侵略と戦争の「昭和100年」③中国 血債かけ中国侵略戦争阻止を
週刊『前進』04頁(3443号04面01)(2026/04/20)
侵略と戦争の「昭和100年」③中国
血債かけ中国侵略戦争阻止を

(写真 南京城内外での大虐殺の後、朝香宮ら軍幹部の入城式が行われた【1937年】)

(写真 日本軍が撤退時に破壊しきれず、今もハルビン市に残る731部隊の施設跡)
朝鮮、台湾に対する過酷な植民地支配の歴史とともに私たちが胸に刻まなければならないことは、日本帝国主義による暴虐極まる中国侵略戦争の歴史である。日帝は1931年の柳条湖事件から45年の敗戦まで、のべ数百万人の「皇軍(天皇の軍隊)」を中国に送り、虐殺と破壊、略奪、放火、性暴力、あらん限りの人権侵害を繰り返し、2千万人近くの中国人民を虐殺した。昭和天皇ヒロヒトはその戦争で「大元帥」として重大な犯罪的役割を果たした。戦後革命期に日本労働者階級は、血債にかけて日帝と天皇制を打倒しなければならなかったが、それをなしえず、現在まで日帝の延命を許してきた。再び開始された中国侵略戦争を絶対に阻止し、闘う中国―アジア人民と連帯し、日帝と天皇制を打倒しよう。
殺し、焼き、奪い尽くす侵略 中国人民の抗日闘争を恐れ
高市政権が侵略戦争と植民地支配の歴史を抹殺し、「昭和100年」を「激動と復興の時代」として祝う狙いは何か。それは、アジア―中国・中東人民の犠牲の上に成り立ってきた現在の日帝国家体制と天皇制を「国民が皆で守るべきもの」として押し出し、「祖国防衛」イデオロギーで労働者人民を屈服させ、再び中国侵略戦争に動員することである。日本帝国主義は1894~95年の日清戦争で清から巨額の賠償金と領土の一部を奪い、台湾を植民地化した。賠償金は当時の日本の国家予算の4年分に相当する巨額だった。その大部分が戦艦や大砲の購入などに充てられ(これで日露戦争を準備した)、残りは八幡製鉄所(現日本製鉄)の建設や金準備に使われた。このように日帝は中国から奪ったもので帝国主義としての形成の基礎を築いた。
日帝の侵略と植民地支配に対して朝鮮・中国人民は不屈に抵抗し、とりわけ1917年ロシア革命以降、各地で抗日武装闘争を激しく闘った。これを鎮圧することは日帝にとって死活的な課題であり、国家の総力を挙げて泥沼的に侵略出兵を拡大していった。
日本軍は31年9月に「南満州鉄道(満鉄)」を爆破、これを「中国人の犯行」とでっち上げて中国侵略戦争を拡大し(柳条湖事件)、32年にかいらい国家「満州国」をでっち上げた。さらに37年7月の盧溝橋事件を契機に中国全土へ戦線を拡大した。
日本軍は中国人民を虐殺し、家を焼き払い、金品・食料を奪い、女性を襲って性暴力を加えた。日本軍の残虐行為を、中国人民は怒りを込めて「三光(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)」作戦と呼んだ。
日本人民が決して忘れてはならない二つの残虐行為を取り上げる。
南京を包囲し中国人民30万人を虐殺
37年12月、日本軍は中華民国の首都・南京を攻略し、約30万人を虐殺した。10~12日、南京城に総攻撃を仕掛け中国軍や民間人に大砲の集中砲火を浴びせ、戦車を先頭に城内に突入、包囲せん滅戦を行った。司令官は「あらゆる手段を尽くし敵をせん滅すべし」「青壮年はすべて敗残兵または便衣隊と見なし、逮捕監禁すべし」と命令した。「便衣隊」(便衣兵)とは「私服を着た兵士」の意味である。日本軍は中国人民の抗日闘争が軍民一体で全人民的に闘われていることに恐怖し、兵士と見なして民間人を殺害した。日本軍は「捕虜は作らぬ方針」であり、「逮捕監禁」すらせず即刻その場で殺害した。上海派遣軍の司令官は皇族の朝香宮鳩彦(やすひこ)であり、南京に到着した朝香宮の第一声は「中国人の捕虜は全部殺せ」という命令だったのだ。南京大虐殺に先立ち、日本軍は上海から南京へ向かう約300㌔メートルの道中でも民家を襲い、食料を強奪し、虐殺・放火・性暴力を繰り返した。移動の途中で一般兵士に食料を補給せず、「現地調達」すなわち「住民から奪え」というのが日本軍の方針だったのだ。民家に押し入り、住民が拒否すれば殺害して食料を奪った。寝泊まりした民家を出発する時には焼き払った。日本軍が抗日根拠地と見なした町では老若男女すべてが敵とみなされて殺され、町は破壊された。
