大地と共に 野戦病院・大熊さんが語る 学生運動から三里塚へ(上) 西南学院大で全学スト 10・8羽田に武装決起

週刊『三里塚』02頁(1118号02面01)(2023/08/28)


大地と共に
 野戦病院・大熊さんが語る
 学生運動から三里塚へ(上)
 西南学院大で全学スト
 10・8羽田に武装決起

(写真 旧成田市営グラウンドで機動隊と激突【68年2月】)

(写真 西南学院大学で全学ストライキ【68年1月】)


 僕は学生運動に決起したのは遅かったんです。西南学院大学に入学して2年後の1963年の秋でしたが、戦後初めて原子力潜水艦が長崎に寄港することが発表され、自治会が緊急の学内集会を開いたんです。そのビラを見て参加したのが最初です。だけど、20名ぐらいしか集まらなかった。主催の自治会は結集がまだ不十分だからとか何とか言ってデモもやらずに解散にしました。後で民青だったと知ります。
 翌年から反戦は当然という気持ちもあり自治会活動をはじめます。だけど実質一人という中で大変だなと思っていたら、革共同の小野正春さんが東京から来て、「一人が目の色を変えてやればストライキはできる」と説得され、相当な覚悟をして活動家になりました。
 それからは、5時限まで毎時間クラス討論に立ちました。
 授業が終わったら今度は自治会の執行委員会。その後はビラ作りと看板作り。終わると深夜。今みたいコンビニもないから、当時70円だったと記憶するけどたまには4時頃までやっていた屋台のラーメンを食べ、ふたたび自治会室の前にベニヤ板を敷き寝ました。下宿にはほとんど帰らなかったですね。

 800人がデモ参加

 決起して3~4年間は、年末年始とお盆以外は毎日ビラをまき、クラス討論に明け暮れていました。最初は一人だったのですが、4年くらいで活動家も5人、6人と増えて、13人しか組織できなかったこともあるデモにも、ベトナム反戦の高揚の中で100人くらいは組織できるようになりました。初めて自分で作り上げたと実感できる規模になったんです。
 1968年には学費値上げ白紙撤回を掲げた全学ストライキを行います。当時、1200人集めないと学生大会が成り立たないというふざけた規約があったんだけど、委任状も含めその1200人を集めきって、何年ぶりかに学生大会を開き、ストライキ投票をやりました。
 当局はストライキ阻止のために体育会を動員しました。ある意味では、彼らが反動的にでも何百人か来てくれたから大会が成立する数になったのですが。結局3分の2以上の賛成でスト決議が上がりました。
 学生大会後に市内デモをやったらスト決議に反対した体育会も後ろの方について来るわけよ。「なんでお前来るんだ」と言ったら、「いや、学生大会で決議されたから」と(笑)。
 一つの大学で800人を超える学生がデモに参加したというのはなかなかないと思います。
 結局翌日から1カ月くらいバリストを行い、学費値上げを全国で初めて白紙撤回させました。その後、中央大が続きます。2つの大学だけが値上げを白紙撤回したというので、マスコミにも報道され注目されました。
 こんな汚いビラでよく人が集まるなと自分でも思うほどだったんだけども、それでも毎日新しいビラをまき、クラス討論に入る。そうした徹底した情宣活動が重要だったと今にして思います。

反対同盟と合流

 その上で67年の10・8羽田の闘いが決定的でした。われわれが決断して実力の武装闘争の形で機動隊と激突。と言ってもささやかなヘルメットや角材に過ぎません。マスコミは「暴徒だ」「暴力集団だ」とすごいキャンペーンを張りました。だけど世間の関心は高く、表裏の2㌻の10円か20円の「前進」号外を1人で学内で120部売りました。反動も含めてその衝撃はすごかったんです。
 10・8羽田から始まって佐世保エンタープライズ闘争があり、三里塚・王子米軍野戦病院設置阻止闘争と、もう本当に素晴らしい闘いが続きます。1カ月のうち3回もの大激突。1回だけでも何百人の逮捕者、けが人が出ました。学生の暴力が云々ってのはあまり言われなくなった。人民の中に実力闘争、武装闘争が一気に浸透していきました。むしろ労働者の方がそういう激しい闘いを当然のこととして受け入れるようになったんですね。
 1967年当時、北原鉱治事務局長や初代青年行動隊長の萩原進さんたちは11月12日の第2次羽田闘争に出かけ、全学連が命がけでがんばってる姿を実際に見たんです。こういう人たちが闘ってくれるならと日本共産党と決別し、新左翼との共闘の道を選んだ。民青なんかも小屋を持っていたけど、叩き出してわれわれが入っていった。きっかけのもう一つは、砂川基地拡張反対同盟の宮岡政雄さんが、戸村一作委員長に三派全学連を紹介したことです。
 それで、1968年の2月26日、三里塚で初めて全学連と機動隊が真っ向からぶつかり合います。このときは僕もまだ学生部隊として角材もって、今の成田市役所の下にあるSL列車の置いてある栗山公園、当時の市営グラウンドで、機動隊と激突。圧勝したんですよ。
 千葉県警が中心だったけどこれは役に立たないと、3・10の闘争から警視庁の鬼の4機が来て、解散集会やってるときにばあっと乱入し襲撃してきて大量のけが人を出す。1千人近く出てるんです。当時はまだ社会党の議員もいたんだけど、彼らも含めてけが人が続出しました。
 第1次代執行直前の71年2月、反対同盟救対部が全党派に呼びかけて三里塚野戦病院を結成します。その役割は二つで、けが人の治療と逮捕者の救援です。代執行過程は全国から医者も来てくれ毎日2~3人は常駐、のべ30人以上が駆けつけてくれました。
(三里塚野戦病院・大熊寿年)

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