大地と共に 三里塚現闘員が語る 狭山闘争から三里塚へ 弘前大から決戦現闘に 鉄塔決戦に2万3千人
週刊『三里塚』02頁(1131号02面02)(2024/03/11)
大地と共に
三里塚現闘員が語る
狭山闘争から三里塚へ
弘前大から決戦現闘に
鉄塔決戦に2万3千人
(写真 A滑走路の南端にそびえ立つ岩山大鉄塔【77年】)
私は1974年、青森の弘前大学に入りました。入学してほどなく学生大会がありました。当時、学生自治会は民青が執行部をとっていました。新大学管理法との闘いが学生としての最優先課題という民青執行部と、「無実の部落青年、石川一雄さんの命がかかった狭山闘争支援を最優先で取り組むべき」とした反民青の勢力が対立していました。夜通しの議論を聞き、その後、狭山事件に関する本を買って読みましたが、最新の情勢については書かれていませんでした。
狭支連のビラで
その頃、食堂前でもらったビラに狭山事件が前年に控訴審公判が再開したことなどが載っていました。一番きれいでわかりやすかった狭山闘争支援連絡会議(狭支連)のビラの連絡先に問い合わせると、「寮で会合があるので来ませんか」と誘われました。私は狭山闘争から学生運動に入ったんです。三里塚闘争については、テレビで実況中継していたこともあり高校時代から関心はありました。当時つけていた日記帳にも代執行の記事とかを貼っていましたし、父親も「あれは国の農業政策や農地を大事にしないからだ」などと話をしていました。学生とは違い、生活そのものが闘争で、子どもからお年寄りまで家族ぐるみの闘争ですごいなと思いました。
狭支連の先輩から誘われ、76年2月の岩山小学校の校庭で開かれた緊急集会に参加しました。その時に、緊急で青森からも数日間一人残してくれと言われたので、急きょ残って農家に入り、援農をしたりしていました。
2月25日、鉄塔を倒すための道路建設が始まったと知らされ、トラックの荷台に乗って現場に行き、畑の中でもみ合いになって逮捕されました(産土〔うぶすな〕参道闘争、逮捕者48人)。私は初逮捕でしたが、救援連絡センターが両親に連絡してくれ、親もその指示に従ってくれました。3週間ほど佐倉署で勾留され、釈放され、青森に帰りました。
この2・25産土参道闘争をもって岩山鉄塔決戦が始まりました。その闘いの強化のために「決戦現闘」が組織されます。弘前大でも行く人が決まっていたのですが、その人が行けなくなって、じゃあもう一回行ってみてもいいかなと思って、現地に来ました。私の出身地、北海道にはない「ゆず」が現闘の冷蔵庫に入っているという話を聞いて、興味をもったというのもありました。
半年のはずが…
3年生に進級直前でしたが休学届を出し、76年の3月31日に決戦現闘10人の1人として現地に着任します。菱田地区の担当となり、地域にビラをくばったり、援農に入ったりと。当初半年ということでしたが、どんどん闘争がエスカレートするなかで期限とか関係なくなっていった感じでした。大学の方はそのまま休学を延長して、2年経ったときに復学か退学を迫られ、退学を選びました。
翌77年に福田赳夫首相が「年内開港を目指す」と宣言し、3月に旅客ターミナルが完成するなど、急ピッチで開港に向けた準備と攻撃がかけられました。4月の鉄塔決戦集会には空前の2万3千人が集まります。三里塚第一公園から岩山鉄塔までのデモでしたが、岩山鉄塔に最初のデモ隊が到着しても、まだ第一公園に出発を待つ人がいる、という状況でした。
印象に残っているのは、戸村一作委員長が、「機動隊諸君。君たちは農家の次男、三男だろう、農家に対してこんなことをやっていいと思っているのか」と訴えると、機動隊員が目に見えて動揺し警備の交代のタイミングがどんどん早くなっていったことです。
そんなこんなで19歳で初めて三里塚を訪れてから半世紀近くになりました。
(北里一枝)