大地と共に 三里塚現闘員が語る ②71年仮処分阻止闘争
大地と共に
三里塚現闘員が語る
②71年仮処分阻止闘争
46年前1971年の夏、三里塚は今年と同じように灼熱の日々が続いていた。その真夏の炎天下に、7月26日から30日にかけて5日間にわたって地下壕と農民放送塔に対する仮処分強制執行阻止闘争が戦われた。
71年2〜3月の第1次代執行と9月の第2次代執行という歴史的闘いの中間にあって、ともすれば忘れられがちであるが7月仮処分闘争もまた壮絶な命がけの死闘であった。
第1次代執行は3月25日、一坪用地6カ所の拠点のうちついに掘り崩せなかった2カ所の地下壕と農民放送塔を残して未完のまま終了した。農民放送塔には「日本農民の名において収用を拒む」の大看板と「国家死すべし」の意味をこめて黒枠に縁取られた「日の丸」が取り付けられていた。2月22日から33日間にわたって、空港公団・機動隊を弾劾し、味方を激励する司令塔だった。
同時に、駒井野6筆の一坪共有地は高低差20㍍の谷底の土手のへりにへばりついた非常に狭い場所であり、駒井野団結小屋など周囲の丘からは低い現場が見えないため、高さ24㍍の丸太のやぐらを組み周囲の敵の動きを察知する見張り台でもあった。
8時間の肉弾戦
「26日強制執行開始」の報をえた反対同盟は前日25日の夕刻6時、全力動員の指令を下した。機動隊が先行して砦を封鎖することが考えられるからだ。
8時過ぎ、家族ぐるみで結集した同盟はじめ400を超す同志たちがバリケードと地下壕に立てこもって、翌朝からの闘いにそなえた。
午前4時40分、まだ薄暗いなか執行官と公団職員が現れ戦端は開かれた。老人から少年行動隊まで家族ぐるみの必死の戦いと、全学連・反戦青年委の軍団のバリケード内戦闘部隊の闘いはブルドーザー、ユンボのバリ破壊に竹やりと火炎瓶そして肉弾戦へと、12時過ぎの陥落まで延々8時間にわたって戦われた。
農民放送塔の戦いはさらに続いた。大型クレーンでやぐらごと引き倒そうとする殺人的攻撃に、塔上の大島こと故森研一同志ら5人の仲間は果敢に戦いぬいた。午後2時50分、放送塔の大島のアジテーションは午前3時から丸半日で途絶えた。この砦の死闘戦に呼応して防衛線を張る機動隊の壁に外側からの戦いも果敢に続いた。火炎瓶が乱れ飛び、何度も激突が繰り返された。駒井野周辺十数カ所の工事飯場にも怒りの炎が燃え上がった。
他方、地下壕をめぐる戦いはまさに死を覚悟した壮絶な戦闘だった。2本の地下壕には北原鉱治事務局長や青年行動隊など17人の仲間が残って戦い続けた。素掘りの地下壕の上を何十㌧もの重機が動き回り、いつ壕がつぶれるかの恐怖のなかでの極限的闘いを断固貫いた。
ついに深夜11時半、公団は撤退した。翌27日も早朝から地下壕破壊が開始された。外の反対同盟と支援部隊も負けじと早朝から全力動員態勢をとった。前日に続いて何十回となく機動隊への突撃が続く。壕のなかの同志たちはすでに40数時間を経ていたが、深夜1時半に公団がこの日の工事をやめるまで勇敢に戦い抜いた。
公団の敗北宣言
翌28日午後3時、空港公団の緊急記者会見が行われた。「地下壕が思ったより長い。本日で工事を中止し、当分行わない」。完全な敗北宣言だった。そして翌29日には警備の機動隊も引き上げた。誰もが勝利を確信した。反対同盟も支援部隊もいったん現場を離れた。しかしそれは権力の仕掛けた卑劣な罠だった。
5日目の午前4時、駒井野団結小屋への家宅捜索と同時に地下壕への攻撃が再開された。それでも戦士たちはひるまず戦い抜いた。午後5時半、5人の勇士は竹棒と鉄パイプを持って最後の吶喊(とっかん)を果たした。5日間の地下壕戦は逮捕者290人、重軽傷者500人を出しながら、権力機動隊に大敗北を強制した。戦った誰もが不眠不休の戦いで権力を翻弄した勝利感を実感していた。
この5日間の闘いにも北総周辺の農民住民が連日駆けつけた。2月代執行以来続けられてきた周辺宣伝隊の宣伝カーと10万枚のビラが何度もまかれていた。
3月に最高1万2千人まで達した周辺住民の決起に怖れをなした国家権力は、駒井野に通じる道路を検問封鎖して立ち入りを妨害した。しかし、それをかいくぐって多くの周辺住民が現場近くに駆けつけて反対同盟とともに実力で闘った。そこには確かに「北総暴動」の原型があった。
反対同盟を軸とした拠点現場の戦い、機動隊の包囲網に対し外からこれと呼応する支援部隊の遊撃戦、そして広く周辺地域一帯への宣伝戦。これは次に続く第2次代執行決戦の前哨戦に他ならなかった。
太田研作