耕作権裁判 3・31芝山現地に集まろう 市東さん、NAAの不正を暴く 「父はこんな書面に署名しない」 8・6広島暴処法弾圧 5人基礎を弾劾する 記事2面
耕作権裁判
3・31芝山現地に集まろう
市東さん、NAAの不正を暴く
「父はこんな書面に署名しない」
8・6広島暴処法弾圧 5人基礎を弾劾する 記事2面
労働者人民の生活を破壊しながら中国侵略戦争のための体制構築に全力を挙げる岸田政権に対し、動労千葉を先頭に反戦春闘ストライキがたたきつけられた。今こそ日本帝国主義打倒の根拠地である福島・沖縄・三里塚から岸田政権打倒の革命的内乱の火柱を上げよう。8・6広島暴処法弾圧での5同志への起訴を許さず大反撃を組織しよう。三里塚芝山連合空港反対同盟が呼びかける3・31芝山現地闘争に大結集しよう。市東孝雄さんの南台農地をめぐる耕作権裁判が3月18日、千葉地裁民事第2部(齊藤顕裁判長)で開かれ、130人が結集した。
開廷に先立ち、正午から千葉市中央公園で太郎良陽一さんの司会で決起集会が開かれた。東峰の萩原富夫さんが成田空港機能強化工事の現状を報告し、周辺住民と連帯して空港拡張を粉砕する決意を表した。動労千葉の中村仁副委員長は連帯発言で、ダイヤ改定阻止を掲げ48時間ストに立ち上がったことを報告した。
さらに発言を受け、市内デモに出発。吹きすさぶ強風に抗して横断幕、旗、のぼりをありったけの力で握りしめ、裁判所へ向けて行進する。
宣伝カーからは婦人行動隊の宮本麻子さんが、成田空港会社(NAA)の違法を糾弾し、農地強奪阻止を市民に向けて訴えた。
日本帝国主義打倒の右腕
60を超える傍聴席を埋めて開廷。最初に、支援として三里塚現地で活動してきた岸本豊和さんの証人尋問が行われた。
岸本さんは1970年に琉球大学を卒業後、77年に岩山鉄塔撤去の暴挙に怒り三里塚に駆けつけた。同年6月から天神峰の現地闘争本部(石橋政次副委員長宅敷地内)などに居住し、天神峰・東峰地区を中心に支援活動をしてきた。
77年当時の天神峰の反対同盟農家8軒の耕作状況についても当然よく認識している岸本さんは、「市東東市さんが南台で耕作していた土地はB、C、D。石橋家が耕作していた土地はF、A、E1、E2」と明確に答えた。
また、東市さんから78年ころに聞いた話として、「1971年に石橋氏から畑の交換をしてくれと頼まれて、AとCを交換した」ことを述べた。また、E1の土地には石橋家の屋敷林などが存在し、東市さんがここを耕したことは「なかった」と断言した。
また、東市さんは84年に母屋を建て替えた。岸本さんはこの時の東市さんについて、「棟上げ式の時、破魔矢を空港の方に向けて、『代執行来るなら来い、闘う』と宣言した」ことを証言した。
東市さんの人柄について岸本さんは、「実直。うそをついたり人を裏切るようなことはしない」と述べた。また戸村一作反対同盟委員長の「戸村思想」の後継者であることを自認し、集会では「革命家として生きる」「空港公団と反対同盟は水と油の関係。ひざを交えたら終わりだ」「俺の鍬(くわ)を持った右腕は、日本帝国主義打倒の右腕だ」と常々発言していた記憶を語った。
そして東市さんは戦争絶対反対の立場から、祖国敗北主義(自国政府が行う戦争についてあいまいさなく敗北することを歓迎し、自国政府打倒に向けて闘う)を信条としていた。それは日本帝国主義の侵略戦争に動員された痛苦な体験によるものであった。
岸本さんは、NAAが証拠だと言い張る「同意書」「境界確認書」の地積測量図について聞かれ、「事実と違う。こんなものに東市さんが署名・捺印することはない」と断言した。また自分が沖縄出身者として、米軍基地を残したままのペテン的「沖縄返還」に対し闘ったことを誇り高く確認し、その闘いを貫くものとして三里塚に駆け付けたことを述べた。そして東市さんの「農地死守・実力闘争」のゆるぎない信念・闘志からして、署名・捺印がありえないことを重ねて強調し、証言を終えた。NAAからは反対尋問なし。
農地は私の命、農業続ける
続いて市東孝雄さんの本人尋問だ。
祖父・市太郎さんの代から市東家は100年にわたり天神峰で農業を続けている。父・東市さんは20歳からの2年間、28歳から6年間、計8年軍隊にとられた。ビルマで抑留され復員・帰国が遅れたことから手続きが間に合わず、天神峰と南台の耕作地が小作地のまま残った。孝雄さんは、もし自作地だったら明け渡しを求められなかっただろうと述べた。
孝雄さんは「手に職をつけろ」と言われて中学卒業後に外に出て働いた。弟の芳雄さんが農業を継ぐことが家族会議で確認されていたが、不慮の交通事故で帰らぬ人となった。孝雄さんは自分が50歳になったら故郷に帰還し農業を継ぐことを決めていた。東市さんは99年に亡くなったが、孝雄さんに宛てた遺言で、「土地建物や小作権は絶対に空港公団に売ってはならない」と厳命した。
