大地と共に 三里塚現闘員が語る 83年3・8分裂(下) 闘争終結策動を完全に粉砕 弾圧に屈した第4インター

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週刊『三里塚』02頁(1003号02面01)(2018/11/12)


大地と共に
 三里塚現闘員が語る
 83年3・8分裂(下)
 闘争終結策動を完全に粉砕
 弾圧に屈した第4インター

(写真 1983年10・9集会で分裂攻撃を粉砕した勝利を確認)


 前回、危機に追いつめられた日帝・国家権力が総力挙げて、反対同盟を丸ごと条件派に変質・転換させて闘争を終結させようとした1983年の3・8分裂攻撃に対し勝利したことまで述べた。この勝利により、さらに強固な「絶対反対同盟」が確立した。北原鉱治事務局長、萩原進事務局次長の新体制がスタートした。
 政府・国家権力に屈服して条件闘争へ転換しようとした者たちは、1983年の3月8日を契機に反対同盟から脱落し分裂していった。彼らは熱田派と名乗った。反対同盟の総条件派化に失敗した政府はこれ以降、熱田派のみを対象にして条件交渉を進め、シンポジウムや円卓会議によって「三里塚闘争は解決した、終わった」かのような大キャンペーンを繰り広げた。他方で政府は反対同盟を徹底的に無視する方針をとった。

「勝負はついた」

 萩原進さんは、脱落派の策動に対して誰よりも激しく怒った。なぜならば彼は誰よりも三里塚闘争の勝利を望み、勝利にこだわっていたからである。せっかく政府を追いつめているのに、条件闘争に転換させ終息させようとする裏切り行為を絶対に許せなかったのだ。
 進さんは、1967年の羽田闘争で命を賭して闘う全学連や青年労働者の姿を見て、彼らとの共闘を選択した。同時に三里塚闘争勝利の道は反戦の闘いであることを確信し、真剣に農民反戦を作ろうと努力した。進さんは勝利への意志が誰よりも強かった。だからこそ、脱落派に対しては厳格に対応した。闘争終結のためのシンポジウム、円卓会議の正体が明らかになったときに進さんは自信に満ちた表情で「脱落派との勝負はついた」と語った。
 進さんはいつも、どうしたら勝利のために闘争を拡大できるのかを真剣に考えていた。北原さんや萩原さんが生前よく言っていた「来る者拒まず」と言うのは、「反対同盟の基本原則に賛同して共に闘うという者であれば誰でも受け入れる」という意味であった。「脱落派は基本原則に反して闘争を変質させ裏切り行為を行ったが、頭を下げてくればいつでも受け入れる用意はある」と、度々言っていた。しかし無条件で受け入れると言っていたわけではない。とりわけ支援党派に対しては厳格であった。反対同盟と一緒に闘いたいと申し入れてきた党派に対しては、「反対同盟(北原派)の方が正しかった」と自己批判書を書かせるということがあった。

空港に賠償金!?

 1979年頃に始まった島寛征(当時反対同盟事務局次長)、石井新二らの秘密交渉の背後に当時、第4インターや共産同日向派の策動があったことは極めて重要な問題である。
 とりわけ第4インターは、1978年の開港阻止決戦で管制塔占拠闘争を闘ったが、国家権力が破防法の適用をチラつかせただけで恐怖し、路線転換した。
 それを象徴しているのが管制塔裁判である。秘密交渉発覚後に島寛征を管制塔裁判の証人に出す戦術をとる一方、裁判の法廷で被告人らが全面的に自供する方針に転換した。「管制塔闘争の最高指導部だった者に対する10年の重刑攻撃を軽くするため」ということであった。そこで、「管制塔に突入するためにマンホールに入ったが、その中で協議して突入を中止することを決めるに至った」という経過を全面的に供述したのである。「突入を中止した」というストーリーを作ってそれを証明するために、団結小屋での作戦会議などを供述するハメになった。そして「計画を中止してマンホールから出たら、たまたま目の前に管制塔があったので入った」という話を仕立て上げた。
 自ら切り開いた地平を否定するこの路線転換以降、第4インターは3分裂し今や党派の面影もなくなり、階級闘争の隊列から完全に脱落した。それは、管制塔の賠償金請求に対して「カンパ」を集めて金を支払ったという、信じられない行為にも示されている。機動隊の暴力を使って農民・住民を踏みにじり、大木よねさんを叩きのめし、東山薫氏らを虐殺して空港建設を進めてきた奴らに、なんで賠償金など払う必要があるのか。絶対にありえない。
 破防法の恫喝に屈した第4インターの転向と、石井新二らの秘密交渉・話し合い路線は同時に一体で進められた。金集めの一坪再共有化運動もしかりだ。三里塚闘争を条件闘争化しようとした第4インターの策動は、三里塚闘争に対する歴史的大罪・階級的裏切り行為として永久に残るだろう。階級的裏切りを行ったものは、必ず階級的制裁を受け、いずれ歴史のくずかごに葬り去られるというのが階級的掟(おきて)である。それは53年目を迎える三里塚闘争の歴史が証明している。
村岡俊雄

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