●国際情勢
パレスチナ抹殺戦争と連帯闘争の爆発
大虐殺と自治区壊滅の大侵攻
自治区侵攻作戦の強化
2月28日以降、イスラエル軍の自治区再占領作戦は、ジェニン、ナブルス、ベツレヘム、ラマラなどへの大侵攻として開始された。さらに3月6日、イスラエル軍はガザで陸海空から00年秋以来最大規模の集中的軍事作戦を開始した。
この作戦は、3月7日に首相就任1周年を迎えるシャロンが、「治安を維持し、真の和平を実現する」という公約を全く実現できず、重大な政権危機に直面する中で打ち出された。危機の反革命的巻き返しのために、自治区を再占領し、パレスチナ解放勢力を一掃しようとする作戦であった。
だが大量虐殺と大量逮捕にも関わらず、パレスチナ武装勢力の壊滅という目的を実現することはできなかった。
こうしたなかで、米帝のジニ中東「和平」特使とチェイニー副大統領の現地派遣をてことした、イスラエルの体制的危機救済のための新たな「和平」策動が開始された。それは、@イスラエル軍のパレスチナ自治区大侵攻に激烈な怒りを燃やす周辺中東諸国人民の闘いの爆発を前に、危機と動揺を深めるアラブ諸国支配層に対する恫喝と締め付けを強化し、新たなイラク侵略戦争に向けて体制を整えること、A同時に何の解決にもならないペテン的な「和平」提案によって再度アラファトを屈服させ、パレスチナ人民の武装解放闘争を解体すること、Bそうすることによって、「中東危機」の焦点をパレスチナ問題からイラク問題にずらし、対イラク侵略戦争のための米軍の中東への大量派遣と軍事制圧体制を作り出し、パレスチナと中東の民族解放闘争の爆発を抑え込もうとするものであった。
チェイニーはこの中東歴訪によって、表面上はイラク攻撃への疑問を呈するアラブ各国から暗黙の了解を取り付けた。チェイニーの同行記者によれば、ヨルダン国王は「徹底的で迅速な(対イラク)軍事行動なら賛同する」とチェイニーに伝え、バーレーンやクウェートの指導層たちも「攻撃の際には領空を提供することで貢献したい」と相次いで協力を約束したという。サウジのファイサル外相は米人記者団に「イラク国民が先導するならば米軍参加のフセイン追放を支持する」とまで言い切っている。
こうして3月中旬から開始されたイラク侵略戦争態勢確立のためのペテン的「和平」策動は、自治政府による昨年12月の「武装闘争禁止宣言」の再確認と引き換えの停戦の実施とイスラエル軍の自治区からの撤退というかたちで進みはじめた。
粉砕された「和平」策動
だが米帝の「和平」策動は、それが対イラク戦争のためのものであり、パレスチナ解放戦争の矛を収めさせ、インティファーダ以前の状態に戻すものであることを見抜いたパレスチナ人民の武装闘争によって完膚なきまでに粉砕された。
パレスチナ人民は、「われわれは平和を望む、しかしインティファーダ以前の状態には戻りたくない」「士気は高く、正義はわれわれの側にある」と宣言して激烈な自爆戦闘に突入していった。
3月20日のイスラム聖戦によるイスラエル北部の路線バスでの自爆戦闘(8人死亡)、21日の西エルサレムの中心部でのアルアクサー殉教者軍団による自爆戦闘(3人が死亡)、22日の西岸地区との国境地帯にあるサレム検問所での自爆戦闘を皮切りに、4月1日までに計9件もの自爆戦闘が叩き付けられた。
とりわけ、27日のイスラエル北部ネタニヤのホテルでの自爆
戦闘は、ユダヤ教3大祭りのひとつ「過ぎ越しの祭り」の最初の夕食時にたたきつけられ、イスラエル人26人が死亡し、100人以上が負傷した。
この戦闘を貫徹したハマスの「イッザディーン・カッサム軍団」は、「抵抗運動以外にパレスチナ人民の選択はないとのアラブ首脳会議へのメッセージだ」とする声明を出し、武装闘争の断固たる継続を宣言した。
自治政府はこの戦闘に関して声明を出し、「責任者に対して厳しい措置をとり裁判にかける」と断言したが、パレスチナ人民の圧倒的な自爆戦闘支持を前にして何らの反動的な措置をとることもできなかった。
