左派の首を切って、後釜にニューヨークから連れてきた信頼できる「ラブストーン派」を据えようとした。

 UAWからの左派追放の失敗

 1937年にミルウォーキーで開かれたUAWの大会で、ラブストーンは2人の左派の副委員長と書記長を追放できると思っていた。だが、ジョン・L・ルイスが大会で演説し、指導部の団結を訴えたため、この試みは阻まれた。ルイスは共産党員と協力関係にあった。共産党員たちはルイスの最良のオーガナイザーであり、「彼の意のままに」仕事をしていたのだ。
 ラブストーンがUAWに介入し、クーデターを狙ったことは、後のUAW委員長ウォルター・ルーサーの激しい敵意をかった。ルーサーはラブストーンを分裂主義者、組織破壊者だと見たのだ。
 それでもラブストーンはミーニーの後ろ盾を得て、労働運動の中での影響力を拡大していった。AFLの1944年の大会で、海外、特にヨーロッパでの自由労働組合を支援するために自由労働組合委員会(FTUC)が創設された。ラブストーンはその書記に任命された。
 第二次世界大戦が終わり、米ソ間で、ギリシャ、トルコ、イタリア、西ドイツ、フランスへの影響力をめぐっての対立が激化した。この争いの中でFTUCは進んでアメリカ国務省と同盟し、国務省は多額の資金と人脈を提供した。
 1946年までには、国務省は世界中の大使館の専属要員としてAFLから22人を雇い入れるまでになっていた。
 多くの国のエージェント網との定期的な通信によって、ラブストーンはILGWU本部の事務所で報告を受け、指令を発して、世界の舞台での政治的事件の黒幕となって秘密作戦を行うことができた。彼はミーニー、デュビンスキと、AFLのナンバー3だった写真製版工組合の委員長マシュー・ウォルに状況報告をした。ラブストーンの行動は、組合員には一言も知らされなかった。
 政府から得た潤沢な資金で、ラブストーンは外国の労働組合指導者たちを賄賂で誘惑することができた。アメリカの対外政策を支持しない政府に対しては、全国的なデモやストライキをするように注文をつけることができた。主流派の組合が親共産主義だとみなされた国では、それに対抗する組合に助成資金を与えた。

 外国の労組活動家を誘惑

 外国の労組活動は、アメリカの経済と民主政治のシステムを学んでソ連のモデルと比べるために、3カ月間アメリカに滞在するように招待された。彼らは、多くの都市の労組指導者と会った。アメリカの労組の運営方法、彼ら自身の労働運動へのそれの適用法を学んだ。ラブストーンは、将来、それぞれの国で彼が使えそうな者を監視していた。
 アメリカで教え込まれた多くの外国の労働組合指導者たちは、自国に帰った後もFTUCから金を受け取りつづけた。ラブストーンの気に入った外国の労働組合は、印刷機、事務機器、教育訓練費を与えられた。アメリカの経済的・政治的利害がからんだ将来の紛争に備えて彼らの忠誠を高めておくためにあらゆる努力がなされた。
 ラブストーンは、外国への干渉を深め、フランス、イタリア、西ドイツの労組の支配をめぐる闘いに入っていった。1946年1月のFTUCの会合において、ラブストーンは、長年の配下だったアービング・ブラウンに10万jの資金を与えて、フランス最大の労働組合組織で左派のCGT〔労働総同盟〕の次の大会の代議員の中に反共ブロックを作って大会を分裂させる計画を行わせた。「西側の労働運動を全体主義の支配から救う観点からすれば、フランスは第一の国だ」ということだった。
 CGT大会の分裂のためにブラウンは精力的に活動したが、失敗した。共産党は4対1の多数を獲得し、彼らの支配を固める諸決議を通した。だが、ブラウンはあきらめなかった。47年初め、FTUCは5万jを使って、CGTを分裂させ、別の組合、「労働者の力(FO)」の設立を助けた。
 ブラウンと密接に協力していたキャファリー駐仏米大使は1月7日、国務長官代行ラベットにFOのCGTからの分裂は「〔ドイツ軍からの〕フランスの解放以来、最も重要な政治的事件となる可能性がある」という電信を送った。

