侵略と戦争の「昭和100年」②台湾・朝鮮 台湾・朝鮮侵略と植民地支配

週刊『前進』04頁(3442号04面01)(2026/04/13)


侵略と戦争の「昭和100年」②台湾・朝鮮
 台湾・朝鮮侵略と植民地支配


 日本帝国主義は日清・日露戦争をもって台湾と朝鮮を植民地化した。それ自身がすさまじい侵略と虐殺の過程だ。1945年敗戦まで台湾と朝鮮は、天皇直轄の総督府・軍・警察による支配と血の弾圧のもと、日帝の中国―アジア侵略戦争遂行のための食料・資源・労働力の供給地、兵站(へいたん)基地とされた。それは強制連行による炭鉱などでの奴隷労働、軍隊慰安婦、皇民化・皇軍兵士化による極限的な民族抹殺にまで行き着いた。敗戦=解放後も日帝は植民地支配の歴史を居直り、中国―台湾の分断、朝鮮半島の南北分断に加担し、入管体制で在日朝鮮・台湾―中国人への抑圧・弾圧を継続した。この全歴史を階級的自己批判の立場をふまえて徹底的に暴露し、闘わなければならない。(編集局)

台湾奪い尽くした日帝
 半世紀の植民地支配と抵抗

(写真 1923年に台湾を訪問し、三井財閥が中心となり高雄に設立した「台湾製糖株式会社」を視察する摂政時代のヒロヒト【右端】)

 日帝・高市は昨年11月の「台湾有事は存立危機事態」発言で、中国侵略戦争への参戦意思をむき出しにした。これは日帝による台湾強奪、「第二の侵略」宣言だ。日帝は台湾や中国大陸で行ってきた残虐な侵略の歴史を今なお「宗主国」であるかのように居直り、中国への排外主義扇動を激化させている。
 日帝による台湾侵略と植民地支配の歴史は、抵抗する民衆を徹底的に殺戮(さつりく)し台湾を強奪していった歴史だ。日帝は1894年に開始した日清戦争の末、清国に対して講和条約で巨額の賠償金とともに遼東半島・台湾などの割譲を認めさせた。条約締結後、日帝はただちに海外展開部隊の半分を台湾に差し向け、上陸作戦に乗り出した。日帝はここから台湾全土を制圧する征服戦争を遂行し、この約5カ月間の戦争で1万4千人を超える台湾民衆を殺害した。
 さらに台湾総督府による圧政の一方で、1910年からは台湾山岳部に対して「理蕃(りばん、「蕃」は原住民の蔑称)政策」という名の侵略戦争に乗り出した。原住民の民族集団を丸ごと破壊・抹殺し、資源や土地を奪い取ったのだ。

土地や資源奪い侵略戦争に動員

 50年に及ぶ総督府による植民地統治は、一切の権限を掌握する総督による独裁的支配であった。武断統治のもとで台湾全島からあらゆるものを強奪し、徴税や罰金を通じて徹底的に収奪した。「日本人はフンドシ一枚で台湾に来て、土地、建物、物資などを欲しいままに掠奪(りゃくだつ)したのだ。だから内地から来た日本人が、初めは乞食(こじき、ママ)同然でも、たちまちのうちに『富豪』になる。それに比例して、台湾人は『乞食』か『日本人の奴隷』にされていくのである」(林歳徳『私の抗日天命 ある台湾人の記録』)
 〝日本の植民地支配下におけるインフラ・教育・医療の発達のおかげで戦後の台湾は高度な社会になった〟という言説は、まったくのウソだ。日帝は帝国主義的利害を追求するという一点のために、台湾をあくどく利用し尽くしたのだ。
 しかし、300万台湾人民は日帝の侵略・植民地支配に不屈の抵抗を続けた。日帝の侵略軍隊に対して、武装した民衆は老若男女問わず抗日闘争に立ち上がった。その後の総督府による圧政のもとでも数々の武装抵抗や蜂起が繰り返し闘われ、労働運動・農民運動が爆発した。17年ロシア革命や朝鮮の19年3・1独立運動と共嗚し、世界革命へ向けて民族解放のエネルギーを解き放つ闘いだった。
 最大の抗日蜂起として30年の霧社事件(セデック族の一斉武装蜂起)がある。「理蕃政策」に怒りを燃やし、死をも覚悟したセデック族の一団が入植者である日本人を襲撃し132人を殺害したのだ。この蜂起は日帝を驚愕(きょうがく)させ、総督府による支配を揺るがした。
 37年から日帝が中国侵略戦争に突入する中で、植民地支配はより凶暴なものとなった。特に台湾は、東南アジア侵略のための兵站(へいたん)基地とされていった。
 皇民化教育や同化政策が徹底的に強化される中、20万人超が戦争に動員され、3万人超が戦死させられた。原住民を中心に結成された部隊(高砂義勇隊)は南方の最前線に送り込まれ、日本兵の盾とされた。軍隊慰安婦として戦地に送られた女性は2千人以上に上るとされる。

