最後まで集会の前線に立ち続けた 野平聰一さんを追悼する 三里塚現地闘争本部
最後まで集会の前線に立ち続けた
野平聰一さんを追悼する
三里塚現地闘争本部
10月31日、南三里塚(別名、長原)反対同盟の野平聰一さんが急性心不全により急逝した。82歳だった。膝など体の衰えはあったとはいえ、その日までしっかりしていた。妻清子さんの話では、私たち三里塚現闘員のことを亡くなる直前まで気遣っていてくれたとのことだ。
集会、旗開きなど反対同盟の催しに可能な限り参加し続け、常に前線に立った。昨年9月の全国集会が公式行事で野平さんの姿を見る最後の時となった。
野平聰一さんを一言でいえば、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)の人、私たちの世代が思い描く「農民」像の典型と言える。律儀で、皆から信頼され、農協の役員を長期にわたり引き受けた。
聰一さんは、50年を越える「前進」定期購読者で、対カクマル戦の厳しいときにも必ず革共同政治集会に駆けつけてくれた反対同盟員であった。野平さんの家は、長原公民館の近く。71年代執行阻止闘争の際に、全学連行動隊の常駐をここに世話したのが聰一さんの親で当時、部落の役員であった野平駒次郎さん。それ以来、親しい付き合いが続いた。全学連行動隊は、星野文昭同志を先頭に長原公民館を拠点に駒井野・天浪の砦戦に進撃した。
71年代執行時は、聰一さんも連日駒井野第三砦の地下壕構築に駆けつけ闘った。83年3・8分裂後、反対同盟の中心メンバーとなり、全国集会での行動提起、団結ガンバローの締めを担うことになる。
77年、岩山大鉄塔死守戦にむけて再度、現地行動隊が結成され、長原公民館を使用させてもらうことになった。その後、同地区内に三里塚闘争会館を建設、革共同は全党の総決起で開港阻止決戦、二期決戦を闘いぬいた。それを支えてくれたのが、南三里塚反対同盟であり、野平さんであった。闘争会館の建った年の夏、連日のように野平さんからコンテナいっぱいのトマトが届けられた。その量の多さを尋ねたところ、畑の一角を闘争会館の専用にして作物を植え付け、育ててくれたとのことだった。自分の畑と同じように丹念に作られたものだった。
長原公民館に常駐したメンバーは、野平家の薪風呂に毎日のようにもらい風呂に行った。援農などを通して野平さんの後押しで、一人前の活動家に育った者も多い。
聰一さんは、普段は寡黙だが、話し始めたら止まらない話好き。お茶の時間が過ぎても、聰一さんの話で席を立つことができず、仕事の邪魔をしてはと冷や冷やしたことを思い出す。私たち三里塚現闘は、語り尽くせぬほど野平さんに支え守られた。この恩を、市東さん農地死守・三里塚闘争勝利で返していきたい。ご冥福をお祈りします。