大地と共に 三里塚現闘員が語る 77年鉄塔決戦(上) A滑走路南端で開港を阻止 4・17に空前の2万3千人
大地と共に
三里塚現闘員が語る
77年鉄塔決戦(上)
A滑走路南端で開港を阻止
4・17に空前の2万3千人
1971年に二度の強制代執行を行ったにもかかわらず、空港公団は開港することができなかった。公団総裁の72年開港宣言は破産し、その後の度重なる開港予定は延期に次ぐ延期で、建設した滑走路はひび割れ、ぺんぺん草が生えていた。開港を不能にしていたものは、反対同盟の不屈の闘いだ。東峰十字路弾圧などを同盟の団結で跳ね返し、2期用地内をはじめ反対同盟の基本骨格を守り抜いた。このことが三里塚闘争の新たな情勢を切り開いた。成田新幹線構想の廃止など、「遠い、不便」と欠陥だらけの成田空港建設の矛盾が噴出した。その典型が燃料問題だった。
飛行機を飛ばすためにはジェット燃料が必要だ。北総台地の真ん中に空港本体を造ったものの、千葉港と成田空港を結ぶ全長44㌔のパイプライン計画は千葉市市街地を縦断して埋設するという危険でズサンなものであった。千葉市民の激しい反対運動で中断。代案として貨車による暫定輸送が計画されたが、これも動労千葉の輸送拒否闘争によって行き詰ってしまったのである。
展望台と大看板
この動労千葉のジェット燃料貨車輸送阻止闘争に先立って、開港を阻む現地の最大の闘争拠点として建設されたのが岩山大鉄塔だった。侵入表面を39㍍も突き出る高さ62㍍の鉄塔は、中ほどに空中団結小屋と回廊を設置し、これが展望台で東京タワーを思わせる堂々とした姿だった。72年2月28日に建設に着手し、3月15日に完成した。4000㍍A滑走路南端752㍍地点のアプローチエリア内に建設した(注)。現闘が書いた「我、敢然と空港を阻む」の大看板が掲げられ、4000㍍滑走路を睥睨(へいげい)していた。大鉄塔に上って回廊から見渡すと、空港を眼下に北総台地一帯から筑波山までを展望できた。
岩山大鉄塔は、反対同盟が代執行闘争を越えるために創意工夫したものであった。まず、所有地は周辺も含めて反対同盟用地であり、やすやすと権力が侵入することはできない。空港公団は、鉄塔破壊のためだけの道路の建設に1年以上をかけたが、買収地に作らなければならないため大きく迂回。また、岩山部落の産土神社参道の横断、水田をつぶすための農地転用など、そのたびに反対同盟と激突した。産土神社参道の闘争では現現闘メンバー2人の初逮捕をはじめ、支援48人が逮捕された。
連日の実力闘争
77年1月、政府は開港宣言を打ち出した。反対同盟は、その年の旗開きを鉄塔下で行った。戸村一作委員長は、「鉄塔が隠れるほど黒山のように人が上り、人塔に」とあいさつし、老人行動隊は「命をかける」と決意した。命がけで鉄塔に登る反対同盟農民と支援、それを包囲する数万の人々、これが鉄塔決戦のイメージだ。反対同盟は、連月の現地闘争を闘うとともに全国に打って出た。77年4・17集会には闘争史上最大の2万3千人が三里塚第一公園に結集した。三里塚から岩山大鉄塔への5㌔のデモは延々と続き、先頭が到着しても参加者はまだ会場から出発できない。三里塚一帯が解放区であった。
闘争会館を建設
われわれは、4月末から鉄塔破壊阻止決戦のため鉄塔決戦行動隊と現地常駐拠点である「三里塚闘争会館」建設に着工した。全学連は、1年前の76年4月にすでに現闘の新メンバー12人を派遣し、鉄塔決戦に備えていた。私もその一人で、決戦準備を担った。大鉄塔の隣の地区の南三里塚に小学校の仮設校舎だったプレハブを移築した。5間×12間の2階建てで、総床面積400平方㍍(約120坪。240畳)。最高600人が宿泊可能とされ、2階の大部屋では200人の集会が開催できた。これまでの団結小屋のイメージを一新する巨大なものであった。当初、「団結小屋」ならぬ「団結会館」と命名していたが、5月22日に同盟を招いた完成式では、戸村委員長が「団結ではなくて闘争だ」と指摘し、「三里塚闘争会館」と看板を書き換えた。
南三里塚と中核派は関係が深い。代執行闘争の際に、高崎経済大学の星野文昭さんが責任者となり全学連行動隊が公民館に常駐していた。
鉄塔決戦行動隊は、77年1月19日の第一波闘争において結成、全国から20人ぐらいが常駐した。闘争会館ができるまでは反対同盟の宮本嘉さんや野平駒治郎さん(聰一さんの父)の世話で南三里塚公民館を使用した。行動隊は、鉄塔防衛のため毎日登場し、機動隊と対峙した。鉄塔への往路の毎日のデモコールは、子どもがまねをするぐらい地域に浸透した。
大戸剛
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(注)アプローチエリアとは発着に必要な無線施設や照明施設などを設置する航空保安施設のこと。