 イタリアでの分裂戦術

 ラブストーンとブラウンは、フランスで成功したテクニックを用いて、イタリアの共産党に支配されたナショナルセンターCGILから対抗的な組合を分裂させようとした。CGILは、3つの主要政党(共産党、社会党、キリスト教民主党)を代表するイタリアの労働者を傘下にもつ組織であった。AFLの戦略は、CGILの中の反共勢力を強化して分裂させ、別の労働組合を作ることであった。
 国務省は、マーシャルプランの援助の代償は、政府からの共産党員の排除と明示した。47年に新たに作られたCIAは、48年の決定的な連邦議会選挙での共産党の勝利を阻止するために、1000万jを秘密選挙資金として送った。キリスト教民主党が48%の得票で勝利し、共産党は深刻な打撃をこうむった。
 48年6月、ラブストーンとデュビンスキは、3つの非共産党グループ――カトリックのキリスト教民主、共和、社会党――のCGILからの分裂を促進するためにローマにやって来た。彼らがまとまってCGILから分裂すれば豊富な資金を与えると約束したが、分裂したのはキリスト教民主党だけだった。彼らは、自由イタリア労働連盟(LCGIL)を結成した。LCGIL会長のジュリオ・パストーレは、駐伊米大使館付労組役員トム・レインに財政援助を約束されたので、初めの9カ月分として1500万jの運営資金を要求した。国務省は直ちに承認した。
 49年、共和派と社会党系の労組がCGILから脱退し、ナショナルセンターFILを作った。50年のメーデーには、ラブストーンとブラウンは、ついに目標を達成することになった。3つの反共労組が合同し、イタリア労働組合総同盟(CISL)が結成された。

 ドイツの労組再建めぐるAFLとCIOの対立

 第二次大戦の終結とともに、敗北したドイツは4つの連合国――米・英・仏・ソ――の占領地域に分割された。アメリカ占領地域における大きな問題は、どのような措置によってドイツ労働運動を再生させるかだった。
 AFLとCIOの労組再生戦略担当者の間には、鋭い対立があった。CIOの見解は、労働運動担当の米軍占領当局将校、フランク・マクシェリー准将に支持された意見で、労働組合は「草の根」から再組織されねばならないというものだった。
 この計画は、各工場で、3カ月ごとにショップ・スチュワード(職場委員)を選挙するというものだった。そして、2年後には、ヒットラーに協力した時代に存在した労働組合ではなく、新たなリーダーに基礎を置いた新たな労働組合を公式に承認するという。
 AFLの見解については、ラブストーンが次のように言っている。「FTUCは、従来のドイツの労働組合活動家をまったく妨げずに、活動を再開する機会を与えることに賛成している。われわれは、ヒットラーに押収された財産の労働組合への即時返還にも賛成だ」
 この2つの派は、互いに激しく争い、米占領軍最高司令官だったルシアス・クレイ将軍への陳情合戦が繰り広げられた。45年10月までに米軍占領地域の3000の工場でショップ・スチュワードが選出された。しかし、すでに11月には、AFLは戦前の労組指導者と協力して活動を開始していた。こうした労組指導者たちの労働組合は、非公式ではあるが、すでに活動を開始していたのだ。
 AFLがドイツの戦前の労組指導者を信頼したのは、戦争開始前に何年も関係があったからだ。AFLは「ボトムアップ」方式ではソ連がドイツ労働運動を乗っ取ってしまうと恐れたのだ。
 AFL会長ミーニーが、大統領への彼の影響力を使って働きかけたため、国務省は、46年3月に「軍政当局は、反ナチだったと確認された者が旧労組を組織化することを許可すべきだ」と声明した。
 その1月後、ドイツの労組指導者たちが会合し、30の労組を設立した。49年10月までに500万人の組合員、16の労働組合を傘下に置く西ドイツ労働組合総同盟(DGB)が最初の大会を開くことになった。
 ラブストーンは47年、ミーニーとウォルにFTUCの成果についての秘密報告書を出し、「われわれの労働組合プログラムはヨーロッパのすべての国に浸透している……。AFLは国際労働運動に影響するあらゆる分野での世界の共産主義との紛争において、世界的な勢力になっている」と述べた。
 そのかん、こうしたAFLのヨーロッパにおける秘密作戦とそれが受け取っている政府の巨額の賄賂が左派労働運動を分裂させ弱体化させていることについて、アメリカの労働組合とその組合員は、まったく知らされなかった。
 ちょうどその時、皮肉なことに、共和党は国内の労働組合に対して反共キャンペーンを開始すると同時に、タフトハートレー法を通過させた。これはCIO傘下の労働組合によって「奴隷労働法」と名づけられた。

