大地と共に 三里塚現闘員が語る 沖縄に生まれ育ち(下) 「飛び込み」で三里塚現闘に 市東東市さんの信念に打たれ
週刊『三里塚』02頁(1041号02面01)(2020/06/08)
大地と共に
三里塚現闘員が語る
沖縄に生まれ育ち(下)
「飛び込み」で三里塚現闘に
市東東市さんの信念に打たれ
(写真 代かき作業を行う市東東市さん【1991年】)
中核派との出会いは中学のときなんです。兄貴が持って帰った早稲田大学新聞の中に反帝・反スタについて書いた論文があったんです。論理的な展開で実践的。書いたのが革共同の本多延嘉さんだと後で知りました。
僕は大学を卒業し、沖縄の浦添で就職しました。その後、すぐ本土に渡ります。復帰協を軸とした祖国復帰運動の路線に違和感があったのと、本土の階級闘争はどんなだろうと思ったからです。当時、中核派はまだ沖縄には本格的に上陸していません。カクマルは嫌いだけど本土ではどうなのか。それと対立している中核派はどんな運動をやっているのかを知りたかったんです。
70年11月にパスポートを取って本土に渡り、川崎で就職します。
そこで川崎市職労が配っていたビラで三里塚闘争を知るんです。71年の強制代執行の過程でした。一人で三里塚に駆けつけると、今日は代執行はないと聞かされて、帰った。そしたら、帰りの電車の中で実際にはやったと聞かされて。本当に悔しい思いをしました。翌年、三里塚はどうなっているんだろうと気になって更地になった駒井野にテントをはって一泊したこともあります。
職を変えつつ川崎、茨城、池袋と転々としながら生活していました。
決定的だったのは本多書記長がカクマルに虐殺されたことです。三里塚に行く以外は政治的な運動に参加するのは難しいなと思って成田に行くことにしました。
現地は、飛行機を飛ばさないために滑走路南側に反対同盟が建てた岩山大鉄塔を守る大運動の最中でした。反対同盟の北原鉱治事務局長の講演が住み込みで働いていた養豚場のある佐倉市であり、そこで初めて中核派と知り合いました。
鉄塔が引き倒された後の抗議集会で、野戦病院の東山薫さんが機動隊によるガス銃の水平撃ちで殺されます。僕も機動隊と80㍍くらいで対峙、激突してガス弾が頭をかすめ血が噴き出しました。野戦病院の医者が焼酎を頭に吹きかけながら「大丈夫。痛くないよ」と8針縫ってくれました。
鉄塔決戦を闘うことを通して三里塚に自分の身を定着させようという意思が改めて固まりました。農家のために何でもやろうと思い、飛び込みで三里塚現闘になりました。『革共同の内戦論』の学習会やったりしながら、40日くらい農家のお世話になり、ようやく認められ天神峰の現地闘争本部に住み込みます。
毎日、援農に通いました。いも穴(貯蔵庫)は普通はユンボで半日かかりで掘るんだけど、僕は、万能鍬(くわ)一つで、深さは肩くらい、幅は約60センチ㍍の穴を3日で120㍍掘った。みんな驚いてね。いろんな人がスコップの使い方を習いに来ました。一定のペースで機械のように掘り続けるのがコツです。
何しに来てる!
天神峰の市東東市さんのところにも入っていました。東市さんは、畑仕事はどちらかというと二の次で、食事も自分でつくる。一切手伝わせてもらえない。いろんな政治的な話をする。あるとき不意に、「『前進』にはこう書いてあるけどどうなんだ」と聞かれて。僕は読んでなかったんで答えられなかった。そしたら、「何をしに来ているのか」「明日から来るな」と胸倉をつかまれて怒られました。自分は援農とかの仕事は他の人と比べればできた方だと思っていたのだけど、「そんなのはどうでもいいんだ」と、東市さんの逆鱗に触れたんです。中核派なのに『前進』に書いてあることについて答えられないとはどういうことかと。
「思想的確信をもっていないと続かないよ」って言われたような気がしました。それから僕も真面目に『前進』を読むようになったんです。
東市さんは、戸村思想を継ぐのは自分だと自負していました。『前進』が届くと農作業をやめて全部読む。成田用水決戦では、田んぼの中で機動隊と取っ組み合い。東市さんは、機動隊の盾で目の上を殴られて血を流していた。僕も機動隊に飛びかかった。「空港公団と闘う者は水と油」と、最後まで信念を貫いたすごい人でした。
そういう東市さんの思いを息子の孝雄さんが継いでいます。いろんな懐柔もあったと思うけど、反骨精神はやっぱり東市さんの血を継いでます。あれだけの攻撃を受けても「自分の体の続く限りこの地で耕し闘う」と宣言しています。
今の市東さんの農地をめぐる攻防は、三里塚最大の決戦として構え、生死を尽くすという気持ちで僕も闘いたい。
星野精神を守り
この間、天神峰の市東さんの畑に星野碑を建てさせてもらいました。三里塚と沖縄を闘った星野さんの、世界に誇るべき精神を守りぬけるか否かが問われています。天神峰を守り抜くことが星野さんの精神を守り抜くことだと自分に課し、花を手向けています。韓国の闘争も歴史的に作られてきました。荒々しい闘いの歴史を自分が作るんだという思いを若い人にも継いでもらいたい。
岸本豊和