米帝支配のもと反共の防波堤に

 日帝敗戦後、台湾民衆は世界的な戦後革命期の中でただちに民族解放闘争のエネルギーを爆発させ、解放に向けて闘っていった。しかし、この闘いを徹底的に圧殺したのが蒋介石・国民党軍であった。47年2月28日には、闇タバコ取締官が行商人の女性を暴行した事件をきっかけに台湾全土で民衆が抗議デモ・ストライキに決起。この闘いは官庁や警察署の占拠から行政改革要求や地方自治要求にまで拡大した。それに対して国民党軍は中国本土から1万3千人の軍隊を差し向け、知識層を中心とする2万8千人超の民衆を虐殺したのだ(「2・28事件」)。
 その国民党軍を支えたのがアメリカ帝国主義であり日帝だ。中国大陸では、国共内戦を経て49年10月に中国革命の勝利が勝ちとられた。支配の座を奪われた蒋介石が台湾に逃げ込むと、米帝は台湾を日本や韓国と並ぶ「反共の防波堤」とした。台湾はアジアにおける民族解放闘争を圧殺し、革命を阻止するための反共分断軍事基地国家と位置づけられた。そして米帝は、38年に及ぶ戒厳令下で徹底的に人民の闘いを弾圧した独裁政権を支え、湯水のような経済支援・軍事支援を行った。朝鮮戦争による「特需」で「復活」をとげた日帝も同様に、台湾をアジア再侵略の足がかりとした。
 米帝と日帝・高市の中国侵略戦争・台湾強奪戦争は、連綿と続く台湾民衆の闘いに銃を向け弾圧し、圧殺していくものだ。台湾民衆の闘いと連帯し、血債にかけて中国侵略戦争を絶対に阻止しなければならない。
(村雨省吾)

日帝の台湾・朝鮮侵略関連年表
1875年9月 江華島事件
 76年2月 日朝修好条規締結
 94年7月 日清戦争勃発(~95年)
   8月 第1次日韓協約締結
 95年5月 日本軍が台湾上陸開始
   10月 朝鮮で日本軍人らが国王高宗の妃・閔妃を殺害
   11月 第2次日韓協約締結
1904年2月 日露戦争勃発(~05年)
 09年10月 安重根が伊藤博文を射殺
 10年   台湾で「理蕃政策」開始
   8月 日帝が「韓国併合」
 14年7月 第1次世界大戦勃発
 17年11月 ロシア10月革命
 19年3月 朝鮮で3・1独立運動
 23年9月 関東大震災、朝鮮人・中国人虐殺
 30年10月 台湾で霧社事件始まる
 31年9月 柳条湖事件
 37年7月 盧溝橋事件、日帝が中国全土へ侵略戦争を拡大
 39年7月 朝鮮人強制連行を開始
   9月 第2次世界大戦勃発
 41年12月 アジア・太平洋戦争開戦
 45年8月 日帝敗戦、朝鮮分断
   10月 台湾が中華民国管理下に
 47年2月 台湾で2・28事件
 48年4月 朝鮮・済州島4・3蜂起
   8月 大韓民国成立
   9月 朝鮮民主主義人民共和国成立
 49年5月 台湾で戒厳令施行
   10月 中国革命が勝利
   12月 蒋介石・国民党が台湾へ逃亡
 65年6月 日韓条約締結

民族抹殺した朝鮮支配
 不屈の独立・解放の闘い

(写真 2011年12月、1000回目を迎えたソウル・日本大使館前での「水曜デモ」で、「平和の少女像」の公開を喜ぶ日本軍軍隊慰安婦被害者のキムボクトンさん【左】、キルウォノクさん【右】ら)