 CIAの資金で秘密活動

 1948年12月10日、写真製版工組合の委員長ウォルとAFLの自由労組委員会の4人の労組指導者の一人が、CIAの高官だったフランク・ウィスナーに手紙を送った。「ジェイ・ラブストーンを紹介します。……彼は、われわれの組織を正式に代表して、貴殿と協力し、緊密に連絡をとり、あらゆる問題で相互に支援します」
 このようにして、AFLはこの諜報機関との関係を開始し、その後、ゆうに20年間はそれを継続していった。ウィスナーは、FTUCが諜報収集のための重要な資産でありえたこと、そしてその支援のために多額の金を支払う用意があったことを認めている。それは、数年間にわたって、何百万jにものぼったといわれている。
 ラブストーンの側から見れば、資金が追加されれば、中国、日本、インド、アフリカ、アラブ諸国への彼の作戦の拡大に役立つ。ラブストーンには、ウィスナーへの報告義務は面倒だったが、CIAの援助は必要だった。一方で彼は、「FTUCの配下からの諜報報告をCIAに提供したが、他方では、自由諸国の反共主義者を支援する」ことに賛成しているウィスナーから情報を得ていた。
 ラブストーンにとって、反対派の詮索から守るためのFTUCの帳簿の操作は簡単なことだった。たとえば49年、AFL傘下の組合は、5万6千jをこの委員会に拠出していたが、その他の20万3千jは、その他の「個人」から得ていた。つまり、CIAからだ。50年には、さらに20万2千jをFTUCに与えていた。後になると、CIAのAFLへの拠出金は、その額も秘密作戦の性格についても、秘密になる。
 ラブストーンのヨーロッパでの大規模で金のかかる反共作戦は、ほとんどが、48年から50年にかけて西欧諸国に130億jを供与したマーシャルプラン(欧州復興計画)からの流用でまかなわれた。
 マーシャルプランの規定によって、財政援助を受ける各国は、その5%を米占領軍の行政費用に当てることになっていた。それが8億j以上の裏金を生み出した。FTUCは裏金を引き出して気前良く金をばら撒くことができた。労働運動指導者を堕落させて、FTUCの注文のままにアメリカの政策を何でも支持するようにするためだ。
 マーシャルプラン資金が枯渇した時、ラブストーンは、さらにCIAに依存するようになった。しかし、第二次大戦当時ヨーロッパでアイゼンハワーの参謀長を務めたウォルター・ベデル・スミス将軍が新たにCIA長官になった。彼の管理は厳格で、AFLの秘密作戦のための費用について追及しはじめた。
 この関係を解明するため、50年11月24日に「首脳会談」が行われた。AFL側はミーニー、デュビンスキ、ウォル、ラブストーン、CIA側はスミスと配下の局長たち、そして彼の最高補佐官であるウィスナーが出席した。
 協力関係はうまくいっており、継続するということは皆が一致していた。しかし、ラブストーンはCIAが幾度かの緊急時にAFLに与えてきた援助についてお世辞を言いつつも、この関係をさらに改善する必要があると主張した。彼は、すでに特別プロジェクトに必要な資金のリストをCIAに提示していたが、無視されてきた。スミスは、その提案について再考すると発言した。
 スミスが、CIAの作戦にCIOを入れるという考えを示した時、AFL側は直ちに強硬に反対した。CIOは、この種の活動には経験がなく、また共産主義者や他の好ましくない分子に蚕食されていると述べた。ラブストーンは、CIOが引き込まれると活動はすべて台無しになってしまうと述べた。AFLとCIAの作戦に必要な秘密の保持について、CIOは信用できないといった。
 ミーニーは、トルーマン政権の中にCIOの味方が入って、彼らにも平等に国際労組活動への参加資金を供与するように勧告させていることに困惑していると述べた。(ちょうど数ヵ月前に、CIOは百万人以上の組合員を有する11の労働組合本部を「共産党に従っている」とのかどで追放していた)。ミーニーは、CIOをこのパートナーシップに入れるならば、AFLはCIAとの取り決めから脱すると脅した。
