大地の響き 投稿コーナー

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週刊『三里塚』02頁(1070号02面06)(2021/08/23)


大地の響き 投稿コーナー

新DVDに鼓舞され
 東京 山中治男

 「三里塚2021 市東さんの農地を守れ」のDVDを観ました。すごく熱がこもった力作で、皆さんにお奨めです。
 冒頭、市東孝雄さんが請求異議控訴審の反動判決を弾劾し「これからも天神峰で畑を耕し続け、闘っていく」と語るシーンが出てきます。淡々としつつも揺るがぬ決意が見る者の胸に飛び込んできます。DVDは、この市東さんの決意の根っこにある闘争の歴史と現在を簡潔に紹介します。
 前半は、空港敷地内で支援者とともに営農を続ける市東さんの日常が映しだされます。家や畑の真上を飛び立ち、離着陸する大型旅客機の騒音のすごさ。「いやなら農地を売って出て行け」という卑劣な魂胆が明瞭です。しかし「1本100円の大根の方が大事」「有機栽培は手がかかって大変だが、食べた人が喜んでくれるのが一番うれしい」と作物を作り続ける市東さんの方がどれほど人間的に豊かであり、強く、かつ共同性を体現していることか。この事実だけですでに政府・空港会社などに完全に勝っているのだ。
 後半は、三里塚空港反対運動の歴史的映像が流れる。1966年7月、当時の自民党・佐藤政権は、「空港予定地は開拓農家が多く貧しい」から買収は簡単と、地元になんの説明もなく空港建設を決定した。それが胸によみがえり改めて怒りが沸き立った。農民や労働者を見下し犠牲にする政府や資本家階級の姿は、当時も今もまったく変わっていないのだ。
 しかし、三里塚・北総大地で闘いが始まり、農民を蔑視(べっし)してきた連中の度肝をぬく闘いに発展していった。老人も子どもも家族丸ごと立ち上がった。保守的な農村の「オッカア」が闘いの中で生まれ変わり積極的に語り、強制代執行時には、鎖で自分の体を立ち木に縛り付け最前線に立った。
 映像には、運動を中心で担い今は鬼籍に入られた反対同盟員が何人も登場する。
 命がけで強制収用と闘った大木よねさん。
 婦人行動隊長・郡司とめさんは、立教大学などで開催した三里塚集会にも駆けつけ、空港建設への怒りを語った。
 また、いつも火の出るようなアジテーションで権力を震え上がらせ、私たちを鼓舞した戸村一作委員長。第1次代執行での地下壕戦、開港時の横堀要塞戦を闘い、1979年に戸村さんが亡くなった後は反対同盟の軸となって闘いを担った北原鉱治事務局長。青年行動隊長や事務局次長として厳しい局面を先頭で闘った萩原進さん。
 そして、孝雄さんのお父さんの市東東市さん。DVDには、用水決戦で機動隊に逮捕され、額から血を流している写真も出てくる。当時、大学のキャンパスで「農民が血を流し、逮捕されても闘っている。三里塚に駆けつけ一緒に闘おう」と訴え、法政大や横浜国大など首都圏の大学からも多くの学生が現地に駆けつけた。東市さんはいつもにこやかに「闘争こそわが命」「闘魂ますます盛んなり」を口にし、学生を勇気づけてくれた。
 そして、孝雄さんの「父の遺志は私が継ぎ、農地を守っていきます」との決意こそ、三里塚農民の意思と闘いを引き継ぐものだと実感する。それだけでなく、今「三里塚・沖縄・福島は一体」「成田を戦争に使わせない」と語り、農地を守り抜くと宣言し畑を耕す孝雄さんと反対同盟は、中国侵略戦争が切迫する中、未来をかけた闘いに立ち上がる青年労働者・学生を鼓舞する。
 青年労働者・学生もまた反対同盟の闘いに応え、三里塚に駆けつけ市東さんの農地を守り、空港を廃港に追い込もう。私たち「心は青年」の世代もどこまでも反対同盟と共に闘う。

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市東東市さんの生涯
 「農地死守」を一身に体現


(写真 1991年喜寿を迎え)

 市東東市さんを直接知らない若い世代のために、その生涯を少し紹介しよう。
 1914年10月16日、千葉県印旛郡遠山村十余三(現在の成田市天神峰)に生まれる(父・市太郎さんは同地に2年前に入植)。34年に徴兵で中国東北部へ。除隊後の40年に結婚。41年には陸軍通信隊に召集され、再び中国東北部へ。45年にビルマで敗戦を迎え、英軍捕虜となりマンダレーの収容所に。47年に復員し、生家で農業に就く。50年に長男・孝雄さん誕生。
 66年、反対同盟の結成に参加。戸村一作委員長の教えを自らの思想として実力闘争に立った。71年の第1次強制代執行阻止闘争では三番地点(駒井野)で地下壕戦を闘う。
 70年代後半以降、空港公団の卑劣な切り崩し攻撃で名だたる同盟幹部が交渉に応じ条件派に転落する中、東市さんの「農地死守・一切の話し合い拒否」路線を貫く意志表明にはいささかの揺らぎもなかった。「私の腕は日々の労働で赤銅色に輝いているが、これは日帝に屈服して侵略の銃を取るための腕ではない。2期工事を阻止し、空港を廃港に追い込み、権力を打倒するための武器である」(79年6月28日、集会発言)
 多忙の中でも支援の人々の要請に応じて全国を飛び回り、三里塚の正義を訴え労働者・学生・市民を激励した。革共同の機関紙「前進」をこよなく愛読し、反革命カクマルの襲撃で負傷した学生を心から気づかった。80年光州蜂起(全斗煥体制打倒を掲げた韓国学生の命がけの武装決起)にも、強い連帯を表した。
 2期工事着工が迫る中、84年に「農地死守」の決意として自宅母屋を新築。同年9月27日、芝山町菱田で「成田用水」の重機搬入に対する実力闘争に立ち不当逮捕され負傷。「戸村精神を爆発させて権力に一泡吹かせた。最高の気分です」(84年10月、釈放後に)
 87年の小川嘉吉(天神峰)らの脱落、89年「軒先工事」の開始、91年の脱落派と運輸省のシンポジウムと続く同盟破壊攻撃に対して、怒りをもって立ち向かった。「私は自分の家の屋根にのぼって彼らをむかえうつ覚悟です。代執行、来るなら来い」(88年9月)
 政府・空港公団は93年に収用裁決の申請を取り下げ、収用法による農地強奪攻撃は完全に粉砕された。
 98年10月の全国総決起集会での決意表明が最後の発言となった。99年1月、心不全で永眠。享年84。遺言では公団に土地を売らぬよう厳命した。

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