大地と共に 三里塚現闘員が語る 77年鉄塔決戦(下) だまし討ちで鉄塔撤去 数千人が報復の闘いに
大地と共に
三里塚現闘員が語る
77年鉄塔決戦(下)
だまし討ちで鉄塔撤去
数千人が報復の闘いに
岩山大鉄塔の撤去は、闇討ちであった。撤去は、航空法による飛行障害物の除去であり、千葉地裁民事第1部の妨害物排除の仮処分決定にもとづくものであった。反対同盟は、空港公団による千葉地裁への仮処分の申請が4〜5月にあると身構えていた。年頭から反対同盟は日直当番を決め、役員が責任者となり、各部落からの動員を続けていた。夜間は支援が受け持ち、5人以上は詰めていた。
卑劣な「仮執行」
空港公団は、連休前の5月2日に仮処分の申請を裁判所に行い、休日の合間の4日に千葉地裁は処分決定を行った。たった一日、しかも権利者に全く通告なしの出来レースだった。直接の当事者である反対同盟とその代理人に意見を求めることはおろか、仮処分の申請がなされたという通告すらなかったのである。そして連休明けの5月6日に撤去を執行したのであるが、それも捜索を理由にだまし討ちで、周辺を封鎖して強行したのだ。
午前3時、千葉県警機動隊1千人が鉄塔を完全に包囲、外部との連絡をいっさい遮断した。機動隊員が秘密裏に潜入、鉄塔防衛の支援を拘束し、そして航空法違反容疑の捜索を行うと通告した。そして、北原鉱治事務局長を立ち会いとして電話で呼び出して、北原さんが来ると裁判所が家宅捜索の令状を示した。北原さんと5人の支援は、30㍍下の岩山団結小屋に引きずり降ろされた。鉄塔の中ほどの一人は、レンジャー部隊によって縄でぐるぐるに縛りあげられ、降ろされた。北原事務局長を「立会人」と称して軟禁状態にしたうえ、8時38分に仮処分執行を宣言し、あらかじめ準備していた大型クレーン車によって、11時1分大鉄塔を倒した。
心の鉄塔倒れず
反対同盟が緊急動員で駆けつけたときには、鉄塔へ行く道は機動隊によって封鎖されていた。岩山部落からの鉄塔入り口である番神三差路に同盟は各々集まり、抗議集会が始まった。北原事務局長は、涙をこらえて権力の仕打ちを報告し、「あらゆる制限を取り払う」と呼びかけた。婦人行動隊の郡司とめさんは、「鉄塔は心に生き続ける。心の鉄塔は倒れない」と不退転の決意を表明した。
私は仮処分の決定が非公開で出されるなど思いもしなかった。事前に知っていたのは警察庁長官・浅沼清太郎、同警備局長・三井脩、千葉県警本部長・中村安雄、同警備部長・田口忠男らのみだと言われている。権力の狙いは、闘争を未然に封殺し、反対同盟に無力感を強制し、空港反対闘争を解体することだった。ところが、このような闇討ちは、代執行での大木よねさんへのだまし討ちを思い起こさせ、反対同盟の怒りの火に油を注いだ。開港の遅れに焦りにかられた権力は、姑息な手段でしか鉄塔撤去できなかったことで逆に墓穴を掘ったのである。だから、私も反対同盟も悔しさや怒りはマックスだったが、三里塚闘争が巨大に発展することを確信していた。
実際、ニュースを聞いて三里塚に心を寄せる人民は続々と現地に駆けつけ、ただちに闘いが開始された。
東山さんを虐殺
撤去当日、急を聞き駆けつけた全学連と反戦派労働者の白ヘル部隊は、角材と火炎瓶で武装し、機動隊との闘いに立ち上がった(五十石戦闘)。25人が逮捕された7日の抗議闘争に続き、翌8日千代田農協前の抗議集会は6千人の怒りに燃える大集会となった。戸村一作委員長は「鉄塔を倒すため、なりふりかまわず法を無視する暴挙に出たのは権力だ。われわれは何をやってもよい」と無制限・無制約の反撃を宣言した。
警察はこの反対同盟の集会にガス弾を打ち込み重傷者を多数出すとともに、臨時野戦病院入口でスクラムを組んでいた現地常駐支援者の東山薫さんを、ガス弾の直撃によって虐殺した。東山さんは意識不明のまま10日に死亡した。東山さん虐殺は、全人民の怒りを巻き起こした。そして、同盟と支援が一体となって報復戦に立ち上がった。
このようにして鉄塔決戦は、「実力闘争・絶対反対」の闘いとして開港阻止決戦を切り開いていった。そして70年安保・沖縄闘争を引き継ぐ日本階級闘争の中軸に三里塚闘争を押し上げたのである。
大戸剛