 しかし、スミスとウィスナーにとって、労働運動の一方の翼と緊密に協力しながら、他方を完全に無視することは、くだらないことだと思えた。だから、AFL側がCIA側から得られた言葉は、せいぜい、CIOをこの協力関係に入れるのは、すぐにではないということだけだった。
 アメリカ労働運動が政府の諜報機関の道具ないしパートナーになることは、それが反ソ十字軍、共産党に指導された労組に対する勝利に役立つかぎり、ミーニー、デュビンスキ、ウォルの3人組にとって正当なことだった。そして他のいかなるアメリカの労組指導者も、この労働運動組織と国際スパイ機関との秘密の取引関係にあえて挑戦しようとはしなかった。
 CIOとの窓口になったのは、CIA長官アレン・ダレスの副官だったトーマス・ブラーデンだった。ブラーデンはデトロイトまで飛び、UAW委員長ウォルター・ルーサーに現金5万jを渡した。
 CIAがどのくらいの金額をこの2つの労働運動組織に渡したのかは、公式記録に記されていない。CIAに対する連邦議会の監査は存在しない。ブラーデンが言っているように、「CIAは自分たちが考えるとおりに行動できた。軍を買うことも、爆弾を買うこともできた。CIAは最初の世界的な多国籍企業の一つだった」
 多くの証拠があるにもかかわらず、ミーニーも、デュビンスキも、ウォルも、彼らやラブストーン、あるいはAFLがCIAと関係してきたことを死に至るまで否定しつづけた。それが暴露されれば、たいへんなスキャンダルになる。彼らがCIAと協力していたばかりか、金を受け取ってCIAの指示を実行していたことが分かれば、恐らく労働運動指導者としての地位を失っていたであろう。
 CIAの金がワシントンのAFL本部に行っていた証拠は存在しない。またミーニーがその内の1kでも受け取っていた証拠もない。しかし、ラブストーンがミーニーの承認を得てCIAのエージェントとして活動していたことに疑問の余地はない。
 ミーニーは、55年のAFLとCIOの合併の後も彼の反共イデオロギーを効果的に使った。しかし今度は、CIOが左派リーダーを追放した後だったので、彼の仕事は以前よりはるかに容易になっていた。彼はAFL−CIO執行委員会に、「やくざ、悪党、共産主義者及びファシスト」というびっくりするような題をつけた決議案を可決するように説いた。
 やくざや悪党と共産主義者をひとくくりにすることは、とんでもないことだ。泥棒とか横領とかが、共産主義者に対して問題になったことなど一度もない。多くのAFL−CIOの指導者たちは泥棒・横領をやっているが。共産主義者は、ミーニーのものとは対立する、ある理論や労働組合運動の実践を行っているにすぎない。
 ファシストと共産主義者を結びつけることも、不誠実なやり方だ。こうやって労働組合の指導者たちにこの決議を飲み込ませようとしたわけだが、ミーニーはファシストを追及したことなど一度としてなかった。それどころか、労働運動の中で誰それがファシストだと指摘したことさえない。彼の標的は、共産主義者だけではない。彼が抑圧しようとしている見解を持っているラディカルや他の反対派も標的になった。
 合併の時点でAFL−CIOは合計1591万3077人の組合員を有していたことを指摘することは重要なことであろう。49年後の現在、AFL−CIOの組合員数は1300万人であり、55年の時から300万も減ったのだ。
 ミーニーは、「トップダウン」のリーダーシップを信じていた。ランク・アンド・ファイルにはほとんど気を使わなかった。彼は、ピケットラインに立ったことはないと自慢していた。労働問題のために集会やデモに顔を出すこともめったになかった。好んだこと、得意としたことは、高位の人びととの取引だった。彼は、自分自身のことを組合員に説明することが必要だとは考えなかった。批判されることを嫌い、批判者は罰するか、無視すべきだと思っていた。
 彼がAFL−CIO会長だった27年間、33名の執行委員会の中に、たった1人の女性もいなかった。せいぜい2人のアフリカ系アメリカ人ないしヒスパニックの労組指導者がいただけだ。
 明らかにミーニーは強力な指導者だったが、労働運動とこの国の労働者にとって、彼のしたことが害よりも善が多かったかどうかは疑問である。

