大地と共に 野戦病院・大熊さんが語る 学生運動から三里塚へ(下) 大量逮捕で救援に奔走 2期工事破綻に追い込む
大地と共に
野戦病院・大熊さんが語る
学生運動から三里塚へ(下)
大量逮捕で救援に奔走
2期工事破綻に追い込む
三里塚野戦病院の設立当初は、本当に軍隊の野戦病院という感じのでっかいテントでした。この辺では米の出荷に使う10㍍くらいの大きなテントがあるんです。それを農協から借りて、わらを敷いて、その上に布団を敷いて病院にしました。第一次代執行が終わった後にプレハブの2階建てになり、鉄塔決戦のときに岩山に移設しました。
1971年だけでも第一次代執行、7月仮処分闘争、第二次代執行と3度の大闘争が闘われました。現場の闘争と呼応して、現地では数十名規模の「周辺情宣隊」を結成し、各地域に分かれてビラまきや街頭宣伝、立て看板を持ち込み、マイクを握って理不尽な農民殺しの強制執行の状況を訴えました。周辺、そしてテレビ報道で知った全国の人たちが群衆となって現場に駆けつけました。「5千人のやじ馬が結集」と報道されます。その群衆が機動隊に投石をするんですね。手を焼き追い詰められた国家権力は「三重丸方式」という警備体制をとって現場周辺を三重に取り囲み阻止戦を張ります。しかし、突破して群衆は次々と結集しました。
第一次代執行は一カ月も続いたので連日逮捕者、けが人が出ます。あまりに人数が多いからてんやわんやの状態で、のべ50人くらいの弁護士に面会などいろいろやってもらいました。
息継ぐ間もなく
逮捕されたら48時間以内に裁判所に送られて、そこで裁判官が勾留を決めるのですが、そこで弁護士と面会できます。少ないときは一人ずつですが、大量逮捕だから面会室ではなく法廷の部屋に10人くらいを一緒に入れ、弁護士が一人で面会する。弁護士選任届をバーっと渡してそこで書き込んでもらっていた時期もありました。
その流れもあって、裁判でも統一公判をかちとります。その最たるものが青年行動隊の東峰十字路の裁判(機動隊3人せん滅)で、一法廷で55人の被告が入って10年くらいの裁判をやりました。
千葉地裁の傍聴席を物理的に削って被告席をつくらせた。全国的にもそういう例はなく、三里塚の底力でもあるんですけど、弁護団、とりわけ葉山岳夫弁護士が本当にがんばって統一公判を実現した。2年にまたがる闘争を一つの裁判に統合したこともありました。闘争日は違っても同じ三里塚闘争であり本質は同じだと、30名くらいの統一公判を実現しました。
当時は同盟も各部落ごとに救護班を決め、日替わりで野戦病院に来ていました。逮捕後は、宣伝カーで警察署を回り激励行動。毎日野戦病院に集まって、中心を担ってくれた婦人行動隊と意思一致して、宣伝カーで各警察署を回りました。また、差し入れが大量にいるわけです。シャツ、パンツ、ズボンなど可能な限り、全国から衣類を集めました。野戦病院で全部さばきました。
学生運動のときにもへとへとになったけど、三里塚に来た直後は、野うさぎが飛び交うような牧歌的なところもあったが、いざ闘争が始まったらもう息継ぐ間もなく、大量の逮捕とけが人でてんてこ舞いでした。
78年の開港阻止決戦での弾圧では、千葉だけでなく東京の警察署数十か所に逮捕者が分散留置されました。
85年の2期着工阻止をかけた10・20闘争(三里塚交差点での機動隊との白兵戦)の時には、一日で241人が逮捕されました。千葉刑務所だけでも150人近くが留置され、刑務所を占拠しているような状態になります。逮捕者が多すぎて警察は急きょ千葉刑の中庭にプレハブ小屋を作ってそこで取り調べをやった。一人ずつしかできないから部屋が足りなかったんですね。軽トラック一台に積めるだけ積んで差し入れしました。
東山薫君の虐殺
鉄塔が引き倒された77年5月の連休のときでした。5月6日は、深夜午前2時ころレンジャー部隊が突撃してきて鉄塔の真ん中あたりに見張りのためにいた一人を捕まえて下におろした。さらに常駐していた鉄塔の防衛隊10人を缶詰めにした。駆けつけたときには、完全に包囲されて、中に入れない状況でした。北原事務局長を立会人として軟禁した上で強行しただましうちだった。マスコミにも知られないように極秘に、機動隊もごく一部の幹部にしか伝えなかった。
みんなが駆けつけてきたのは鉄塔が引き倒された後です。その時に、戸村委員長が「目には目を、歯には歯を」と言って新たな闘争が始まる。
5月8日には抗議の緊急集会を千代田農協の中庭でやりました。そこに機動隊によってガス弾がバンバン撃ち込まれました。その過程で野戦病院として活動していた東山薫君が虐殺されました。
東山君は第一次代執行のときは自動車の隊長として、現場からけが人を野戦病院まで車に乗せてきてもらったり日赤に運んだりという任務をやってもらいました。
第一次代執行の後に、東山君らノンセクトの人たちが野戦病院を出て団結小屋をつくります。彼が虐殺されたのは、そこから集会場に向かう途中に設置した、反対同盟の家の中庭に作られた臨時野戦病院の前なんです。機動隊が野戦病院に乱入するのを防ぐために道端でスクラムを組んでいた時に、道の反対側から7〜8㍍の距離で機動隊にガス弾を水平撃ちされ、側頭部に当たり泡を吹いて倒れた。ほぼ即死です。彼は自分の団結小屋を作っていて、そこから臨時の野戦病院を守ろうとしてやられたんです。絶対に許せません。
この虐殺された東山君はじめ闘争の初期からのけが人は6500人余、逮捕者は3000人余。多大な犠牲を払いながら2期工事を破綻的状況に追い込みました。
政府の側は展望がなくなった中で反対同盟を丸ごと条件派にしてしまおうという攻撃をかけた。一部は話し合いにのった。だけど、北原鉱治事務局長はじめ「代償を求めない」という絶対反対派が断固残ったことによって、今日の勝利を切り開いた。国家権力の側は絶えず条件派を作ろうとしますが、それを粉砕しながら空港廃港を目指して闘ってきたのが三里塚闘争です。自分の土地を戦争のために取り上げるのは許せないという根底的な怒りが三里塚闘争を支えてきました。脱落した者はそういうのがない。代替地をもらって他で農業をやればいいと。
だけど農地死守は反戦闘争そのもの。だから命がけで国家権力と闘う。世界戦争が始まった今こそその真価をかけた闘いが求められています。反戦をスローガンにとどめるのではなく、まずは自らが決起し、そして一人でも多くの人を組織するために奮闘しましょう。