大地と共に 野戦病院・大熊さんが語る 学生運動から三里塚へ(中) 全九州の右翼と対決 野戦病院設立し奮闘
大地と共に
野戦病院・大熊さんが語る
学生運動から三里塚へ(中)
全九州の右翼と対決
野戦病院設立し奮闘
60年安保闘争後、九州の学生運動の中軸であった九州大学の学生運動は沈滞化していました。そのような状況の中で「大学を安保粉砕・日帝打倒の砦に」を掲げた西南学院大学の学生運動が突出します。国家権力、大学当局、体育会、右翼一体となって西南大学生運動に弾圧が集中しました。
68年6月に米軍板付基地から飛び立った米軍機ファントムが九大構内に墜落したときに、基地撤去闘争のデモで九大生を含めて30人近くが逮捕されました。僕も初逮捕でしたが、起訴されたのは僕一人だけ。その後、小倉の山田弾薬庫撤去デモでも僕一人だけが逮捕され起訴。公安関係での逮捕は僕が初めてで、拘置所の看守らが珍しそうに話かけてきました。
69年には沖縄奪還を掲げて、ふたたびバリストを1週間やりました。4・28沖縄デー当日の闘争には、50~60人いたほとんど全部の活動家を東京に送り出しました。僕は自治会の委員長だったこともあり自治会室にいて、日和ったりして行けなかった10人くらいとバリストを貫徹して残っていました。すると全九州の右翼が襲ってきて、バリケードは破壊できなかったんだけど、僕一人自治会室から博多の海岸まで拉致られ30人ぐらいに囲まれました。高倉健の映画なんかとまったく同じような感じでしたね。真ん中に立たされ周りを囲まれて、日本刀を持ってるのもちらほら見えた。これは死ぬかもなと、覚悟しました。
緊迫した状況が数分続きましたが、突然「もう帰れ」って円陣が解かれ、解放されました。
体育会も味方に
その時はなぜなのかわかりませんでしたが、つい10年くらい前に「私が教授に連絡しました」という人が現れて教えてくれました。僕を救うためというよりも刃傷沙汰になると大学の体裁も悪くなるからということでしょうが、教授が右翼に圧力をかけたんですね。
体育会の応援団長ともケンカになったことがあります。新入生のオリエンテーションでビラをまいていたら応援団長が足蹴りしてきたので、自治会室まで連れて行って馬乗りになってぶん殴ったわけ。そしたらその後、応援団の関係者20~30人が自治会室に乗り込んできた。とっさに「これは俺と応援団長2人の問題だ。組織の問題じゃない」と啖呵を切ったら引き上げていきました。
そんなこともありましたが、長崎の被爆2世の少林寺拳法部員が「個人的には支持しています」と言ってくるなど体育会でも支持してくれる人も少なくありませんでした。自治会室によく来ていたラグビー部員はその後自治会活動をやるようになり、71年7月の三里塚仮処分闘争に決起し、逮捕・起訴されました。
またある時には、理事会の会議に十数人で押しかけたら、あわてて逃亡した理事が「議事録」を落としていったんです。その中に、「大熊を孤立させるにはどうすればいいか」との記載があり議論が行われていたことが判明します。全学生に暴露したら当局に対する学生の怒りが一挙に高まり、自治会に対する共感が広がりました。
当局からは、訓告処分、無期停学処分(実際には10カ月で解除)、退学処分を受け、大学における処分の歴史を作ったとも言えるんですが、処分を受けた8人の自治会メンバーは、その後の自治会選挙で1千人を超える信任を得て全員当選します。僕も退学処分だったんだけど、自治会で選ばれたんだと堂々と学内で展開していました。
結局学生運動は5年ほどやりました。
強制代執行迫り
その後、北九州の小倉で、北九州大などの大学や八幡製鉄(当時)の労働者の活動家たちと前進社の分局を作って2年ほど活動しました。
70年の3月に太宰府天満宮の講堂を借りて合宿をやっていたら、そこに革共同の陶山健一さんが東京から来て「全国反戦青年委員会の事務局の欠員が1人出た。大熊は共同代表の鈴木達夫さんとも一緒に活動したこともある知り合いだし、来てほしい」と言われます。
それで上京し、1年くらい池袋のアパートから事務所のあった虎ノ門に通いました。当時は、11月決戦の中で1千人くらいの労働者がパクられていた状況で活動の中心は、そういう人たちの救援活動でした。
三里塚に来るようになったのはいよいよ代執行が始まるという頃です。農民が生き埋めになるのも覚悟で地下壕を掘って闘っている。事務局から誰か現地に行くべきだと。実際に行ったことがあるのは事務局の中で僕しかいなかった。
全国反戦青年委員会事務局員として現地に行き、反対同盟の呼びかけに応え野戦病院(現地救対本部)設立に責任のある立場で当初からかかわります。
野戦病院ではけが人の傷の縫合まではできましたが、それ以上のけがは成田日赤病院に運んでいました。日赤の労働組合の書記長に大きな闘争になって大量のけが人が出るかもしれないからよろしくと事前にあいさつすると、地元で反対同盟の闘いに共感持っていることもあって、各科ごとに日曜日でも医者を最低一人ずつ出してきてくれました。話し合いの中で、治療は名前じゃなくて「野戦何番」と全部番号でやる。カルテも番号で警察には見せない。お金も僕の責任で後で全部払うと決め、協力してもらい、全国からのカンパでまかないました。
また、機動隊に逮捕され病院に連れてこられる場合もあったので、あらかじめ4~5人が日赤に詰めて、機動隊員に抗議してすべて奪還しました。医者も協力的で勾留に耐えられない、釈放しろと言ってくれた。
一カ月に及ぶ第一次代執行決戦をやりきったら、「次の闘争もあるから」と請われ現地に常駐することになります。
(三里塚野戦病院・大熊寿年)