団結ひろば 投稿コーナー
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6・14反戦デモに勝利したぞ
首都圏・学生 幸田伊吹

去年の6・14闘争と比べても、今回のスクラムデモはさらに強力なものとして登場できたと思う。私は学生としてデモの先頭近くにいたが、そこには国家権力・機動隊による圧迫をものともせずに進撃を続けるデモ隊の勇姿があった。権力が定めた「規制線」などまったく意味をなさずに踏み越えられた。それに動揺し逆上した機動隊は躍起になり、われわれへの憎しみをむき出しにして「左に寄れ」だのと怒鳴り散らかしながらさらなる攻撃を加えてきたが、まったく無駄であった。
なぜならば、やつらがわれわれを憎んでいる以上にわれわれは帝国主義を憎み、その怒りをもって進み続けるからである。この6・14反戦集会・首相官邸デモを勝利しぬいたことによって、なんとしてでも帝国主義を打倒する、そうした人民の意志がもはや覆い隠せなくなったこと、これが明白になった。
当然である。イラン・レバノン―中東人民を自らの金もうけのために殺し続け、その上さらにやつらは次なる戦争=中国侵略戦争を始めようというのだ。「国際的秩序のため、平和のため」といった帝国主義者どもが人民をだますためにつき続けてきたウソとごまかしは、やつら自身が吹き飛ばしてしまった。
帝国主義戦争のための戦争翼賛国会も大軍拡も、われわれ人民は絶対に許しはしない。ゆえにこそ、これ以降も怒りに燃える人民の隊列が陸続と現れ、帝国主義の本陣へと向かってゆくであろう。
国会前の怒りが6・14に合流
東京 石川真志

6・14全国集会とデモで、参加者へのプログラム配布と公園周辺やデモ沿道での署名活動を行いました。「国会正門前でビラをもらった。もうガマンできないと思って参加した」「5月3日の憲法集会でビラをもらった。高市政権は最悪」など、国会行動に参加している方が集会・デモに合流してきました。その多くが女性で、「高市の戦争政治許さない」というマイボードを作って来た人も。大阪から電車で駆けつけた女性もいました。
6月4日の高円寺デモに参加した40代の女性は、「戦争止めなきゃ、いてもたってもいられない」と今回も集会・デモに参加。集会後、会場でデモ訓練をやっている第1梯(てい)団の姿を見て「私もヘルメットをかぶっていいんですか」と、実力デモに大いに勇気づけられたそうです。
さらに中国人留学生や中国から来た日本語学校の学生、「デモに参加させて下さい」と集会の後半に合流してきた20代の中国人女性も元気いっぱいでデモを闘いました。中国人民と連帯し、中国への侵略戦争を阻止する唯一の闘いとしての意義は鮮明だと思います。
国会前などあらゆる闘いの現場でビラをまき、署名をとり、「前進」を販売してきた活動は確実に闘争参加に結びついています。しかし、まだまだ始まりに過ぎません。集会の基調報告やすべての発言でも「国益主義との対決」が強調されていましたが、この集会の中身をもっともっと階級の中に持ち込み、日本共産党などとの党派闘争に勝ち抜かなければなりません。その最大の武器こそ「前進」です。今回、多くの初参加者に販売しましたが、さらに意識的に機関紙拡大に挑戦し、今夏の反戦闘争を闘い抜きたいと思います。
闘い貫く皆さんに深く感動
中国の女性
中核派の同志の皆さん、こんにちは! 私は中国から来た国際主義を掲げる左翼青年です。
私と周囲の同志たちは、皆さんが闘う姿を常に注視しています。現在の日本の政治情勢下において、なおも闘いを堅持されていることに、深い感謝と敬意を表します。
私が「前進」週刊紙の内容を彼らに転送した際、彼らは強い衝撃を受けると同時に深く感動しました。衝撃を受けたのは、現在の日本に闘いを堅持する革命的左翼団体がいまだに存在しているということ、そして感動したのは、皆さんが闘いを貫くその決意です。
同時に、「前進」週刊紙における中米関係の分析、特に中国の現状に対する分析には、私たちも大いに共感しており、非常に大きな示唆を受けています。
中核派の同志の皆さん、皆さんは決して一人で闘っているのではありません。中国の同志たちも、皆さんが置かれている状況を常に案じています。共に手を取り合い闘い続けましょう。
明日のために団結せよ! 全世界のプロレタリアートよ、団結せよ!
映画オールド・オークを見て
矢口ワタル
ケン・ローチ監督の映画「オールド・オーク」を見た。舞台は2016年のイングランド北東部、かつて炭鉱で栄えた町だ。炭鉱が閉鎖され、仕事も誇りも奪われた町に、シリアから逃れてきた難民の家族たちが移り住んでくる。
物語の中心にあるのは町に残された最後のパブ「オールド・オーク」だ。店主TJは荒れた店を一人で守っている。かつて奥の部屋には炭鉱労働者たちが集まり、結婚式や集会、語らいがあった。壁にはサッチャーと闘った労働者たちの団結を写した写真が残る。だが今、その部屋も人びとの心も閉ざされている。
難民の受け入れをめぐり、住民の怒りはシリア人家族へ向かう。しかし映画は、彼らを単純な差別者としては描かない。共同体を壊し、労働者の生活と誇りを奪ってきた政治と経済が見えにくくされ、怒りは上ではなく、隣の人びとへ向けられてしまう。
前作「家族を想(おも)うとき」は、ギグワークに追いつめられた一家が、時間も身体も家族関係までも奪われていく現実を描いた。本作では、その痛みが家庭から地域全体へと広がっていく。
シリア人女性ヤラは、カメラを手に町を見つめる。TJは彼女たちとの関わりの中で、炭鉱労働者の記憶と向き合っていく。映画の中心にあるのは、「ともに食べて団結を」という炭鉱労働者のスローガンだ。その言葉は、物語の中で静かによみがえる。食事を分かち合うことは慈善ではなく、連帯なのだと。
もちろん、映画は安易な和解で終わらない。差別も憎悪も、壊された町の現実も、簡単には消えない。だからこそ、ここに灯(とも)る希望は軽くない。それは映画の中で完結する答えではなく、問いとして私たちに投げ返される。