大地と共に 元全学連委員長が語る 10・20三里塚十字路戦闘(中) 逮捕・流血を恐れず実力デモ 85年全学連大会で「突入」宣言

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週刊『三里塚』02頁(1009号02面01)(2019/02/11)


大地と共に
 元全学連委員長が語る
 10・20三里塚十字路戦闘(中)
 逮捕・流血を恐れず実力デモ
 85年全学連大会で「突入」宣言

(写真 「空港突入!」を号令する鎌田全学連委員長)

 1982年7月に開催された全学連定期全国大会は「成田空港2期工事阻止、日帝の軍事大国化阻止」「大衆的武装闘争で成田空港に突入し占拠・解体せよ」の方針を決定し、私が新しい中央執行委員長に選出された。ここから85年10・20蜂起戦への道が始まる。80年5月の韓国・光州蜂起に絶対に応えるのだという強烈な使命感がみなぎっていた。同年11月、中曽根政権が発足。全学連と中核派が「2期着工阻止・成田空港突入」の実力闘争方針を確立して中曽根の戦争政治を迎え撃ったということは決定的だったと思う。
 しかしスローガンは威勢良く打ち出したが、何をどうすればいいのかさっぱりわからない。ともかく、「三里塚2期決戦勝利・中曽根打倒」を必死に訴えた。
 三里塚闘争の83年3・8分裂が大きな転機になった。脱落派をたたき出して「農地死守・実力闘争」「空港絶対反対・一切の話し合い拒否」を貫いた反対同盟の決起に、われわれは奮い立った。反対同盟は全国キャンペーンを開始し、地域や学園に赴いて労働者、学生に訴えた。全学連は学生実行委員会による三里塚大結集運動にうって出た。拠点大学の自治会、筑波大学化(大学改革)攻撃との闘い、寮闘争などを結集した統一戦線だった。三里塚闘争は学生運動に最も必要な「戦争絶対反対」の政治性・思想性を体現していた。
 分裂と総条件派化攻撃を打ち破った反対同盟の「3・8決起」の正義の力は、日帝・中曽根とその三里塚2期攻撃への人民の怒りと結合し、闘いの砦への総結集を生み出した。1年半で全学連の動員は2・5倍化し、84年10月の三里塚全国集会では2千人の学生隊列を登場させた。

機動隊打ち破る

 この大結集運動を背景に、大衆的実力闘争への転換が可能になった。中曽根戦争政治と三里塚2期攻撃(農地強奪)への怒りの爆発の引き金となったのは、84年9月、成田用水菱田第1工区(東、中谷津)着工阻止闘争での反対同盟5人を含む33人の不当逮捕だ。天神峰で闘う市東孝雄さんの父、東市さん(当時77歳)も逮捕されたが、その額からは鮮血がしたたり落ちていた。
 これは許せない! ただちにデモの戦闘化方針が決まった。全学連と反戦青年委の白ヘル部隊は、スクラムを組んで機動隊と激突を繰り返す。この年の11月から翌85年8月まで4回の成田用水工事実力阻止のデモは、のべ120人の逮捕者を出した。85年の7・21デモ、8・25デモでは機動隊の壁を撃破して放水車を奪うまでに至った。さらに84年12月米核空母カールビンソン寄港阻止横須賀現地闘争、85年元旦デモ(東京)、2月関西新空港反対闘争、5月北富士闘争などでも機動隊と激突をくりひろげた。スクラムを組んだだけの丸腰のデモ隊が、全身凶器の武装した機動隊を幾度も打ち破ったのだ。大量逮捕や流血にびくともしない根性が据わった。
 こうして85年7月に開催した全学連大会で「10・20成田空港突入」の大衆的武装闘争を宣言する。われわれの側から日時を設定して、中曽根と権力・機動隊に挑戦状をたたきつけた。京都大学熊野寮では「成田空港A滑走路に寮旗を立てよう!」と議論が沸騰し、クラス決議をあげて戦士を送り出す大学もあった。10・20直前の3日間にわたる法政大学のバリストでは55年館屋上からの大音量での弾劾演説で、靖国神社秋季例大祭への中曽根の公式参拝を実力で粉砕した。1〜2年生の活動家が大量に育っていた。

反革命カクマル

 3・8分裂に小躍りし、三里塚闘争破壊の武装襲撃をエスカレートさせたのが、カクマルだった。闘う学生の拠点サークル室や学寮、アパートの居室に忍び込み、ファシストならではの破壊行為や室内にある一切合切を強奪する行為を全国的に繰り広げた。しかしこれらは逆にカクマル弾劾・一掃の大衆的決起を促進し、三里塚闘争への結集を一層強める結果しかもたらさなかった。焦るカクマルは全国動員の「数」と武器、権力の庇護を頼みとした武装襲撃を開始する(東北大学、京都大学、和光大学など)。闘う学友たちは血を流し重傷を負いながら一歩も引かずに戦ってこれを撃退し拠点を守り大衆決起を防衛した。
 10・20の機動隊せん滅のゲバルトには、対カクマル戦争で学んだ「赤色テロル」の思想と戦い方が全面的に発揮されている。
鎌田雅志
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