さらに29日には、周辺アラブ諸国人民を腹の底から揺さぶり、熱烈な反米帝、反イスラエル闘争に駆り立てる壮絶な自爆戦闘がたたきつけられた。
この日、エルサレム南西部の住宅街のスーパーマーケットで18歳の女子高校生アヤート・アクラスさんが女性としては3人目の自爆戦闘に決起した。アヤートさんは午前中に最後の授業を受けた後、検問所を迂回してエルサレムに潜入し、スーパーマーケットの入口でハーブなどを売っていたパレスチナ人女性を冷静に退去させたうえで、警備員の居るドアに近づき、腰に巻いた爆弾を爆発させた。
アヤートさんは、今年の夏に結婚を控え、卒業試験の準備をしていたベツレヘムのデヘイシェ難民キャンプ出身の女子高校生であり、ジャーナリストを夢見る勤勉で優秀な高校生であった。兄たちをイスラエル軍によって投獄され、銃弾で負傷させられ、ハマスのメンバーであるいとこ3人をイスラエル軍に殺され、3月初めのデヘイシェ難民キャンプへのイスラエル軍の侵攻で親しかった隣人を射殺されるという経験をしたアヤートさんは婚約者にも、親・兄弟、友人にも何も明かさず、密かにアルアクサー殉教者軍団の一員として自爆戦闘に決起する決意を固めたのだ。
彼女の毅然たる態度と激しい戦闘精神はアラブ諸国の若者を始めとして全人民の心を激しく揺さぶった。とりわけ自爆戦闘決行前のビデオでの決意表明はアラブ諸国の若者たちを激しく鼓舞激励するものであった。
このビデオテープでアヤートさんは、「アラブの指導者に告ぐ。目を覚ませ、任務を全うせよ。パレスチナの少女たちが戦っているのをただ座視しているアラブ諸国の兵士たちよ恥を知れ!」と激を発した。
彼女のこの言葉こそ、後述するようなアラブ諸国での激しい反イスラエル・反米帝、パレスチナ連帯の闘いの大爆発を引き出したのである。
以上のような自爆戦闘によって、ジニとパレスチナ、イスラエル側との停戦交渉は成果なしに粉砕された。
また、27、28日に行われたアラブ連盟の定例首脳会議で討議された「和平」案も粉砕された。サウジのアブドラ構想を下敷きとするアラブ統一「和平」案は、@67年占領地からの完全撤退、A国連総会決議194に基づくパレスチナ難民問題の公正な解決、B国連安保理決議に沿って、東エルサレムを首都とするパレスチナ国家独立の承認を要求し、見返りに@平和条約の締結、Aイスラエルとの正常な関係の構築を認めるというものであった。
だがそれは、難民の帰還権を主張するものではなく、「公正な解決」などというあいまいな要求と引き換えにパレスチナ人を大虐殺し、自治区を破壊、再占領しているイスラエルの国際的承認と安定化を約束するものでしかなかった。
このような「和平」案だからこそ、パレスチナ人民の自爆戦闘への決起によって粉砕されてしまったのだ。
大虐殺戦争の開始
28日、イスラエル外務省報道官は27日の自爆闘争について「越えたことがない一線を越えてしまった。もはや自制することはない」と強く非難し、国防省筋も「数時間以内の報復開始もありえる」と大規模報復に踏み切る姿勢を明らかにした。
28日夕、ハマスの武装戦士が西岸の入植地に侵入しイスラエル人4人をせん滅すると、29日、シャロンは緊急閣議の決定として「アラファトは敵だ」と宣言し、200両を越える戦車をラマラに侵攻させた。「守りの壁」作戦という名の大虐殺と自治区の全面的破壊作戦が開始されたのだ。
イスラエル軍はまずラマラのアラファトの事務所の外壁をブルドーザーで破壊して突入し、議長執務室と自宅部分を除いて制圧した。
PLO指導部を完全に隔離した上で、ラマラ市内でファタハの創設メンバーやDFLP副議長ら145人を拘束したイスラエル軍は30日夕、ナブルス、ベイトジャラに侵攻を開始した。
これに対し、3月30日パレスチナ諸組織13派はガザで緊急会合を持ち、共同戦線を強化するとともに、一斉に報復宣言を発した。アルアクサー殉教者軍団は「あらゆるイスラエル人を対象に、これまでと比較にならない波状の復讐に出る用意がある」との声明を出し、ファタハは、「占領軍と入植者への攻撃を強化する」と断固たる戦闘宣言を発した。
