吉田素子同志を追悼する 享年90、最古参の現闘員として 三里塚闘争を根底から支え続け

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週刊『三里塚』02頁(1156号02面04)(2025/03/24)


吉田素子同志を追悼する
 享年90、最古参の現闘員として
 三里塚闘争を根底から支え続け


 3月9日早朝、吉田素子同志(通称竹尾さん)が亡くなりました。享年90。奇しくも3・8国際婦人デーの集会当日、静かに息を引き取りました。食べたものを十分吸収できなくなって入院してから3週間後のことでした。現闘内ではもちろん、我が党内でも最古参の同志です。
 竹尾さんは、1976年、三里塚が鉄塔決戦に上り詰めていく過程で、神奈川地区から現地に来ました。決戦で派遣されたメンバーの大半が20代という中で、社会経験を積んだ42歳の竹尾さんは、生活と食事全般を引き受けるようになり、以来50年間「三里塚のお母さん」として、親しまれてきました。
 民主労総と反対同盟・動労千葉の交流会では、ちらし寿司や天ぷらなどに腕を振るい、花見などの同盟行事でも買い出しから準備まで指揮しながら、自らも先頭で立ち働いていました。年末のおせち作りは、ストーブに煮物や黒豆の大なべをかけて、慈姑(くわい)を飾るなど気合が入っていました。倉敷で育った竹尾さんのお雑煮は、食べる時にぶりの切り身を乗せるのが定番で、元日の全逓ビラまきから帰ると、餅を焼いて雑煮を温めて迎えてくれました。関東の切り餅は四角ですが、「雑煮は丸餅じゃなくちゃね」という西日本派。汁は味噌か醤油か、具材には何を使うか、全国各地から集まっている現闘では、雑煮談議がにぎやかでした。
 現闘の大所帯で、1週間ごとのメニューを決め、買い出しに行き、日々の食事を作るのは全体の活動を支える縁の下の力持ちです。農家からもらってくる野菜が豊富にあっても、食材として使い切るのは大仕事で、それを長期間にわたって担ってくれたのが、竹尾さんと入院中の三木さんです。日替わりの食当体制をとるのに苦労する現在、2人のおかげで私たちの健康が維持されてきたと言っても過言ではないと感謝しています。
 食べる話ばかりになりましたが、反対同盟婦人行動隊が大勢いた頃には、その事務局的な立場で活動していました。晩年まで集会やデモに参加するのを楽しみにしていて、体調を心配して参加メンバーから外すと、「何で⁉」と抗議されることも。
 岡山大学の卒業生で、学生時代はテニスに没頭していたそうです。三里塚に来てからも合間の時間にプールでひと泳ぎしたり、山歩きを楽しんだり、アクティブな人だっただけに、大腿骨骨折による2度の入院が無ければ、100歳まで生きられたのでは? と思うこともあります。戦争を体験し、ここに来る前は、戦後の解放的な機運の中で女性の自治会長として地域活動のリーダーシップをとっていたそうです。
 後半生を三里塚の激闘の中で全うした彼女の生涯に、三里塚闘争の勝利と反戦の闘いで応えたいと思います。
 北里一枝
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