大地と共に 三里塚現闘員が語る 学長を弾劾し大学占拠 ストを闘い退学処分撤回 北富士で演習阻止ゲリラ
週刊『三里塚』02頁(1029号02面01)(2019/12/09)
大地と共に
三里塚現闘員が語る
学長を弾劾し大学占拠
ストを闘い退学処分撤回
北富士で演習阻止ゲリラ
(写真 着弾地で演習を阻止し続けた北富士第1の小屋)
僕は1968年大学入学で1年間はまじめに授業に出ていました。
69年の2月11日の試験中に、当時の学長が「建国記念日万歳」で花火を打ち上げたということがあって、それに学生たちが抗議するために、守衛を縛って、屋上から垂れ幕を出したり、バスをひっくり返したり、ペンキで落書きしたりするという闘争があって20人くらいが逮捕されました。
それを見て、自分もこのままではいかないぞと、周辺にいた連中と一緒に救援などの運動を始めました。
当時、ベトナム反戦闘争と大学での大学管理法に反対する運動が極めて大衆的に、街頭でも大学でも闘われていました。
その中で実は僕の通っていた大学は設置基準を満たしていなかったということがわかったんです。寮を学生が使っている講義棟だと言って文部省をだまして、補助金をもらっていた。
いろんな怒りが重なって学長に大衆団交を要求すると、僕らは大学を占拠しました。
当時大学当局の言うことを聞く学友会があったんだけど、それを解散して全員加盟制で学生自治会を作りました。
占拠している時に、学長がたまたま大学に来ていて学長室にいるということがわかった。「出てこい」と150人くらいで座り込みました。1時間半後に機動隊が導入され、大体は抱えられて排除されたんだけど、学生が階段から放り投げられ5人くらいけがをした。
その抗議デモで県警(県庁の中にある)に押しかけ、400人で県庁の中庭に突っ込み機動隊弾劾の集会をやったんです。学長の腐敗があるのに何で学生を弾圧するんだと自治会委員長が言い、副委員長も機動隊を徹底弾劾した。
今の香港の闘いでも学生を見殺しにするな!と闘っていますが、当時も僕らの闘いを見ていた労働者・市民が一緒になって抗議してくれました。
そうした闘争を主導したと、僕を含め4人が退学処分をくらいました。
僕は寮を出てアジトをつくり、運動の方針をつくろうと毎日会議をやったりしていました。
それで機動隊が導入され排除された後でも、負けずにバリケードストをやる。ストライキということを自治会で宣言してやっていたんだけど、半分くらい授業がやられ、中には授業に出る学生もいる。
威力業務妨害だと大学職員がやってくる。機動隊は外にいる。学生が自治をもってストライキを宣言しているところに、何の権限があって警察を呼ぶのかと大学職員と怒鳴りあいになる。教授もその場にいるから、「あなたはどう考えるのか、この問題について何も言わないのか」と追及する。
そうした闘いの中で、ユネスコ国内委員会の割と指導的な人とつながって、そっちサイドからも検討してもらおうとなり、学長がそれほどひどいなら70年暮れに交代させようとなった。それで、「退学処分を取り消す。復学を許可する」との告示を出させました。
中核派全学連に
当時、活動家といっても基礎的な訓練は受けてなくて、手探りでビラをつくったり、看板も作ったことがなかったんだけど、看板屋のおやじがやってきて絵を描くように字を書くんだと教えてくれ「大学立法粉砕、日帝打倒!」のでかい看板を建てたり。いろんな大学の活動を見てノンセクトラジカルという運動だけではダメだなと思って、中核派全学連に入りました。
その頃、北富士闘争と全学連が本格的につながります。
米軍・自衛隊が梨ケ原というところで150㍉りゅう弾砲の実弾発射訓練をやろうとする。それで、夜中の暗いうちに入って、茅(かや)を刈って山にしておく。演習が始まる前にヘリコプターや車で見に来る直前に火をつけて煙を上げる。それで人がいるということが分かると演習が中止になる。そういうゲリラ戦をやっていました。僕は全学連行動隊として参加し、梨ケ原の第8の小屋で71年の正月を迎えました。
隊長は星野文昭
それと並行して三里塚闘争も連日ニュースで報道されていました。農民の生活を機動隊の暴力で押しつぶそうとする国家権力と闘う農民と周辺住民。当時、農民の生活はそれこそ一汁一菜。ご飯とみそ汁があってお漬物があると。学生が援農に入ったときに何か一品付けてくれる。そういう本当に質素な生活をしている農民が闘いを必要とし、共に闘ってくれる人を求めている。これに応えずして学生たりうるのか、社会変革というのはあるのかと思いました。連日、今日は三里塚現地でこういう動きがあったと、それに対してこういう方針で現地に行って農民と一緒に闘おうじゃないかという朝ビラをやって、それでビラの受け取りのいい人をつかまえてはオルグをして、翌日とかその次の日には送り出すという活動をやっていました。
71年2月に僕も2週間くらい、全学連の行動隊が常駐していた南三里塚の長原公民館に行きました。全国から30人くらいが来ていて、その中に隊長の星野文昭さんがいました。
三里塚に着くとまず、あり金を全部出す。全体で任務分担をして援農隊と駒井野に向かう闘争部隊と街宣隊に分かれました。一番いい思いをするのが援農隊。食事とお風呂をもらえる。闘争部隊が一番大変で毎日朝6時起き。党派も競争しあっていて、負けたから明日は5時半起床だとか。
僕が感銘を受けたのは、援農に入ったときに農民が農作業をしながらも、地下壕戦などを準備する話をしていたことです。農作業と闘争が別のものでなく、一体のものとして農民の気持ちの中にあった。こうやって社会が変わるし、変えられるという思いを強くしました。
僕らの活動を周辺で見ていた人たちも今、前進を読んだり、11月集会に来てくれているんですね。
(大津二郎)