三里塚現地闘争本部員の決意 無実の大坂正明さん奪還を

週刊『三里塚』02頁(1149号01面03)(2024/12/09)


三里塚現地闘争本部員の決意
 無実の大坂正明さん奪還を

(大坂正明さん 1949年生まれ/北海道帯広出身/東京拘置所在監)

(写真 大坂・星野全国集会【11月24日 東京】)


 昨年12月、東京地裁・高橋康明裁判長は、71年沖縄返還協定批准阻止闘争で逮捕された大坂正明同志に対し「殺人罪」をでっち上げ「懲役20年」の超反動判決を下した。判決内容は「デタラメ」というのではまだ評価が甘い。大坂裁判一審判決は、近代的裁判・司法の「死」を自認したものと言い切れる。
 大坂同志と弁護団は、控訴趣意書を東京高裁第5刑事部(伊藤雅人裁判長)に提出した。
 刑事裁判において証拠調べによる事実認定と司法判断が裁判の軸になるが、大坂裁判では、33回の公判を開きながら、そこでの証人の証言を無視して、逮捕時の検察官調書のみに依拠して「警官殺害の実行者」との判決を下した。

供述はねつ造

 公判では、検察側証人が供述を覆して「大坂さんを見ていない」と断言した。また圧倒的多数が、大坂さんが現場にいなかったと証言した。これを「記憶の減退や変容」の一言で切り捨てて、50年前の供述調書を証拠とした。いったい何のための裁判だったのか、「結論ありき」の国策裁判であろうと、あまりにも権力意志がむき出しだ。
 では、検察官の作成した供述調書が証拠として価値があるのかといえば、全く逆である。供述調書の作成は、事件から5カ月経過し、供述した目撃者にとって大坂さんは未知の人物。テレビの映像を見るかのような詳細な証言はありえない。長時間の取り調べと密室での誘導、しかも当時20歳前後の青年・少年を脅してでっち上げたのだ。
 「殺人罪」での起訴をちらつかせた脅迫、親に殴らせるなどの暴力、意に沿う供述をすれば「減刑」がありうるかのような甘言などによって彼らは、見てもいないものを「見た」と言わされた。袴田再審無罪判決で認定された供述調書のねつ造と全く同じであり、国家犯罪である。これを唯一の証拠として大坂さんに「20年実刑」判決を下したのだ。こんな理不尽をどうして許せようか。
 大坂裁判では、当時の取調検事・中津川彰の証人尋問が行われた。「星野・奥深山・大坂が死亡した警察官を殴打していた」というでっち上げ調書を作り上げた人物だ。弁護側の追及に中津川は大坂さんに向かって、「生きていること自体、私の正義感が許さない」とか、「(ARの親を取調室に入れ、親がARを殴ったことに)公安部の検事としてARの人間性を立ち直らせたと自信を持った」とでっち上げ下手人の本音を吐露した。
 この中津川に調書をでっち上げられたMさんは法廷で、「拷問的取り調べに負けてうその供述を認めてしまった。無実のKさんらに迷惑をかけ、何とか法廷で晴らしたい」と涙ながらに訴えた。「知らない人」を特定させていく写真面割の手法などは生々しく、国家犯罪を暴くものであった。大坂さんの無実は明らかだ! 裁判勝利へ、全力で決起しよう。

現地に常駐し

 大坂裁判こそ、無実の政治犯に対するでっち上げ弾圧そのものだ。大坂同志は、国家権力の凶暴な弾圧と50年をこえて闘い続け、「非転向・不屈の党」を体現し、革命党の背骨を支えている。
 三里塚現闘にとって、彼はかけがえのない存在だ。71年代執行阻止闘争には星野文昭さんらと現地に常駐し闘っていた。大坂さんは、「当時、星野さんが行動隊長だった。私は彼の下で伝令やデモ指揮をしていた」と裁判の本人尋問でも答えた。東京拘置所で面会した現闘員に「棒の両端に束ねた稲束を突き刺して天秤棒のように担ぎ、足場の悪いあぜ道を運ぶ作業の大変さは忘れられない。しかも第4インターなどと党派闘争になるため必死だった」と話した。
 大坂さんは、今年の新入生へのアピールでは「新入生の皆さんには、この三里塚闘争についても歴史と現状を学習してほしいと思います。これを知れば農地と農業を守ってひたむきに闘う三里塚農民の姿に、きっと胸を打たれるでしょう」と述べている。「闘争は、再び戦争への道を許すのか否かのかかった、負けられない闘いである」この大坂さんのアピールに応え、三里塚闘争に勝利するとともに、彼を無罪奪還し、何としても三里塚の大地に立たせたい。三里塚現闘はこの闘いの先頭に立つ。
(大戸剛)

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