5・15沖縄闘争に立ち上がろう 中国侵略戦争を許さない 全基地撤去・安保粉砕を 日米首脳会談粉砕!5・22闘争へ 沖縄で闘う学生の訴え
5・15沖縄闘争に立ち上がろう
中国侵略戦争を許さない
全基地撤去・安保粉砕を
日米首脳会談粉砕!5・22闘争へ
沖縄で闘う学生の訴え
バイデン米大統領が5月22日に来日し、日米首脳会談―日米豪印首脳会議を行うと報じられた。岸田政権は、戦後世界体制の最後的崩壊の危機にあえぐ米政府と一体となって日米同盟の飛躍=完全なる参戦国家化を狙っている。強盗会談を粉砕しよう! 沖縄を中国侵略戦争・核戦争の最前線基地にするな! 「復帰」50年を迎える沖縄で闘う学生の仲間から5・15闘争への結集アピールをいただいた。呼びかけに応え、5・15沖縄―5・22首都反戦大デモへ立ち上がろう。
ウクライナ戦争は世界戦争・核戦争の危機を引き寄せながら激しさをもって進行しています。日帝・岸田はこの戦争を奇貨として武器輸出・敵基地攻撃能力の保有・改憲、自衛隊のPKO派遣、さらには米軍との「核共有」など、戦争策動を一気に強行しようともくろんでいます。その最大の焦点は沖縄・南西諸島のミサイル基地化です。「復帰」から50年を迎える本年の5・15は、まさしく改憲・戦争阻止をかけた一大決戦です。
全学連はロシア軍によるウクライナ侵攻が開始されて以降、3・11反原発福島行動、3・21―22沖縄現地闘争、3・27芝山現地闘争と「沖縄・福島・三里塚」の決戦に次ぐ決戦を反戦闘争として闘い抜き、新歓闘争に突入しました。3・21―22沖縄現地闘争では多くの仲間がキャンパス・職場から安保・沖縄闘争を組織する決意を語り、5・15への突破口を切り開きました。
周知のとおり、沖縄では米軍・自衛隊の対中国侵略をにらんだ共同軍事演習が過去に類を見ないほど激化し、これと一体で米軍による事故、水源汚染などが頻発しています。辺野古新基地建設をめぐる情勢も転換を迎えています。本記事が掲載される頃、辺野古はK9護岸着工から5年を迎えます。県による設計変更不承認に対抗し、国はまたも行政不服審査の攻撃を加えてきました。しかし、沖縄労働者階級の怒り、日々の闘いが新基地建設を阻み続けています。
こうしたなかで迎える「屈辱の日」に、県と政府の主催で記念式典が開催されます。沖縄を再び戦場にしようとする日帝・岸田と共にペテン的「復帰」を祝うことなど絶対にできません。既成の運動は毎年闘われていた県民大会の日程をずらし、コロナ感染拡大も合わさって開催すら危ぶまれる状況です。記念式典粉砕デモを軸とした5・15沖縄現地闘争はこの状況に風穴を開ける闘いです。いま、再び「沖縄奪還・全基地撤去」「安保粉砕・日帝打倒」のスローガンで闘う勢力の鮮烈な登場が求められています。
全国の「週刊三里塚」の読者の皆さん。改憲・戦争阻止!大行進 沖縄の呼びかける5・15沖縄現地闘争に結集してください。「復帰」50年記念式典に怒りのデモを叩きつけ、ともに岸田を迎え撃ちましょう!
(沖縄大学学生自治会 槙野昇一)
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「本土復帰」50年
5・15とは何か----
第2次大戦末期、天皇と軍部によって米軍が本土上陸するまでの時間稼ぎの「捨て石」と位置づけられた沖縄では国内で唯一、米軍との地上戦が展開され県民の4人に1人の命が奪われた。当初友軍だと思っていた日本軍もまた住民から食料を奪い、スパイとみなした者や泣き叫ぶ乳幼児を殺害し、軍命での「集団自決(強制集団死)」を強いた。沖縄戦の教訓は「軍隊は住民を守らない」の一語に尽きる。
1952年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で、沖縄は日本本土から切り離された。米軍統治下で「基地のない平和な島」を求める沖縄民衆の闘いが「本土復帰要求」として爆発。全世界的なベトナム反戦のうねりと呼応し基地労働者を先頭とする2波の全島ゼネストへ上り詰めた。
佐藤栄作政権(当時)は「核抜き・本土並み」を返還の基本線にするとした。だが、その裏では沖縄にいつでも核を持ち込めるという密約が結ばれ、米軍基地を残したままの施政権だけを日本政府に返すというものだった。
1972年5月15日、この「ペテン的返還」を祝賀ムードで飾ろうとする日本政府の式典に抗議するために、雨が降りしきる中怒りの県民大会が与儀公園で開かれた。
以後5・15は、「屈辱の日」としてすべての米軍基地をなくす日まで闘うことを誓う、闘いの日となっている。