連載 三里塚闘争と労農同盟論〈下〉 農民自己変革の革命性 生産者と農地は不可分

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週刊『三里塚』02頁(0980号02面06)(2017/11/27)


連載
 三里塚闘争と労農同盟論〈下〉
 農民自己変革の革命性
 生産者と農地は不可分

(写真 戸村一作委員長【右】と北原鉱治事務局長【1967年】 )

 労農同盟論の核心の一つである農民自身の革命的変革の問題に入っていきたいと思います。三里塚闘争において農民がいかに変革されたのか、この点を戸村一作委員長は、「農地死守」の思想とその深化(「農地奪還」論)で考察しています。
 戸村さんは「この闘争も元来は、農民の地域エゴや利害関係から生れたものである。しかし、そこから農民の意識構造が変革され、政治的にめざめていった」「不可侵の土地が、空港建設のために有無をいわさず奪い取られていく」ことへの怒りが闘いの発展とともに「あるがままの農民を超える」(『わが十字架・三里塚』)、と言っています。

国家権力との非和解の闘争に

 まずは「農地死守」を取り上げてみましょう。これは、やはりすごいスローガンなんです。ある農家は土地収用のための強制測量阻止闘争で逮捕された裁判の証言で、「あなたの財産は」と聞かれて、「国に奪われようとしている」と言い、「農地は自分の子供、娘が犯されそうになっている時にあなたならどうするのか」と堂々と裁判長を弾劾したという話があります。「自分の財産を国が奪う」ことは農民にとって理不尽であり、これを阻止することは理屈抜きに正義なのです。そして農民と農地の関係性が強いほど農地強奪への抵抗は、国家権力と非和解の対立となるのです。だから「農地死守」のスローガンは、農民と農地という主客の根源的な関係から生まれた即自的なものでありながら、非妥協的な闘いがその発展とともに労働者階級との共闘を通して農民自身が変革する契機になったのです。
 しかし他方で、「先祖伝来の農地は俺の物だ。農地を奪われたら農民は食えなくなる」といった私的利害のみの「農地死守」は、切り崩しへの屈服の理由にもなりました。これに直面した戸村さんは、「ブルジョア法を超えた、生来の、あるがままの農民意識を突き破る、土地問題に対する革命的思想性」を追求したのです。そして、即自的な「農地死守」を克服し、階級的に発展させたものとして「農地奪還」を提起します。「土地所有は国家権力の暴力行使によって奪い去られていく。……もう一度、権力の手中から自己自身の手中に農地を奪還するにはどうしたらよいのか」(『わが十字架・三里塚』)と言います。
 三里塚では、土地収用法による強制代執行が行われました。収用とは、土地のブルジョア的取得の特殊な形態であり、私的所有を成り立たせている不可欠な制度です。ブルジョア的な財産制度は、「自由」「不可侵」といいながら、はじめから人民からの強制的な収奪を前提に成立しているのです。農民が自己の利害を守ろうとすれば、「農地死守」はブルジョア法を破る闘いに転化していくのです。ブルジョア的所有やその自由の欺瞞が暴露され、それまでの私的な所有意識を越えたもの、つまり本源的な農民と土地との関係を追求せざるをえないのです。これが「自己自身の手中に農地を奪還」と戸村さんの言っている意味なのです。
 旧青年行動隊の一部は、これを捻じ曲げて公団用地の自主耕作というエセ急進主義で利用しました。そういうことではないのです。土地闘争のもっている革命的な変革性を確認し、さらに自分たちの労働と土地・自然との関係、本源的な関係をいかに作り出していくのかという問題を農民闘争の核心として打ち出しているのです。
 それを考えていく場合に、農民にとって農地はどういうものかということがあります。農民にとって、農地は命そのものなのです。そもそも農業は自然を媒介にしており、生産者と農地との関係は不可分の関係です。農業労働は自然を媒介・制御し、生物間の物質代謝を利用する生産活動です。これは剰余価値の生産を自己目的にした資本主義的生産とは対立的なものです。マルクスは、資本論の中で「合理的な農業は資本主義体制とは両立せず、それは自分で労働する小農民の手かまたは結合した生産者たちの統制かを必要とする」(第3巻第1篇第6章)と言っています。資本主義は、労働力の搾取、労働者からの略奪の技術を進歩させるとともに土地から略奪する技術の進歩をもたらしました。現在、アメリカの農業が典型ですが、略奪型農業と言って、大型の機械を使って自然をも破壊する、自然の再生産条件をも損なうようなあり方が進んでいます。
 そういう農業のあり方を変革して、闘う農民が求めるような農業のあり方、それをいかに獲得していくのかということが農民の闘いになっていると思います。結論から言えば、今、資本主義で作ろうといっても、夢物語なのです。このような農業の復権は、プロレタリアとともに農民が主体的にプロレタリア革命に参加することで農民が作り出していくものです。逆に言えば、このような農民の参加があってこそ、社会主義への過渡期社会をもっと豊かに建設できると確信します。

「農地死守」から「農地を武器に」

 萩原進事務局次長は、「自分たちは商品として野菜を作っていない。人の命の糧として作っている」と言っていました。人間の命のためという、農業の本来的あり方を社会的共同性の一つとして農民自身が作り上げるという思いが、農民の活動の原点にあります。闘争は資本主義下で歪んでいる農業における農業労働と自然の関係の本源的な在り方への復元―農民にとっての「農業の奪還」を引き出したのです。これは、一つひとつの農民の闘争の中でも基底に存在すると思います。農業の根源的な関係(自然と人間、人間と人間)の復権を希求する農民は、労働の奪還とともに「農業の奪還」のためにコミューンを結成することになると思います。これを目指して三里塚は「農地を武器に」闘うことにより、さらなる変革をかちとるでしょう。
 現在、市東孝雄さんの農地とりあげの攻撃が緊迫しています。「1億8千万の金より、1本100円の大根を作り続けるほうが大事」と市東さんは言っています。これは立派です。こういう農民の参加を通して、労働者階級の闘いも発展するし、プロレタリア革命も豊かになっていきます。また、日本農民が抱えている様々な問題も市東さん闘争の勝利をテコに展望を開いていくことが可能だと思います。(終)

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 前号最終段落の「農地の獲得を」は「農民の獲得を」の誤りでした。
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