連載 三里塚闘争と労農同盟論〈中〉 農民獲得は革命の課題 レーニンの苦闘に学ぶ
連載
三里塚闘争と労農同盟論〈中〉
農民獲得は革命の課題
レーニンの苦闘に学ぶ
レーニンの労農同盟論の形成・確立を見る場合に、エンゲルスの農民問題の提起とその後のドイツ社民党内の論争をおさえる必要があります。レーニンは、ここから出発しています。レーニンは、エンゲルスの原則的な農民政策をロシアの現実にいかに貫徹するか苦闘するとともに、「革命を絶対にやる」という意志でそれを実践的に適用・発展させていきました。この点を学ばなければならないと思います。
エンゲルスの提起と批判点
エンゲルス「フランスとドイツの農民問題」は、マルクス主義の労農同盟論の基本文献です。この中でエンゲルスは、労働者党の農民に対する基本政策を次のように提起しています。小農に対するわれわれの取り組みは、「力ずくではなく、実例とそのための社会的援助の提供を通じて、小経営と私的所有とを協同組合的なものへ移しいれる」ことである、と。労働者政権において、農民を社会主義的な農業生産へ移行させていく機軸が労働者の階級的援助と実例によるという優れた提起です。革命党の労農同盟論の立脚点です。
他方、この論文は、フランスの労働党の農民綱領に対する批判です。経過や背景をつかまないとわかりにくいので、簡単に述べます。19世紀後半、農民問題が社会問題化しました。もともと資本主義の発展とともに、小生産者である農民階級は「分解する、没落する」流れにはあったわけです。しかし帝国主義段階に入って、支配的資本が金融資本となり、社会の遊休資金を独占資本に吸い上げることがシステム化されました。小生産者も分解されないで、零落したままブルジョアジーに収奪され、維持されることになったわけです。つまり、農民は労働者となって産業に吸収されるのでなく、農村で貧困のまま放置されることになりました。このような中では、農業生産物は価値以下の価格、つまり農民の再生産を度外視した低価格を強制されました。他方では、農業は生産過剰が一般化し、世界的な農業不況が慢性化しました。このようなことで、農民自身の運動も大きくなってきます。
それに対して、労働者党はどういう政策を持つべきなのか、ということが問われたのです。自営農民が多かったフランスの労働党は、1894年に農民綱領を作成しました。その中で、農民の小ブル的な利害におもねる形で、具体的に「農民に対して土地を与える」「営農対策をする」とかを党の課題として明記し、発表したのです。
これをエンゲルスは、「フランス党の農民綱領は、本人らの意図とは別にマルクス主義の基本原則を逸脱している」と批判したのです。そしてエンゲルスは、農民の要求を取り上げ保護しようとするなら、特定の条件で搾取されている具体的事例にそって「率直に明文で言うべき」で、綱領に一般化すると誤りに陥ってしまうと指摘しました。さらに「土地所有農としての農民を、社会主義的な一般綱領の基本原則に違反することなしにどうしたら助けてやれるか」「できないことを綱領に書き入れるな」と厳しく批判したのです。そもそも前提として、エンゲルスは「労働者党は自分で働く小農を潜在的な味方」と前置きしつつも、「労働者党が農村プロレタリアや小農以外に、その懐に〔農民を〕抱きとる任務を持っているなどということは、きっぱり拒否」すべきであると立場を鮮明にしたのです。
土地所有問題は第2インターで継続的に論議となっていました。労働者党の議会活動や農民の組織化などを背景に、共産主義の私的所有廃止に対するブルジョア的批判への日和見主義が生まれていたのです。だからエンゲルスは、農民問題がマルクス主義を破壊する要因になるのではないかという危機感をもってフランス労働党を批判し、労働者党の農民政策の基本を述べたのです。
そして、ドイツではエンゲルスが憂慮したように修正派が形成され、彼らは「農民の分解などないではないか。マルクスは間違った」とマルクスを否定し、改良主義になりました。正統派(カウツキー)は、それを弾劾し、マルクス主義の旗をとりあえず守りました。しかし、正統派は、当時進行していた農民の困窮や闘いを革命の戦略的課題とすることをネグレクトしました。後に第2インターの崩壊につながる日和見主義が芽生えていたのです。
革命と新社会建設の担い手
そして次に、レーニンです。初期レーニンにとって、カウツキーは先生です。しかしロシアの状況に、彼は革命家として立ち向かうわけです。ロシアは遅れて資本主義化したため、人口の大多数は農民であり、しかも農民の反乱、暴動が激発しており、この農民の闘いと労働者は結び付かなければならなかったのです。レーニンは、この結合で苦闘するのです。
どういうところかというと、エンゲルスの言葉を取り上げ比較すると、荒っぽいのですが次のようになります。エンゲルスは「小農は潜在的な味方」「農村プロレタリアや小農以外は、きっぱり拒否」と原理的な対象規定をしています。ここをレーニンは突き抜けたのです。ロシアでは、人口の8割以上が農民であり、小農に限らず広範な農民をも味方につけるということです。だから、農民は味方として「潜在的」ではないし、労働者を使用しない自営農民、すなわちブルジョア的大農民以外は労働者党の工作対象となるのです。そこで農民の獲得を綱領・革命路線の中に打ち立て、地主の土地を没収し、農村ソビエトを提起するわけです。そこでは、レーニンも試行はします。革命運動の発展とともに党綱領の変更も行います。左右のぶれも含め、それをやり抜いたがゆえに、社会主義的な労農同盟を展望し、ロシア革命をプロレタリア革命として貫徹できました。
こういったレーニンの労農同盟論の地平から、農民の獲得をプロレタリア革命の不可欠の戦略課題として構築するというのが、われわれに求められています。それを実践しようとしているのが三里塚闘争だということです。革共同の綱領草案では、農民問題の重要な規定をしています。農民を革命の主体的担い手として位置付けています。農民に対してプロレタリア革命の共同の担い手、新社会を労働者とともに共同して作り上げる存在として飛躍をかちとっていこうという呼びかけであり、プロレタリアートがそれを担うことを明確にしました。反スターリン主義運動の大きな実践的な到達地平です。