こうして30日夜、31日午後と自爆戦闘3件が爆発し、イスラエル人計18人が死亡した。
30日夜にはテルアビブの喫茶店での自爆戦闘で、イスラエル人25人が負傷し、31日にはハイファのアラブ料理レストランでのハマスの自爆戦闘でイスラエル人16人が死亡した。同日にはアルアクサー殉教者軍団によるエフラタ入植地での自爆戦闘で入植者4人が負傷した。4月1日には、アルアクサー殉教者軍団によるエルサレムの検問所での自爆戦闘でイスラエル警官1人が死亡した。
また1日にはイスラエル軍に協力していたパレスチナ人11人がパレスチナ解放勢力によって処刑され、イスラエルへの情報提供源が破壊された。
恐るべき皆殺し戦争
こうした事態にすさまじい危機感を抱いたシャロンは、恐るべき大虐殺と自治区完全破壊作戦に打って出た。31日にはカルキリア全市をイスラエル軍が制圧し、4月2日にはベツレヘム中心部やトルカレム、ナブルス近郊にも数百両の戦車・装甲車や武装ヘリで侵攻した。2日夜から3日未明にかけてイスラエル軍はジェニンに侵攻し、4月5日までに4万人とも言われるイスラエル軍はエリコとヘブロンを除く6自治区に大侵攻した。以後1週間以上にわたる大虐殺が行われるのだ。
自治区でのイスラエル軍の作戦は、これまでのパレスチナ武装勢力の軍事拠点に対する空爆を中心とした攻撃と異なって、自治区そのものの壊滅と武装勢力を含めたパレスチナ人民の大虐殺を目的意識的に追求する残虐極まりないものであった。
そのためにイスラエル軍は地上軍の大量投入を行い、街頭で動く者すべてを銃撃と砲撃で抹殺する作戦を実施した。
イスラエル軍はまず、自治区の中心都市や難民キャンプを大量の戦車で包囲し、蟻の子一匹這い出る隙間もないほどの完全封鎖を実施した。その上で仕掛けられた爆弾による戦車の破壊を避けるためとしてヘリによる空爆と周辺高台からの砲撃を無差別的に行い、市内にヘリからの援護を受けた戦車と装甲車、ブルドーザーを突入させた。
市内では戦車の道の確保のためとか、歩兵に対する狙撃を避けるためとかの口実で、進軍する先にあるいっさいの家を破壊した。住民がまだ内部にいるのに、ほとんど無警告でブルドーザーを突進させたり、爆薬を仕掛けて壁に大穴を開け、あるいは家そのものを押しつぶして戦車と歩兵を侵攻させた。
とりわけ難民キャンプに対する侵攻はすさまじかった。6日のラマラのバラタ難民キャンプでは住民が投降の呼びかけに応じず、退去していないのに、戦車30両を突入させ、片っ端から住宅を破壊した。これによって何十人ものパレスチナ人が住宅の下敷きになった。破壊された住宅から脱出した住民に対しては戦車とヘリからの無慈悲な銃撃が浴びせかけられた。
またジェニンなどの難民キャンプではブルドーザーを8〜10bの幅で並べ、そのまま難民キャンプのど真ん中に突撃させ、難民キャンプを真っ二つに分断した。ジェニンの難民キャンプではこうした攻撃によって3分の1の住宅が破壊された。
パレスチナ武装勢力の立てこもる地域周辺の建物をこのように破壊した後、イスラエル軍は武装勢力を壊滅させるためとして、戦車砲とミサイルによる無差別攻撃を加えた。たとえばジェニン難民キャンプでは、1万5000人の難民が住む1`四方の地域にミサイル200発を叩き込んだ。
こうした無差別攻撃にもかかわらず武装勢力を壊滅させられなかったイスラエル軍はさらに卑劣極まる手段に訴えた。1948年のデイル・ヤシン村での虐殺が難民の大量流出の引き金になったことを知っている難民キャンプの住民たちは、イスラエル軍の攻撃に必至で耐え、武装勢力とともに難民キャンプにとどまる決意を固めていた。
イスラエル軍は決死の覚悟で踏みとどまる住民に対して、「人道的観点から一時戦闘を中止して水を探しにいくことを許可する」と放送し、女性や高齢者をおびき出して一網打尽にした。そして、パレスチナ武装勢力の銃弾と自爆戦闘を避けるために、なんとそれらの人々を戦車の周囲に縛りつけたり、戦車の前に何十人も並べたりして弾よけとしたのだ!また、投降しなければこれらの人質を殺害すると恫喝し、パレスチナ解放戦士に投降を呼びかけた。
