青柳晃玄さんを追悼する 「群馬・農地を守る会」を担い、三里塚勝利へ生涯かけ奮闘

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週刊『三里塚』02頁(1019号02面01)(2019/07/08)


青柳晃玄さんを追悼する
 「群馬・農地を守る会」を担い、三里塚勝利へ生涯かけ奮闘



(写真 反対同盟の群馬旅行で「星影のワルツ」を歌う青柳晃玄さん=中央【2005年10月15日】)


 6月9日夜、群馬の地で三里塚闘争を支えてくれた青柳晃玄さんが逝去された。三里塚闘争の勝利と星野文昭さんの解放を誰よりも願い、東奔西走し闘い抜かれた生涯であった。
 81年の生涯の中で、どれほど多くの時間を三里塚のために費やしてくれたことかと思いをはせたとき、本当に残念でならないと同時に心からの感謝でいっぱいだ。
 青柳さんと三里塚のかかわりは、1971年9月、第2次代執行阻止闘争に衝撃を受けて、9・19現地集会に参加したことから始まったという。
 そして、77年〜78年、岩山大鉄塔をめぐる鉄塔決戦=開港阻止決戦が高揚し、各地方・地域に三里塚百万人動員実行委員会運動が進む中で、群馬県教組初代委員長の金田与一さんや教師としての大先輩でもある小池正男さんらとともに、78年、「三里塚をたたかう全群馬実行委員会」を結成して運動を牽引(けんいん)された。
 また、1985年には、東峰十字路闘争現場の綿密な調査を行い、葉山岳夫弁護士と共著で『東峰十字路裁判』(破防法研究会)を出版された。青年行動隊被告らの無実を確信し、反対同盟つぶしのでっち上げ弾圧との闘いに尽力して下さった。
 2004年、天神峰現闘本部の不当な撤去攻撃と闘う裁判闘争が始まると、「現闘本部裁判闘争を支援する会」の関東地区世話人として、支援運動の拡大に力を尽くして下さった。

北原事務局長に「生前戒名」

 天台宗安養院の僧侶である青柳さんは、「日曜日は三里塚の集会に来られなくて申し訳ないから」と毎回のように群馬の地から裁判に駆けつけ下さった。裁判後の例会では、ズンッと響く声でいつも熱い檄を飛ばしていたことを思い出す。
「毎月定例の三里塚支援の会合をもっています。獄中で闘う星野文昭君とともに勝利を」(第11回口頭弁論06年5月11日)
「裁判所に危険なものを感じる。真実から逃げようとしている。大木よねさんの時も治安法の時もだまし討ち。これに勝つための闘いが必要だ」(第12回口頭弁論06年7月6日)
「裁判長は真実から目をそらそうとしている。拙速裁判で検証しようとしないが、弁護団は検証を要求し追いつめている。ペテンにだまされないで徹底的にやろう。空港会社の前提を崩す闘いを断固やろう」(第14回口頭弁論06年12月20日)
 天台宗僧侶ということで言うなら、1982年3月5日、北原鉱治事務局長の還暦の日に生前戒名をつけたというエピソードは、知る人も多いところだろう。
 日常的な交流も大事にされていた青柳さんを頼りに、反対同盟は何度も旅行で群馬の地を訪れた。青柳さんは、いつも気さくに迎え入れ、世話を焼いてくれた。三里塚にかける思いが暖かさとして伝わってくる方だった。
 そして、市東さんの農地取り上げとの闘いが始まってからは、「群馬・ 市東さんの農地を守る会」を結成し、毎年開催される群馬集会を担って、今日まで市東さんを激励し、強制執行阻止の闘いを支えて下さった。
 個人的にはその昔、産直野菜の配送を通して、月に2回は安養院わきのご自宅に伺うお付き合いをさせていただいたことがある。当時、運転が未熟だった私は、ある時配送トラックの荷台をぶつけて、家の屋根を壊してしまった。恐縮する私に、青柳さんは「いいよ、いいよ」と屈託のない言葉をかけて下さった。なんとも申し訳なく忘れられない思い出だ。

星野さん解放、誰より願って

 青柳さんの生涯は、時に闘いの先頭に立ち、時にどっしりと闘いを支え続ける波乱と激動の人生だったのかもしれない。だが、私にとっては温厚で頼りになる「お坊さん」だった。
 本当に、青柳さんはいつも私たちの隣にいてくれたという思いがする。
 青柳さんの足跡をたどりながら、三里塚にかけてきた思い、星野文昭さん解放にかけてきた思いを少しでも我が胸に刻んで闘いたい。青柳さん、どうか安らかに。
(神部俊夫)

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