関東大震災時の朝鮮人虐殺 千葉で何が起きたのか 今こそ排外主義との徹底対決を

週刊『三里塚』02頁(1144号02面04)(2024/09/23)


関東大震災時の朝鮮人虐殺
 千葉で何が起きたのか
 今こそ排外主義との徹底対決を


 101年前の9月1日。関東大震災直後の戒厳令下において、日帝政府の排外主義扇動による国家暴力によって、多くの朝鮮人・中国人が虐殺された。中国侵略戦争切迫の中で、東京都知事・小池百合子による追悼文の送付拒否や「群馬の森」での慰霊碑撤去の暴挙は、この虐殺の歴史がもつ重大さを現在進行形で浮かび上がらせている。

通信所がデマ情報

 このかん千葉の地が、虐殺の歴史をもっていることがクローズアップされている。それは千葉県が軍事施設が多く存在する「軍都」であったことに由来する。中でも「海軍無線通信所船橋送信所」(写真=船橋市行田)が重要な位置を占めていた。当時、内務省は大地震発生後ただちに、この通信所から全国に「朝鮮人が震災を利用し、石油で放火し、爆弾を所持し、暴動をおこなっている」という内容のデマ情報を発信した。千葉北西部には、北総鉄道の敷設工事のために動員された朝鮮人民が多く集住していた。船橋では、拘束された朝鮮人が集められ、日本刀や竹槍で武装した自警団などによって虐殺された。陸軍施設が多くあった習志野では、収容所に拘束されていた3000人もの朝鮮人が、震災直後に「払い下げ」「配給」と称して、自警団・民衆に引き渡され多くが虐殺された。そこに拠点を構えていた陸軍習志野騎兵連隊は、飯場や列車などから朝鮮人を見つけ出し、容赦なく処刑した。虐殺は軍隊が先頭に立って行ったのだ。この6000人をこえる犠牲者数のうち、およそ360人が千葉県で虐殺されたものだと推定されている。
 しかし、これらの虐殺の証拠資料の多くは国家ぐるみで隠蔽されてきた。長い年月をかけて、在日朝鮮人民、研究者、ジャーナリスト、地域住民をはじめとする人々の努力によって、その歴史が現在に呼び起こされている。昨年上映された映画「福田村事件」や単行本『地震と虐殺』(安田浩一著)などで、その歴史が新たに紐解かれている。これらの事実は、「朝鮮人虐殺の証拠はない」とうそぶく極右の難癖を寄せ付けない鋭さを持っている。

「弔電」を送る首長

 行政にも変化が起きている。千葉県知事・熊谷俊人は船橋市馬込での追悼式に県知事として初めて弔電を送った。松戸市では超党派の議員などの主催で、初の追悼会が取りおこなわれ、松戸市長も弔電を送るという動きが見られた。ただ、この弔電の中身は、関東大震災の犠牲者を追悼するが、朝鮮人虐殺の事実には、一言も触れないというまったく中身のないものであった。これ自身は許しがたいが、この首長たちの動向に示されているのは、都知事・小池や群馬県知事・山本一太への人民の広範な怒りだ。

具体的連帯行動へ

 虐殺は、我々の生活の場で行われた。戦争や災害が起きた途端、軍隊が出動し、排外主義扇動がふりまかれ、日本の労働者階級が在日外国人労働者と対立させられ、虐殺の加担者に仕立て上げられる――これとの闘いは現在的な切迫した課題である。
 改悪入管法施行のもとで現在、クルド人コミュニティーにたいするネットデマが広がり、差別扇動が激しく吹き荒れていることを断じて許してはならない。
 国・行政による差別扇動やパレスチナ人へのジェノサイドは、日本に住む在日外国人、とりわけ感受性の鋭い若者にたいして、重大な衝撃をあたえている。それは、在日の若者が、追悼式や虐殺をテーマとした企画などに多く参加していることに象徴的に示されている。(千葉市では虐殺をテーマとした美術展が開かれて社会的に注目された)
 中国侵略戦争へ向かうなか、この関東大震災における加害の歴史と向き合い、国家による差別政策・歴史修正主義と対決し、具体的な連帯をつくりだしていくことが求められている。
(滋賀道夫)

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