弾よけとされた人質を縛り付けて侵攻してくる戦車を攻撃できないパレスチナ解放戦士に対しては、至近距離から無慈悲な銃砲撃が加えられた。こんなことはナチスの軍隊しかやらなかったことだ。
パレスチナ解放戦士や住民が負傷しても、イスラエル軍は救急車による搬出を許さなかった。いやそもそも、戦闘が行われている自治区内に救急車が入ることさえ阻止し、医師や救急隊員が病院から出ること自体を禁止した。このため戦闘が激化しているのに、医師や救急隊員は負傷者が全くいないがらんとした病院内で歯がみしているしかなかったのである。こうして、治療を受ければ助かるはずのパレスチナ解放戦士や住民が多数死亡したのだ。
自治区壊滅攻撃
イスラエル軍大侵攻の目的は、武装解放勢力のせん滅だけではなく、自治区そのものの完全な破壊でもあった。そのためにイスラエル軍は住宅の大量破壊と並行して、自治区のインフラストラクチャーとライフラインを意識的・計画的に破壊した。
イスラエル軍が自治区に侵攻すると真っ先に行ったことは、水道管・下水管と電線・電話線を破壊・切断して電気や水の供給システムと通信網を全面的に破壊するとともに、道路を破壊することであった。これによって閉じこめられたパレスチナ住民の飲料水は底をつき、イスラエル軍の侵攻に備えて冷蔵庫内に備蓄された大量の食料もたちまち腐敗した。発電所や学校も意識的に破壊された。
こうした非人間的破壊行為は、直接的には衛生状態の悪化による住民の健康破壊を狙ったものであったが、同時に将来的に自治区に人が住めなくするためのものでもある。イスラエル軍当局は「戦闘にともなうやむを得ない被害」と強弁しているが、切断された水道管や電線を修理すると、直ちにそれがイスラエル軍によって破壊されるという現実を見れば、意識的・計画的行為であることは明らかだ。
これらの措置は住民を大量に追放し、再度の難民化を強いるものだ。水も食料もなく暗闇の中に閉じこめられたパレスチナ人民に対する国際機関からの援助物資もイスラエル軍によって阻止された。乳児のミルクも病人の薬も確保できず、最も弱い年少者や高齢者がばたばたと倒れていった。
さらには侵攻作戦を行う占領軍による民間家屋の宿舎としての接収と「テロリスト捜索」によって、家屋や家具の破壊、食料の略奪、貴金属類や現金の窃盗も頻発した。抵抗するパレスチナ人住民は容赦なく射殺されたり、すさまじい暴行と侮辱が加えられた。ある家では6日間、イスラエル兵が宿舎として使っただけで、現状をとどめないまでに家をめちゃめちゃにされ、苦しい難民生活のなかで爪に火をともすおもいで備蓄した貴重品や現金を根こそぎ奪われた。
パレスチナ人の商店もイスラエル兵によって破壊され、商品を略奪された。交通手段である乗用車や商用車も戦車によって無差別的にかつ意識的に押しつぶされた。軍事作戦に無関係な家屋や壁もジグザグ走行する戦車によって意識的に破壊された。
パレスチナ人の被害を意識的に拡大するために医療活動も徹底的に妨害された。救急車は戦闘現場への接近を阻止されただけでなく、「テロリストの逃亡の手段として使われたり、テロ活動の隠れ蓑として使われている」として攻撃の対象とされた。国連パレスチナ難民救済機関のハンセン事務局長は4月5日のテレビ会見で、「パレスチナ人の人命は無視され、この5日間で救援活動を行っているパレスチナ人73人が死んだ。特に西岸ではひどい。水が断たれ、2500カ所の難民の家が破壊された」と語っている。
また、この日までに「185台の救急車が銃撃にあい、運転手4人、医師3人が死亡、122人の運転手と医師が怪我をした。350台以上の救急車が救助活動を拒否された」とも語っている。
病院も砲撃され、破壊された。医師や救急隊員も移動を禁止された上に、患者や負傷者も家から病院に行くことを禁止された。腎臓病で人工透析が必要な人や糖尿病でインシュリンが必要な人が、病院に行かれないために死亡するという事態が頻発した。
