小山衛一同志偲ぶ会開く 「最後まで住民組織化続け」

投稿日:

週刊『三里塚』02頁(0997号02面01)(2018/08/13)


小山衛一同志偲ぶ会開く
 「最後まで住民組織化続け」

(写真 反対同盟歌を全員で熱唱【28日】)

(写真 小山衛一同志の遺影に献花を行った)


 7月28日、千葉市のDC会館において、三里塚現地闘争本部の主催による「小山衛一同志を偲ぶ会」が開かれた。
 小山同志は昨年末に胃がんが発見された。手術し、闘病・療養しながら可能な範囲で活動を続けていたが、快復かなわず6月7日に亡くなった。享年68。
 司会進行を現闘の同志が務めた。「三里塚現闘はこの三里塚闘争に生涯をかけ、死んだら骨となり三里塚の土になるんだということを誓い合って闘い続けてきました。小山同志の存在は本当にかけがえのないものでした。彼が残したものも大変大きなものです。彼がいなくなった現実は、本当に悔しいけれども、これをバネに三里塚闘争勝利、日本革命勝利まで三里塚の地において闘い、とりわけ市東さんの農地取り上げとの闘いについては、生死をかけて闘うことを誓っています」と涙で声を詰まらせながらあいさつし、全員で黙とうを行った。

韓国語を習得し現地を案内

 続いて、小山さんの活動を記録したビデオが上映された。三里塚集会でカメラを携えて報道写真を撮り、一斉行動では市東孝雄さんとともに周辺地域を回り、堪能な韓国語を駆使して韓国・民主労総の労働者たちに現地を案内し、訪韓闘争では生き生きとコールを上げる姿などが映し出され、参加者は小山さんの地道な活躍の記憶を呼び覚ました。
 三里塚現闘の代表が主催者としてあいさつした。小山さんが1981年から「週刊三里塚」の編集に携わり、2008年からは編集長として編集発行の責任を全うしたこと、文筆力に長け多くの文章を書き、また勉強熱心で韓国語を習得したこと、病魔に冒されてからも死の直前まで周辺地域の住民を組織するために奔走し続けたことなど、小山同志の業績を紹介した。そして彼が念願していた三里塚闘争の勝利を必ず実現することを誓った。
 三里塚芝山連合空港反対同盟の伊藤信晴さんがあいさつに立ち、ともに芝山町などの周辺住民を組織化する上で小山さんの発揮した努力を振り返り、「彼の魂を受け継ぎ、市東孝雄さんの農地を守り、空港機能強化=第3滑走路粉砕へ闘い抜く」と決意を表した。
 動労千葉の田中康宏委員長は、民主労総との交流を深める上で小山さんが通訳として果たした役割と力、そして周辺住民組織化に発揮した努力と情熱を称え、遺志を継いで労農連帯・国際連帯をますます発展させることを誓った。
 革共同の天田三紀夫書記長は小山同志の遺志を継いで、改憲阻止闘争を全力で闘う決意を表明した。続いて革共同の鎌田雅志同志は、小山同志が1975年3・14反革命(カクマルによる本多延嘉革共同書記長虐殺)に対する怒りをばねに革命運動に決起し、生涯を革命運動と三里塚に捧げたことを称えた。
 簡素な供花が添えられた遺影に一人ずつ献花を行った。民主労総を三里塚現地に迎えたときに撮られた小山さんの写真は、こぶしを握り希望に満ちた笑顔。
 反対同盟・婦人行動隊の宮本麻子さんの音頭で献杯を行った。

彼の闘魂継ぎ勝利の日まで

 その後はフリートークという形で、『前進』編集局、同印刷局、千葉県下の労働組合、寝食を共にした現闘と全学連三里塚現地行動隊の仲間、慶応大学の先輩、学生運動時代の仲間、全学連の斎藤郁真委員長などが次々と小山さんの思い出と決意を述べた。
 反対同盟の北原健一さんは、「小山君が編集責任をとっていた『週刊三里塚』は、本当にすばらしい新聞。新聞づくりの人たちの苦労が最近わかるようになった。動労千葉は本部と決別しながら労農連帯を守り抜いた。その気概をわが物として、小山君の遺志を継ぎ、私も未来をつくるため共に闘う」と感涙にむせびながら語り、大きな拍手を受けた。
 小山さんの娘さんをはじめ3人のご家族が、感謝の気持ちと故人の思い出を語り、参加者の心を温めた。
 最後に「反対同盟の歌」を全員で熱唱し、小山同志の闘魂を胸に「農地死守」をあらためて誓い合った。

このエントリーをはてなブックマークに追加