孝雄さんは反対同盟の萩原進事務局次長から、「空港公団は土地収用法の収用裁決を取り下げたから、もはや強制収用の心配はない」と諭され、天神峰に骨を埋める覚悟で99年に帰還し農業に取り組んだ。南台農地については、A・B・C・Dすべてを地主・藤﨑から賃借している土地と認識し、地代を支払ってきた。営農を継いで4年、ようやく軌道に乗ってきた矢先の03年12月、孝雄さんは自分の耕作地を地主が空港に売却していたことを新聞記事で知り驚く。数日前には地主・藤﨑に地代を支払いに訪れたが、その時は何食わぬ顔で受け取っただけだった! 地主は88年に空港公団に売却し、15年の間そのことを隠し続け、だまし続けていた。登記を完了するまでは地主が地代を受け取る、という覚書まで交わされていた。
06年6月にNAAが市東さんとの賃貸借契約の解除許可を申請したことが新聞報道された。ところが成田市農業委員会に出された申請書では、E1が賃借地とされていた。この誤りを孝雄さんが指摘しても農業委員会はまったく無視し、また千葉県農業会議も「離作補償の額は近傍農家150年分の収入だから十分」と居直るばかり。06年9月に千葉県知事が賃貸借契約解除に許可決定を下した。そしてNAAは10月に、間違った図面をもとに「賃借地」以外の土地を「不法耕作だ」として明け渡しを求める本件訴訟(耕作権裁判)を起こした。
あらためてその理不尽が本人の口から語られ、法廷は静かな怒りで満ちあふれた。
質問は、土地の位置特定に移る。孝雄さんは子どものころから麦踏みなどの手伝いをしてきた。AとBとが市東家のもともとの耕作地であることは自明であり、AとBの間には東市さんが一人で作った農道が存在する。A、Bが自分の小作地でなければ間に道を作るなどありえないことだ。さらに耕作地の位置の特定をめぐる事情について、孝雄さんは自分の叔母や石橋氏の家族から話を聞き、石橋家の耕作場所は戦前からEとCであると確認したと明言。
「NAAは最近になって、東市さんが裁判対策のために、賃借地の場所についてうそを言って混乱させようとしたなどと主張するが、どう思うか」との質問に答えて、市東さんは語気を強めた。「ひどい名誉棄損。頑固に空港反対を貫いてきた人だ。30年後に裁判になると考えてうそを言うなどありえない」
また同意書、境界確認書に東市さんが署名することの可能性について、「大事な土地の場所を取り違えるはずがない。一度も耕していないE1を当初の賃借地だとする書類に署名するなど絶対にない」と完全否定した。
自身が行っている現在の有機農業に質問が及ぶと市東さんは、「農薬・化学肥料を一切使わず、鶏糞(けいふん)・豚糞などを発酵させ乾燥させた有機肥料を畑にすき込んだ黒土を使った農業」と説明し、昨年2月の強制執行で天神峰耕作地を破壊・強奪された怒りをにじませながら、「今後も農業を続ける」と意欲を表した。
市東さんは最後に裁判長を見据えて述べた。「農地は私にとって命そのもの、NAAが言うような単なる土地ではない。空港会社の不誠実な訴訟態度は許せない。前回の法理哲二証人(元空港公団用地部職員)の証言でも、『上司から報告書を書くように厳しく指導され、書かれた書類は永久保存』と証言していた。あるはずの書類を出さないNAAに私の農地を奪われるわけにはいかない。明け渡し請求を棄却するよう求める」
傍聴席からは惜しみない拍手が起きた。
反対尋問でNAA代理人上野至からの唯一の質問は、「石橋家の家族の陳述書はないのか」と。自分たちの土地の位置特定の誤りがいよいよ確実となったことへの焦りでしかない。さらに長屋文裕代理人が市東さんに発した質問は、「南台の方は順調ですか」「何か困ったことはありますか」。市東さんに「不法耕作者」の汚名を着せて訴訟に訴え、昨年には天神峰農地をつぶした張本人が「困ったことはあるか」だと! 傍聴席から怒号が飛んだ。
次回の期日を5月13日と確認し、閉廷した。
空港拡張政策は戦争準備だ
報告集会で市東さんが勝利感をたたえてあいさつし、「NAAは反対尋問であんなことしか言えず、内容が何もない。これからも頑張ります」と決意を述べた。岸本さんは「東市さんの闘争精神を伝えたかった」と自らの証言を振り返った。弁護団はNAAの主張を完全に打ち砕いた勝利を確認した。全学連の学生は軍事空港阻止、岸田打倒の決意を力強く表明した。
最後に萩原富夫さんが、「市東さんの農地を守り抜くためにも空港機能強化は住民追い出し、農業と自然環境の破壊、戦争準備であることを全面的にあばき、空港反対の声を高めよう。3・31芝山現地闘争に結集を!」と呼びかけた。