検問も意図的にパレスチナ人民を殺すために強化された。救急車を検問で何時間も足止めすることによって、負傷者や出産間際の妊婦・新生児を死亡させるというケースが頻発した。
要するにイスラエル軍は、自治区に人間が生活できない状態を作り出そうと、ありとあらゆる卑劣で非人間的な手段をつかったのだ。イスラエル軍はこうした非人間的行為を隠蔽するために、報道陣を完全にシャットアウトした。虐殺・破壊の現場に接近しようとする記者には容赦なく銃撃が加えられた。その上でイスラエル軍は軍の撮影班が撮影したフィルムをBBCやCNNなどの外国報道機関に渡し、その放映だけを許可した。主要な外国報道機関はそれに屈服し、報道機関の社会的使命を放棄した。
シャロンはパウエル米国務長官がイスラエルに訪問する11日まで、こうした虐殺・破壊作戦を繰り返した。それは米帝のベトナム侵略戦争における残虐行為に匹敵するものであった。
フランスの雑誌『パリ・マッチ』に掲載された写真には、虐殺されたパレスチナ人の死体を前にしてにこやかに記念撮影をおこなうイスラエル兵が写っているが、これこそかつてアメリカ兵がベトナム侵略戦争時に撮った写真と同じものであり、イスラエルの虐殺戦争の性格を如実に物語るものだ。
ジェニンの大虐殺
3月28日以降の一連の自治区大侵攻で、殺されたパレスチナ人は全体で1000人を超えるという報告もある。実際、4月2日から10日まで最激戦地となったジェニンだけで200人以上の死者が出たと公式発表され、パレスチナ自治政府も死者は500人と発表しているが、未確認情報では1000人に近い死者がでていると言われている。わずか2週間ほどの間に、00年9月の第3次インティファーダ開始以降の1年半に殺されたのとほぼ同数のパレスチナ人民が虐殺されたのだ。負傷者は数知れないほど多数でていると言われている。
殺されたのはほとんどが民間人で、子どもも多くいる。軍の高官も「(ジェニンの)現場の惨状が明らかになれば、イスラエルは国際社会から非難されるだろう」と懸念するほどの虐殺と破壊が行われたのだ。
このためイスラエル軍は現在、ブルドーザーでパレスチナ人の遺体を片づけたり、あえて住宅を破壊して遺体を廃墟の下に埋め込もうとしている。街頭に放置された遺体は軍が虐殺の隠蔽のため運びだしている。
まさにジェニンは「第2のサブラ、シャティーラ」となった。この大虐殺はパレスチナ人民、アラブ人民の記憶に永遠に刻み込まれ、民族解放の日まで常に思い起こされ、怒りの炎を燃え上がらせる歴史的事件となったのである。
パレスチナ・中東諸国人民はジェニン大虐殺を永遠に銘記するとともに、圧倒的な機甲部隊やF16まで投入したイスラエルの最精鋭部隊の猛攻撃に対して旧式の小銃で最後の一兵まで戦いぬいたパレスチナ解放戦士の英雄的抵抗闘争を心の底からの感動を持って受け止めている。
とりわけ、解放戦士が自らの体に爆弾を巻き付け、それを爆発させてイスラエル兵に反撃し、救援部隊を含めて13人をせん滅した10日のジェニンの戦いや、イスラエル領での自爆戦闘によって反撃に決起した諸戦士の英雄精神を決して忘れることはないであろう。
それは全アラブ人民の歴史的な民族解放戦争開始ののろしとなるであろう。残虐なイスラエル軍のパレスチナ解放戦士と難民キャンプ住民の虐殺は、全アラブ人民の怒りの決起を引き出し、イスラエルと米帝による中東新植民地主義支配体制の最後的崩壊を決定的に促進するであろう。
3月29日以降のイスラエル軍による1000人以上の虐殺と4185人の拘束(4月11日時点)によっても、燃えさかるパレスチナ解放戦争の炎を消し去ることは決してできない。
現に、4月10日と12日には、それぞれイスラエル北部のハイファとエルサレムで超厳戒体制をうち破ってハマスとアルアクサー殉教者軍団による自爆戦闘が叩きつけられている。パレスチナ解放闘争の炎は決して消えていないし、むしろそれはますます激しく燃え上がり燎原の火のように全アラブ諸国へと燃え広がるであろう。
