大地と共に 三里塚現闘員が語る 68年2・26闘争で大激突
週刊『三里塚』02頁(0986号02面05)(2018/02/26)
大地と共に
三里塚現闘員が語る
68年2・26闘争で大激突
(写真 〈上〉デモに阻まれ孤立する飯高連隊長〈下〉機動隊は倒れた学生をかばう戸村委員長のヘルメットをはがし警棒で乱打)
砂川から三里塚
三里塚闘争に私が初めて参加したのは1968年の2・26闘争だ。砂川基地拡張反対同盟の宮岡政雄さんが北原鉱治事務局長に三派全学連の秋山勝行委員長を紹介して全学連との共闘が実現し、「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止2・26現地総決起集会」として行われた。会場は成田市役所前にある成田市営グラウンド(現在の栗山公園=4・1全国集会の会場)。三派全学連結成後、初めて三里塚で機動隊と激突した闘争である。三里塚闘争が本格的激闘過程へと突入していく幕開けともいえる歴史的大闘争となった。2・26を突破口に3・10、3・31とわずか1か月の間に3回もこの市営グラウンドを拠点に激突した。全学連との共闘
三派全学連といっても実際にはこの時、他の党派は労働者と農民の闘いを重視せず、あまり闘争にならないとして中核派以外は参加しなかった。しかし2・26闘争が大爆発したことによって3・10からは他の党派も参加するようになった。当時空港公団分室があった成田市役所に向かって攻撃をかけ、装甲車などで内バリを固めた機動隊と激突を繰り返した。この日、機動隊の主力部隊は千葉県警で、放水車・装甲車をはじめジュラルミンの盾や警棒などで完全武装していた。反対同盟はこの日までに数十回に及ぶ陳情・請願行動を行ったが、ことごとく門前払いされ無視されていた。その陳情・請願行動に対する国・空港公団の回答が、国の暴力装置である機動隊導入であった。問答無用とばかりに力ずくで空港建設を強行する国策と対決するには、実力闘争を貫くことこそが勝利の道であることを確立させた闘争でもあった。成田空港が機動隊空港と言われる由縁でもある。
この日、完全武装の機動隊に対してデモ隊が手にするのは角材のみであったが、あちこちで激突が繰り返され怒りの炎は機動隊を蹴散らして圧倒した。後日『北総の朝あけ』という本の中で当時の成田警察署長であった飯高春吉はその時の恐怖を吐露している。機動隊の部隊が成田山に通じるトンネルの中に逃げこんで指揮官車だけが取り残されてデモ隊に取り囲まれた。車の上にいた飯高は、土手から車ごと突き落とされるのではないかと、恐怖にかられたという。実は私もその指揮官車を攻撃したデモ隊の一人で、今もはっきりと記憶している。この日の激突は、全学連の部隊が圧倒した。路上に倒れている機動隊員が邪魔になるから「武士の情け」と学生が道路脇に運ぶ状況も見られた。そのためか次の3・10からは、当時「鬼の4機」と言われた警視庁第4機動隊を導入した。2・26の報復と言わんばかりに突撃ラッパの合図で解散集会中の反対同盟等の参加者を襲撃する暴挙によって多数の重軽傷者を出したことは有名である。前年の12月、闘争を放棄したばかりか闘争破壊者に成り下がった日本共産党を追放した反対同盟は、全学連の命をかけて闘う姿を見て共闘をますます深めていった。
戸村委員長立つ
この日、市役所に攻め上る激突を繰り返した中で、学生をかばおうとした戸村一作委員長が、機動隊による警棒の乱打で頭を割られる重傷を負わされた。機動隊員は戸村さんのヘルメットをわざわざはがして頭部を集中的に乱打したため頭部を割られて血まみれとなった(後に民事訴訟で勝訴)。国家権力・機動隊は反対同盟の代表である戸村委員長を痛めつけることによって力ずくで三里塚闘争をつぶそうとしたのだ。しかしそれは逆に怒りの炎に油を注ぐ結果となり、反対同盟の実力闘争への確信を深める事件となった。敬虔なクリスチャンであった戸村委員長自身も国家暴力に屈するどころか、この2・26を契機に国家権力の横暴、農地強奪・農民追い出しの空港建設に、絶対反対の実力闘争で生涯を闘いぬく道を選択することになった。
(村岡俊雄)