また、兵士は女性を襲い性暴力を働いた。軍の幹部は処罰するどころか、「兵士の元気をつくるに却(かえ)って必要」などと言って黙認し、そそのかした。
昭和天皇は南京占領の知らせに大喜びし、「陸海軍諸部隊が……勇猛果敢なる追撃を行い、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申し伝えよ」と「言葉」を発した。これに激励された日本軍がさらに残虐な「残敵掃討」戦を行ったのだ。
生体解剖、細菌戦研究の731部隊
日本軍は1933年、中国東北部(当時、でっち上げ「満州国」)のハルビンに「731部隊」(「関東軍防疫給水部」、通称「石井部隊」)を設置し、生体解剖や細菌兵器の研究・実験・製造を行い、3千人以上を殺害した。またこの施設で培養した菌を用いて南京や上海近郊に細菌戦攻撃を仕掛け、多くの中国人民が感染して殺された。皇族の竹田宮恒徳が陸軍中佐として、731部隊の担当参謀であった。拘束された中国・朝鮮人民は、許しがたいことに「マルタ(丸太)」と呼ばれてモノ扱いされ、生きたまま解剖された。犠牲者には女性や子どももいる。何という極限的な差別か! だが、それは反日帝・民族解放闘争を闘う中国・朝鮮人民の不屈、勇気、人間的気高さに対する日帝の恐怖と憎悪の表れである。正面から人間として向き合うことができなかったのだ。
拘束された人々は互いに励まし合い、困難な中で団結を保とうとした。中国共産党の一党員は妻と幼い娘とともに捕らえられたが、監獄内で「最後まで屈するな。勝利を信じろ」と仲間を励まし続けたという。45年6月、証拠隠滅のため全員の殺害が計画された時に被収容者は施設内で蜂起し脱出を図ったが、無念にも鎮圧された。その後、施設の爆破作業で監獄に足を踏み入れた731隊員は、独房の壁に大きく血で書かれた「打倒日本帝国主義」「中国共産党万歳」の文字を見て、激しい衝撃を受けたという。このように極限状況の中でも中国人民は屈服することなく闘い続け、日帝の敗北(45年8月)―中国革命(49年10月)の勝利を切り開いたのだ。
戦後、731部隊の悪行は闇に隠され、生体解剖や生体実験、細菌戦にかかわった幹部は米軍の意向で責任追及を免れたばかりか、「医学の発展に寄与した」などと評価され、大学、医学界、公的機関、製薬会社で重要な地位に就いた。京都府立医大学長となった元陸軍技師の吉村寿人(天皇が勲章を授与)や元軍医少佐の内藤良一(ミドリ十字〔現田辺ファーマ〕創業者)らである。天皇が免責されたことが、こうしたやからの免責、延命につながったのである。
部隊幹部が持ち帰った研究資料は米軍に渡され、細菌兵器の開発に利用された。朝鮮戦争で実際に使われたといわれる。
日帝を打倒し中国侵略戦争阻止を!
日帝・高市は、南京大虐殺をはじめとする日帝の中国侵略戦争の事実をつきつけられても、「日本の自存自衛のための戦争」「反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもない」(1995年3月、衆議院外務委員会)などと開き直っている。絶対に許せない。日帝を打倒し、再びの中国侵略戦争を阻止しよう。(畑田治)
【主な参考文献。笠原十九司『南京事件』(新版)、森村誠一『悪魔の飽食』】