イスラエルは今後、再度の自治区への侵攻とパレスチナ解放勢力の絶滅作戦を計画するとともに、イスラエル領と占領地の間に幅5q、占領地とヨルダンの間に幅10qの「緩衝地帯」なるものを設置し、イスラエル領内での自爆戦闘防止を追求している。そのためにそこに住む40万人のパレスチナ人の土地と住居を取りあげ、追放しようとしている。
だが、そのような攻撃は必ずやパレスチナ人民の新たな反撃の戦いを爆発させるであろう。
パレスチナ連帯闘争の大爆発
イスラエル軍による残虐極まりない大虐殺・自治区壊滅作戦と、それに対するパレスチナ人民の英雄的抵抗闘争は周辺アラブ諸国のみならず全世界のイスラム諸国、西欧諸国においてイスラエルと米帝の侵略戦争に反対するかつてない規模と広がりを持ったパレスチナ連帯運動を大爆発させた。
周辺諸国での連帯デモ爆発
3月末のイスラエル軍の自治区大侵攻が始まると、まずなによりもパレスチナ周辺アラブ諸国で連日、抗議デモが展開された。
とりわけ隣国でガザ地区に直接国境を接しているエジプトでは、カイロとアレキサンドリアでイスラエル軍による虐殺に抗議する数千人の集会が行われ、大学生と高校生も学内でイスラエル弾劾とイスラエルとの断交を求めて抗議集会を行った。
若い学生たちは同世代のアヤート・アクラスさんの自爆戦闘に触発され、政府による学外でのデモ禁止措置をうち破る激しい闘争を展開している。4月5日以降は、大学の構内から学外デモに打って出るのを阻止しようとする機動隊と連日激突している。4月9日にはアレキサンドリアで学生一人が警官の発砲で虐殺された。この日、身の危険を感じたイスラエル外交官と家族ら45人がエジプトから出国した。
10日には2500人の学生たちが、放水銃でデモを阻止しようとする警官隊をついに投石で粉砕して構外に進出した。11日には警官隊と激突する学生の数はさらに増え、ムバラク政権を激しく揺さぶっている。このため政府はイスラエルとの政治的関係を停止せざるを得なくなっているが、この程度の措置ではエジプト人民・学生の怒りを収めることは決してできない。
学生たちの要求は「アラブ諸国は聖戦に扉を開け」「イスラエルでの自爆戦闘参加を認めろ」というものであり、すでに何人もがパレスチナ人と共に戦うために、国境を密かに越えてガザに潜入していると言われている。
例えば3月上旬には14歳と19歳の若い女性2人がガザに入ろうとして阻止されたが、彼女たちはガザで自爆闘争を行うつもりだったと語っている。
パレスチナ連帯の闘いは米帝・イスラエルとの密接な協力関係を維持しているエジプトを体制的危機に叩き込んでいるのだ。
全人口の3分の2がパレスチナ人であるヨルダンでは、5日、アンマンで数千人のデモ隊がイスラエル大使館に向かおうとして警察と激しく衝突した。またこの日の長時間テレビ番組でのパレスチナ支援募金は9時間で900万jを集めた。
以後、ヨルダンでは連日激しいデモが行われ、4月7日には弾圧による死者もでている。ヨルダン王制も重大な危機に直面している。
同じくパレスチナ難民が多く居住するレバノンでも首都ベイルートを中心に連日数千人の激しいデモが米大使館に叩きつけられている。
さらに重要なのは米軍の駐留するサウジやバーレーンなどで米大使館・領事館に断固たるパレスチナ連帯のデモが叩きつけられていることだ。サウジでは4月5日に米領事館のあるダーランで、デモ禁止を粉砕して2000人のデモ隊が米領事館前で集会を勝ち取り、さらに2500人がアルカティフでデモを行っている。パレスチナ救援募金運動では13時間に何と8千8百万jが集まった。
米第5艦隊の基地があるバーレーンでは、4月5日、首都マナマで2000人のデモ隊が米
国大使館に火炎瓶などをなげ、治安部隊と衝突している。
同日にはイエメンでも数千人が首都シャナで米大使館にデモを行い、カタールでは首都ドーハで1万人のデモ、アラブ首長国連邦ではドバイの米領事館前で7000人の抗議闘争が叩きつけられている。8日にはクウェートでも91年以来最大規模の1万人のデモが行われている。