 日帝は1875年の江華島事件以来、朝鮮への軍事侵攻と内政干渉を繰り返した。日清・日露戦争後の1904~05年、2次にわたる日韓協約で朝鮮に統監府を設置して「保護国」化し、外交・内政を全面的に支配。これに対して朝鮮人民は命がけの抗日義兵闘争に立ち上がり、独立運動家の安重根(アンジュングン)は09年に初代統監・伊藤博文を射殺した。徹底的な弾圧で義兵闘争が鎮圧された後も闘いは続き、19年の3・1独立運動では200万人以上が決起した。
 10年に「韓国併合」=朝鮮植民地化を強行した日帝は、「七奪(主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源を奪った)」と表現されるように、日本式の氏名を強制する「創氏改名」をはじめ、歴史や文化も含めた民族抹殺攻撃を推し進めた。天皇直轄の朝鮮総督府は「土地調査事業」の名で土地や資源を強奪し、日本人に安く払い下げた。農民の8割近くが土地を奪われ、来日することを余儀なくされた。これらを背景に生み出された在日朝鮮人は日帝による侵略と戦争、植民地支配の生き証人だ。
 朝鮮人民の存在と闘いに恐怖した日帝は激しい差別・排外主義をあおり、23年の9・1関東大震災時には6千人超の朝鮮人が800人以上の中国人とともに軍隊や警察、自警団により虐殺された。だが、その後も朝鮮人民の民族解放・独立の闘いは日帝の治安維持法による死刑、拷問攻撃と対決して不屈に続けられた。
 日帝は中国侵略戦争の泥沼化の中で39~45年、100万人を超える朝鮮人を台湾人とともに戦時労働力として強制連行し、過酷な強制労働に動員した。炭鉱や鉱山などの危険な現場で奴隷のように働かせられ命を落とした人は数知れない。44年には徴兵制が施行され、24万人以上の朝鮮人が天皇と日帝のために命を差し出すことを強要された。

日帝の戦争犯罪軍隊慰安婦制度

 そして、日帝のアジア侵略過程におけるきわめて残虐な戦争犯罪として、日本軍軍隊慰安婦制度=国家・軍による性奴隷制度がある。「天皇の軍隊」が侵略戦争継続のために女性たちを徹底的に蹂躙(じゅうりん)し、命や尊厳を奪ったのだ。はっきりさせなければならないのは、「慰安所」の設置・管理から女性集め、物資の提供まで、日本軍と政府が組織的に実行したということだ。
 日本の陸海軍は32年「上海事変」から敗戦までの間に「戦地での蛮行(ママ)を防ぐ」「士気を高める」ためとして、戦地や占領地域、さらに沖縄をはじめ日本国内に多くの「慰安所」を設置。朝鮮や台湾、中国、東南アジア、日本国内から集められた10~20代の女性たちが強制的に軍人・軍属の性奴隷にされた。「工場で働いて稼げる」とだまされたり、拉致されたりした女性も多かった。女性たちは「軍需物資」として扱われ、自由な行動も「慰安婦」をやめることも許されなかった。そして、圧倒的多数は生きて戦場から帰ることもできず、生き延びた女性たちも沈黙を強いられ続けた。日帝支配階級は「慰安婦は民間業者が勝手に連れ歩いた」などとし、卑劣にも軍や政府の関与を否定し続けている。
 こうした中で91年8月14日、韓国の金学順(キムハクスン)さんが初めて「慰安婦」被害者として壮絶な体験を実名で告発した。日帝が湾岸戦争=イラク侵略戦争への自衛隊派兵を狙う中、「二度と戦争はだめだ」と沈黙を破ったのだ。キムハクスンさんは生涯、「日本軍慰安婦が戦争犯罪であったことを認め謝罪せよ」と叫んで闘い続けた。
 在日の「慰安婦」被害者の宋神道(ソンシンド)さんも、日本政府に謝罪を求めて裁判を闘った。彼女たちの決起に勇気を得て世界各地で多くの被害者が立ち上がり、闘いは国境を越えて広がっていった。東京で2000年に開かれた「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」は、「昭和天皇ヒロヒトは有罪、日本政府には国家責任がある」と宣告した。11年にはソウルの日本大使館前に「平和の少女像」が建立された。
 闘いに追い詰められた日帝・安倍政権は15年、軍隊慰安婦制度をめぐる「日韓合意」を朴槿恵(パククネ)政権と締結した。問題は「最終的かつ不可逆的に解決」したなどとうたい、少女像の撤去まで韓国政府に「約束」させたのだ。しかし闘いは今も世代を超えて継承されている。

新たな侵略へ道開いた日韓条約

 日帝は、侵略と植民地支配、戦争犯罪の一切を「1965年の日韓条約で解決済み」と強弁し続けている。だが日韓条約とは朝鮮の南北分断を固定化し、反共分断軍事基地国家である韓国の朴正熙(パクチョンヒ)軍事独裁政権を守り、日帝の新たな侵略に道を開くものだった。日帝は35年の植民地支配の歴史を「合法かつ正当」と開き直り、謝罪も賠償も拒否した。
 入管法・入管体制と対決し、中国侵略戦争突入下で激化する差別・排外主義と日々闘う在日朝鮮人と連帯し、日帝打倒へ闘い抜こう。
(風間辰樹)

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