9・25耕作権裁判へ 17年続く審理の争点理解のために 市東さんの南台農地守りぬこう NAA=空港公団の卑劣な手口を検証する
9・25耕作権裁判へ
17年続く審理の争点理解のために
市東さんの南台農地守りぬこう
NAA=空港公団の卑劣な手口を検証する
岸田政権は8月22日、関係閣僚会議を開き福島第一原発の放射能汚染水海洋放出を24日に開始すると決定した。断じて許すことはできない。18日の日米韓首脳会談から帰国して直ちに原発視察、全漁連会長との面会を経て、自ら約束した「関係者の理解」も得ぬままのスピード決定・強行は原発全面推進=核武装、中国侵略戦争参戦に向けた岸田の本性を余すところなく明らかにした。沸点に達している岸田への怒りを解き放つのは今だ。ウクライナ反戦、岸田打倒を掲げる9・23全国集会(東京・芝公園)に集まろう。三里塚芝山連合空港反対同盟は8月4日、10・8全国集会(成田市赤坂公園)の招請状を発した。全力で駆けつけよう。今号では9月25日に予定されている耕作権裁判に向け、その争点を当時の事情をたどって解説する。市東さんに「不法耕作者」の汚名を着せ早17年余。成田空港会社(NAA)の悪らつな本性を暴き切り、裁判闘争に勝利しよう。
「7対3で分けないか?」
1987年12月26日、市東東市さん(孝雄さんの父、故人)は元永修二氏(反対同盟法対部)の運転する車で地主・藤﨑政吉の家(=店舗、成田市取香)を訪れた。市東さんが耕す南台農地(賃借地)のこの年の「地代」=小作料を支払うためである。
成田空港が78年5月にA滑走路のみで開港を強行して約10年。天神峰の石橋政次反対同盟副委員長への切り崩し(82年)、「熱田派」分裂(83年)など反対同盟破壊攻撃が激化し、86年には実際に2期工事が着工され、空港公団(NAAの前身)は「農家の軒先まで工事を進め理解をえる」と暴言を吐いていた。しかし天神峰・東峰の敷地内農民は断固として買収を拒み、強制収用との実力対決がいよいよ切迫する中、東市さんは先頭で「農地死守」を貫き「家の屋根に上って戦う」との不動の決意を示していた。
(この頃、反対同盟は完全無農薬有機野菜の産地直送運動に着手。)
藤﨑はあからさまな条件派であり、この地主にきちんと小作料を収めることが、市東家の賃借権・小作権を確保する上で大事なことと認識されていた。
「ちょっと話があるんだが」。藤﨑は、支払いを済ませた東市さんだけを母屋の応接室に招き入れた。しばらくして出てきた東市さんに元永氏が「どんな話でしたか」と尋ねると、それは重大な敵の攻撃を予想させるものと分かった。
藤﨑は、①市東家のもともとの賃借地の位置を確認し、現在の耕作地がそれと違ってるなら来春の種付けから元にもどしてほしいと要請した。②その賃借地を7対3の面積で分筆し、3を市東家の所有地とする(7を藤崎に明け渡す)ことを提案してきた。
もともとの賃借地はA、B
「市東家のもともとの(戦前からの)賃借地」とはA、Bである。そしてCとEは石橋家の賃借地であった。だが石橋はCについて「農道がなく、家からも離れていて不便」ということで、東市さんに耕作地を交換することを申し出て、東市さんがそれに応じ、両家はCとAを交換し(65年以降)耕し続けてきた。
そのような経緯について東市さんは誠実に藤﨑に語り、①については「きょうすぐに返事はできないが考える」と言い、②には応じず(翌年2月に断る)。
その話を聞いた元永氏は危機感を抱いて反対同盟(北原鉱治事務局長)に報告・相談した。反対同盟は、背後に公団の農地強奪へ向けた動きがあることを察知し、市東さんの小作権を揺るぎないものとするために、元永氏に市東さんの耕作の現状についての詳細な報告書の作成を指示する。東市さんからの数度の聞き取りを重ねて作られたこの「元永メモ」(88年3月19日付)には、市東家の当初からの賃借地がA、Bであったこと(石橋家がEとC、根本家がF、鈴木家がD)、小作権は成田市農業委員会に正式に登録されていること、石橋との交換の経緯などが書かれている。
地主と公団の確執の末に
藤﨑は、東市さんと会った翌々日の87年12月28日、空港公団職員と面会した。言うまでもなく、市東さんへの前記①②の要請は、公団の指示にもとづくものだった。
7対3分割は、すでに石橋に対して用いられたやり方だったが、市東さんがこれを拒絶することをも想定し、公団は市東さんの賃借権を解約できないまま強制収用にかけるという「禁じ手」へと踏み切るために、藤﨑からの底地買収を急いだ。
だが、「市東からの聞き取りの結果」として藤﨑が示した手書き地図は、公団の予想を裏切るものだった。このずさんで不出来な図からは、市東家の当初の賃借地は「E1とB」としか読み取れない。
「そんなはずはない、AとBでしょ」との公団の説得にも、藤﨑は頑として耳を貸さない。藤﨑は条件派としての本領を発揮して、以前の土地売却で建てたホテルが破産に追い込まれた恨みをも盾に、条件つり上げを目指し、「市東の当初の賃借地はE1とB」説を譲らなかった。(だが藤﨑は、誰がどこを耕しているかなど現地状況を知る由もなく、もともと関心もなかった。)
この不毛な確執の末に、結局空港公団は藤﨑の主張に屈服し、それに合わせて、「市東東市は自らの賃借地の位置をE1、Bだと確認し、自らの耕作をそこに戻すことに同意した」という書類を、地籍測量図付きで作らざるを得なくなった。東市さんの署名・押印が不可欠だが、そんな文書に東市さんが同意するはずがない。だとすれば、文書の偽造に走るしかなかったのだ。
その偽造文書こそ、耕作権裁判でNAA側の土地特定の唯一の証拠として提出された、「同意書」「境界確認書」なのである。
偽造文書に証拠価値なし
NAAは裁判で、元永メモ(東市さんの認識と当時の現況を正確に表している報告書)の証拠価値を否定することに躍起となっている。彼らは最近になって、「東市はE1、Bが当初の賃借地と図面も確認して同意書に署名した上で、買収を妨害するために元永メモを作成させた」という珍説をわめきだしている。
だが事実として元永メモは、同意書、確認書と関係なく作成された。また当時において反対同盟は、賃借権が存在する土地をそのまま公団が買収するという脱法的やり口を想定していなかった。想定してないものを「妨害する」はずもない。
一方、同意書、確認書はいつどのような状況で作成されたというのか。NAAは口をつぐみ、裁判所の文書提出命令をも無視して当時の報告書など一切を隠し、「担当者が故人でわからない」としらを切る。写しが市東家に渡された形跡もない。証拠価値はゼロ、いやマイナスだ!
虚偽と欺まんと暴力に満ちた成田空港の「用地取得」に怒りを燃やし、耕作権裁判闘争に駆けつけよう。