そして4月7日には、モロッコの首都ラバトでは100万人の巨大デモが、デモ禁止を政府に解除させて勝ち取られている。その他、イラク、イラン、シリア、トルコ、アルジェリア、スーダン(8日に7万人のデモ)でも大規模な連帯デモが行われている。
これらのデモはいずれもパレスチナ連帯、反米帝・反イスラエルの激しい意思表示を行ったものとして、反動王制や保守的支配層の支配の危機を激化させているだけでなく、米帝の中東支配体制を根底的な危機に叩き込んでいる。
アラブ諸国人民は米帝がパウエルを中東に派遣しながら、イスラエルにパレスチナ人民大虐殺戦争を最後まで遂行する時間を与えるために、イスラエル訪問を先延ばしにしたことに怒りを爆発させた。
イスラエルの大侵攻に対するパレスチナ解放戦争の爆発は、これら諸国の被抑圧人民を根こそぎ決起させ、米帝の中東支配体制を最後的に解体するすさまじい闘いの爆発局面を切り開いているのだ。
なお、イスラエル国内でも4月6日に「ピースナウ」などの主催で、イスラエル軍の大侵攻に反対し、占領地からの撤退を求める1万人のデモが行われている。
とりわけイスラエル国籍を持つパレスチナ人の反戦デモへの参加、イスラエル軍の占領地への侵攻阻止のための道路封鎖闘争の実力闘争への決起など、若者層を中心にこれまでと明らかに質の違う大衆的決起が始まっている。ユダヤ人の軍務拒否運動参加者も4月13日時点で417名に達した。36名の投獄にもかかわらず、運動は拡大しつづけ、シャロン政権を追いつめている。
全世界で反戦闘争爆発
イスラエルのパレスチナ人民虐殺戦争は全世界でベトナム反戦闘争以来のパレスチナ連帯の反戦運動を爆発させている。詳しくは37ページの表を参照してほしいが、主要なものだけでも3月30日のフランス・パリでの1万5000人のデモ、同ストラスブールでの数千人のデモ、同リールでも3000人のデモ、4月6日のローマでの5万人の反戦デモ、パリでの2万人のデモ、スイスのベルンでの9000人のデモ、ドイツでの5000人のデモ、6日のニューヨークでの2000人のデモ、7日のローマでの数千人のデモ、ベルギーのブリュッセルでの数千人の米大使館デモなどが行われている。これらの闘いは新たなインティファーダ開始以来のパレスチナ人民の激しい抵抗闘争に触発されて、米帝とイスラエルによるパレスチナ人虐殺政策を許してきた自分たち自身のあり方を反省するという立場に立つものであり、明らかにこれまでとは質的に異なる闘いとしてある。
この他、アントワープ、マドリード、アテネ、キプロス、オスロ、ストックホルム、パキスタン、バングラデシュ、インドネシア、フィリピン、ブラジル、チリ、エクアドル、ニカラグア、キプロス、南ア、モーリタニア、ウガンダなど世界各地でパレスチナ連帯デモが爆発している。 パレスチナ人民の闘いはアラブ諸国、イスラム諸国だけでなく
、全世界の被抑圧人民に感動を与え、帝国主義的の植民地支配体制を根底から覆す歴史的な解放闘争ののろしとなった。
世界危機の急速な激化の中でのこうした闘いの爆発は、帝国主義によるプロレタリアートと被抑圧民族の支配を国際的内乱でうち破る闘いの歴史的突破口を切り開くものとなっている。
パレスチナ人民のさらなる闘いの爆発は不可避であり、それと連帯する国際的反戦闘争はさらに激化するであろう。
われわれは日本におけるパレスチナ連帯の闘いの立ち遅れを厳しく総括し、直ちにパレスチナ、中東、イスラム諸国人民との連帯をかけた一大反戦闘争の実現のために決起しなければならない。
戦争と大恐慌時代における労働運動と有事法制粉砕闘争の爆発とパレスチナ反戦闘争を結合して、かつてのベトナム反戦闘争を量的・質的に乗り越える歴史的な闘いを実現しよう。
-------------------------------------------------------------------
