大地と共に 三里塚現闘員が語る ④代執行と闘う大木よね
週刊『三里塚』02頁(0978号02面01)(2017/10/23)
大地と共に
三里塚現闘員が語る
④代執行と闘う大木よね
(写真 襲いかかる機動隊をにらみつける大木よねさん【71年9月 成田市】)
1971年9月16日から始まった第2次強制代執行阻止闘争は、全国の労農学人民による北総暴動的決起により国家暴力・機動隊の権力万能神話を粉々に打ち砕く偉大な闘いとなった。友納武人知事は代執行前には、「死者が出たら強制代執行は中止する」と言っていたが、東峰十字路での機動隊3人の死亡にもかかわらず強行した。同日、駒井野砦の鉄塔引き倒しによって火炎に包まれ、全身やけど・肺破裂の瀕死の重傷を負わされ危篤状態だった支援の学生は、闘病のすえ2か月後に死亡した。国家権力による憎悪むき出しの虐殺行為であった。
民家初の代執行
9月20日、成田市取香の大木よねさん宅に対する強制代執行が強行された。三里塚闘争においては民家に対する初めての強制代執行である。前日には数千名の労農学人民が翌日からの強制代執行阻止に向け、よねさん宅前の田んぼに結集して総決起集会を行った。真っ向からの激突に恐怖した千葉県は20日早朝、「今日の代執行は中止する」というだまし討ちのための記者会見を恥も外聞もなく演じて見せた。これによって部隊は基本的には引き揚げ、現地には200名余が残り芝山、三里塚の全域に分散して援農などに入った。
ところが昼過ぎになって突然、脱穀作業中のよねさん宅を急襲して民家に対する強制代執行が強行されたのである。居合わせたのは農作業中の農民など数人のみであった。完全なだまし討ちである。
収穫した稲束を黙々と脱穀中だったよねさんは、機動隊員らを怒りに満ちた眼差しでにらみ付けた。しかし機動隊員らは脱穀を続けるばあちゃんに対して情け容赦なく襲いかかり、暴行を加えて前歯数本を折る重傷を負わせた。よねさんは顔中血まみれの状態で機動隊の壁の外に強引に放り出された。まさに千葉県による「行政代執行」とは名ばかりの、国家暴力むき出しの殺人的破壊行為であった。家屋は再建できないようにバラバラに破壊された。
北原事務局長は、放り出されたよねばあちゃんを引き取って反対同盟で面倒を見ることにした。そして東峰部落の島村良助さんの協力で畑の一角を借りて急きょ居住のための家を反対同盟で建て、東峰部落の人たちと一緒に住むことになった。しかしよねばあちゃんは、代執行をきっかけに体調を崩しわずか2年余後に、反対同盟員や支援の仲間たちの介護を受けながら亡くなった。まだ67歳のあまりにも早すぎる死であった。国家によって殺されたのも同然だった。
しかし、短い期間ではあったが、よねばあちゃんにとって新たな東峰部落住民との数年間の生活は大変楽しいものだったようである。天気のいい日には近所のばあちゃんらと連れだって野草取りなどに出かけ、東峰や天神峰周辺を楽しそうにおしゃべりしながら歩き回って近くの団結小屋や天神峰現闘本部などにも立ち寄った。心から打ち解けて信頼できる闘う仲間を得て明るい笑顔を見せる日々も送った。
よねばあちゃんの闘争宣言にもあるように、「おらの身は反対同盟に預けてある」といって理不尽な国策、国家暴力にも絶対に屈することなく闘った芯の強い信念の人であった。生前、北原事務局長がよく言っていた「三里塚闘争は代償を求めず」と言う不屈の闘いを体を張って実践した。まさに、よねばあちゃんの闘魂として全国の人たちに大きな感動を与えた。
怒りの反撃続く
この民家へのだまし討ちという、あまりにも理不尽きわまりない強制代執行の暴挙に対して人民の反撃が直ちに開始された。再び駆けつけた戦闘部隊と現地に残っていた部隊とが合流し、機動隊と深夜まで激突を繰り返した。すさまじい人民の怒りの爆発に恐怖した機動隊員はこの日の深夜、木の根部落の公民館を焼打ちにして全焼させた。数日後には、千代田にあった東山薫さんらが住んでいた団結小屋が機動隊員によって白昼公然と焼き打ちされた。「現住建造物放火罪」そのものだ。しかし、誰ひとりとして機動隊員は逮捕されていない。逆に星野文昭さんらは「現住建造物放火罪」まででっちあげられ三里塚で6年の実刑判決を受けているのだ。絶対に許すことはできない。
村岡俊雄