 ラテンアメリカの選挙された政府の転覆共謀

 米国は第二次大戦に勝利し、それまでないがしろにしてきた「裏庭」に注意を向けた。中南米二十数カ国は、大部分が貧困化し、米国への憤激が増大していた。米国は、西欧に対する豊富な財政援助を行っていながら、南の隣国の切実な要求は無視していたからだ。
 これらの国で広範にひろがっていた貧困は、労働組合と民族主義政党の台頭と拡大をもたらしていた。多くのリーダーはラディカルな若者で、共産主義に吸引されていた。米政府と企業にとって恐るべきことだった。アメリカ国境から遠くない所に、ソ連が影響力、縄張りを拡大する絶好の条件ができてしまうと深刻に懸念された。
 初めから、AFLーCIOはラテンアメリカ労働者連盟(CTAL)の組織化をボイコットすることに決めていた。1939年9月のCTALの第1回大会の呼びかけは、その2年前にソ連を訪問したことがあり、共産党の路線を支持しているメキシコの労働運動指導者ビンセンテ・ロンバルド・トレドによって行われたのだ。ロンバルド・トレドはCTAL会長に選出され、多くのラテンアメリカ諸国の政府の政策にも、労働組合にも影響力を持った。
 46年1月、AFL執行委員会は中南米全域での共産主義イデオロギーの拡大に対抗するため、セラフィノ・ロムアルディを公式の駐ラテンアメリカ代表に任命した。彼は、CTALに対抗する反共労組連盟を設立していった。
 ロムアルディは、イタリアの反ファシストで、ムッソリーニ下のイタリアから米国に渡り、ILGWUローカル99というイタリア人の支部に出版物編集者として入った。彼は、AFLの駐ラテンアメリカ反共外交役に最適だとして、ILGWUのデュビンスキの目にとまった。彼は、中南米のほとんどの国を旅しており、そこの労働組合やリーダーについての知識が豊富だったからだ。
 47年4月、ロムアルディは、国務省のラテンアメリカ担当次官補だったブラーデンと会い、「共産党の労働組合への影響力は、南北米大陸での民主主義制度の安全保障、とりわけ米国の安全保障にとっての危険を増大させている」という意見で一致した。
 「共産主義の侵略と闘うAFLーCIOの活動に対する国務省の姿勢は、今後は、全面的に共感するだけではなく共に働くというものになる」とブラーデンは語った。国務省がロムアルディの行うキャンペーンに資金と援助を豊富に与えたことは明らかだ。
 AFLに催促された国際自由労連(ICFTU)は、1951年1月に全アメリカ労働機構(ORIT)を設立した。その規約には、共産党の直接又は間接の影響下にある労働組合は排除するという条項が含まれていた。ORITに対するアメリカ労働運動の支配を確保するために、ロムアルディがORITの長に任命された。
 ORIT創立大会で、AFLーCIOのミーニー会長は、その副会長に選出され、共産主義を支持する政府、ソ連に共鳴する政府には、経済援助をしないと強調した。

 (つづく)