国際連帯闘争の爆発
▼3月30日
・フランス ストラスブールで仏・独、ベルギーなどから集まった数千人のデモ マルセイユでも1600人のデモ、パリでは1万5000人のデモ、リールでも3000人のデモ
・ドイツ ベルリンで1000人のデモ、ハノーバー、ミュンヘン、デュッセルドルフでもデモ
・アテネ、オスロ、ストックホルムでもデモ
▼3月31日 クウェートでもデモ
▼4月1日
・ミシガン州ディアボーンで数百人がデモ
・ギリシアのアテネで2000人のデモ
・レバノンのアワカルでの数千人の米大使館デモ
・スーダンのハルツームで2万人のデモ
・バングラデシュ ダッカでデモ
・エジプト カイロで数千人がイスラエル大使館にデモし警官隊と衝突 ガス弾と放水銃で弾圧
▼4月2日
・カイロでイスラエル大使館に数千人のデモ
・ブラジルのブラジリアでもデモ
・アンマンで数千人のデモ
▼3日
・ベルギーのアントワープで500人のデモ
・エジプト カイロ大でデモ
・レバノンのアワカルの米大使館に数千人がデモ
・バクダッドで数千人のデモ
・トルコ、インド、バングラデシュでもデモ
▼4日
・ダマスカスで数万人のデモ
・インドネシア ジャカルタで2000人が米大 使館デモ
・イスラエル イスラエル国籍のアラブ人の決起 テルアビブで警官隊と激突
・レバノン シドンで3万人のデモ
▼5日
・シリア ダマスカス南部のクネイトラで500 0人のデモ
・ニューヨーク 2000人のデモ
・エジプト カイロで数千人が機動隊と激突
・ヨルダン アンマンで数千人のデモ 警官隊と 激突
・サウジアラビア ダーランの米領事館前で2000人が集会、アルカティフで2500人がデモ
・イエメン 首都シャナで数千人が米大使館デモ
・カタール 首都ドーハで1万人のデモ
・バーレーン 米大使館にデモ 火炎ビンが飛ぶ
・アラブ首長国連邦 ドバイの米領事館前で7000人の抗議闘争
・イラク 2万人がバグダッドでデモ
・テヘラン 1万人のデモ
・イスタンブール 数百人のデモ、警官隊と激突
・ブラジル リオデジャネイロでデモ
・ベイルート 数千人が米大使館抗議デモ
・ニカラグア マナグアで数百人のデモ
・イスラエル イスラエル国籍のアラブ人のデモ
ハイウエー封鎖闘争
・南ア プレトリアでイスラエル大使館デモ
▼6日
・イタリア ローマで5万人のデモ
・フランス パリ 2万人のデモ
・チリ サンチャゴで数千人のデモ
・スイス ベルンで9000人のデモ
・トルコ アンカラで4000人のデモ
・ドイツ 5000人のデモ
・インドネシア 1000人のデモ
・イスラエル テルアビブ ピースナウなどの軍事侵攻反対のデモ 1万人が参加
・パキスタン カラチでパレスチナ連帯デモ
▼7日
・ヨルダン デモ隊が警察と激突、1人死亡
・モロッコ 首都ラバトで100万人のデモ
・ブリュッセル 米大使館に数千人がデモ
・ベイルート 国連事務所に5000人のデモ
・パキスタン カラチで5000人のデモ
・シリア ダマスカスで数千人のデモ
・インドネシア ジャカルタで5000人のデモ
・トルコ イスタンブールで1000人がデモ
・イタリア ローマで数千人規模のデモ
▼8日
・インドネシア ジャカルタの米大使館デモ
・ヨルダン アンマン郊外で1万5千人人のデモ
・スーダン ハルツームで7万人のデモ
・イスラエル イスラエル国籍のアラブ人数百人のデモ
・クウェート 91年以来最大規模の1万人のデモ
▼9日
・パナマ 数千人のイスラエル大使館デモ
・エジプト アレキサンドリアでデモ 学生1人が殺される
▼10日
・エジプト アレキサンドリアで2500人の学生と学生が激突、市内の病院は負傷した学生と警官でいっぱいになった
・バーレーン マナマで学生デモ、警官隊と激突 数百人が負傷
・ギリシア アテネで数千人の抗議集会
・フィリピン マニラでイスラエル大使館デモ
▼11日
・エジプト アレキサンドリア 数千人の学生が9日の学生虐殺に抗議して警官隊と激突
|