元三里塚現闘員が語る 80年代成田用水決戦 菱田で機動隊と連日衝突 許せぬ東市さん署名偽造
元三里塚現闘員が語る
80年代成田用水決戦
菱田で機動隊と連日衝突
許せぬ東市さん署名偽造
私の田舎は宮城県の北の方で、1959年に生まれました。地元の大学に入りましたが、親からの援助はなくて授業料も生活費も自分で稼がなければならず、学生時代はアルバイト三昧。政治的な関心はほとんどなく、ノンポリだったんです。大学の近くには三里塚のことを訴える看板があって見てはいたのですが、その後まさか自分がかかわるとは思いもよりませんでした。
大学卒業後、先輩のコンビニでアルバイトをしていました。その頃、活動家だった別の先輩から「前進」を勧められ定期購読をするようになります。今後どう生きるかと自分なりに悩み、考えていたときに、「君、夢はあるのか」「世の中を変えることに人生をかけないか」と言葉をかけられ、集会に参加するようになりました。
初めて三里塚を訪れたのは83年の10月全国集会です。そこに9月の動労千葉の定期大会で関川宰委員長から変わったばかりの中野洋新委員長が登壇し、発言していた姿が印象に残っています。
当時、成田用水反対闘争が始まっていました。空港予定地内とならんで反対闘争の拠点だった、芝山町菱田地区の反対同盟を切り崩すのがこの用水事業の目的でした。
最初の着工時の84年9月27日の重機搬入阻止闘争で市東東市さん、萩原進さん、鈴木幸司さんら反対同盟員5人が逮捕されます。その直後の10月全国集会で、頭を割られた市東さんら奪還された5人が闘いの決意を鮮明に語っていたことに感銘を受けました。
菱田決戦行動隊
その1カ月後に3日間はじめて援農に行き、その後菱田決戦行動隊(菱行)に1カ月間の約束で派遣されました。
菱行は84年5月の三里塚全国集会後に、全学連が成田用水攻撃に対し現地常駐体制をとると決断して結成されました。全国から学生や青年労働者が駆けつけました。
当時、菱行は30人くらいいて、4小隊に分かれていました。私は第3小隊で労働者を中心とした部隊でした。
朝6時に起床し、ヘルメットをかぶり、整列して朝礼。その日の任務を確認します。援農や街宣、デモ、菱田地区の住母家(すもげ)に建設された工事を監視するためのやぐらの当番(他党派も一緒に当番体制を組んで泊まり込みで監視を続けていた)。現闘の食事当番の補助。朝昼晩と60人くらいの食事を作りました。その他、闘争のために何でもやる部隊として菱行はありました。
1カ月経って、年末に仙台に帰った際、革命家にならないかとオルグを受けます。決意を固めた途端に、今度は現闘として行ってくれないかと言われました。年を越し、「現闘に配属されることになりました」と現地を訪れたら、当時の現闘のキャップから「聞いていないから、とりあえず菱行にいてくれ」と。それで2月になってようやく「確認が取れた。君は正式に現闘だ」と(笑)。
成田用水決戦がもっとも激戦化したのが85年です。ちょうど菱田の辺田とか中郷のあたりに用水基盤整備の工事が入るというので、デモで機動隊と連日激しく衝突しました。7・21菱田現地闘争では機動隊の放水車を占拠する闘いを打ち抜きます。三里塚十字路で機動隊と激突し数百名の逮捕者が出た歴史的な10・20闘争の直後の11月25日には、権力は狭い菱田に1万人の機動隊を動員し反対同盟員の耕作地付近での工事を強行しました。反対同盟の家に行くために、たった200㍍を10回くらい検問を受けなければ進むことができない程の機動隊の壁がつくられました。
11・28〜29に動労千葉が国鉄分割・民営化反対の第1波ストライキをやる直前のことです。逆に言えば、2期着工を完全に動労千葉のストに合わせてやった。全国から動員した機動隊の部隊を今度はスト警備にあてたんです。中曽根政権(当時)の悪辣さを思い知ると同時に、追い詰められた姿だと感じました。
「脳梗塞」の診断
ところで、7・21闘争では、発言を終えた市東東市さんが集会中に、参加していた医師のところにやって来て、「うまく言葉が出なかった」と言ったんです。医師は「すぐ病院に行った方がいい」と言うので、他の現闘に頼んで成田日赤病院に連れて行ってもらいました。夕方に連絡が入り「脳梗塞だった」と。医師がとても落胆していて、知り合いの専門医がいる千葉県救急医療センターでも診てもらえと言うので、翌日、東市さんを連れていき、改めて脳梗塞の診断を受けました。
その後、東市さんは千葉リハビリセンターに1週間に1回、言語療法と作業療法に通うことになり、毎回一緒にドライバーとしてお供しました。12月頃まで通院は続いたのですが、完全に回復することはなく、言語障害(呂律がうまく回らないこととしゃべろうとする言葉が浮かばない状態)と右半身の障害(右足に若干の麻痺、右手の指がうまく動かない症状)が残りました。
この事実は、現在闘いを引き継いだ市東孝雄さんの農地をめぐる裁判(耕作権裁判)で、88年に市東東市さんが地主との間で賃借地の場所を特定したとされる同意書・境界確認書の署名の偽造をめぐる問題で非常に重要なポイントです。
87年に東市さんは2期工事差し止めをめぐる裁判での証言に立つんですが、宣誓の際の署名は脳梗塞の影響で明らかにギクシャクとした文字になっています。だけど、翌年の88年に書いたとされる文字は滑らかで力強く書かれています。
この違いについて、NAA側は「心理的に緊張」したからと根拠もなく言ってますが、権力に対して逮捕・流血恐れず立ち向かった東市さんが法廷での証言くらいで文字が震えるほど緊張することはありえません。
労農連帯拡大を
現地に常駐するまでは、集会などで目にした闘う反対同盟農民の姿からある意味では特別な人なんじゃないかと思っていました。実際は、普段はとても温厚で普通の農民でした。だけど権力の理不尽には闘争心を燃やして闘い、仲間・支援を決して裏切らず真っ当に生きている。人間的にとても尊敬できる方々と、人生の一部を共有できたことは私にとって誇りです。闘争だけでなく、団結を深める温泉旅行にもドライバーとして、同行したり野球や海水浴などの親睦を深める行事など、楽しい記憶として残っています。
成田用水決戦のあとも土地収用法発動との闘い、成田治安法による現闘本部や団結小屋の封鎖・撤去攻撃など、二期工事をめぐる攻防を反対同盟農民が不屈・非妥協に闘い続けてきた結果、事業認定が失効し、平行滑走路建設には「あらゆる意味で強権的手段を用いない」ことを確約させるという勝利が勝ち取られます。私は、その勝利を広げるためにも新たな闘いの場を求め、現地を離れました。
現在、土地収用法の適用を粉砕された地平に打撃を受けた国家権力は、空港公団を成田国際空港株式会社という民間会社(実際には株主は国土交通大臣と財務大臣の2人のみの国策会社)にでっち上げ、農民を守るために作られた農地法で農地の明け渡しを迫るという理屈に合わない攻撃を孝雄さんにかけてきています。反対同盟と三里塚闘争破壊を目的とした新自由主義攻撃そのものです。
全力で労農連帯の闘いを広げ、共に勝利まで闘いたいと思います。