大地と共に 三里塚現闘員が語る 71年第1次強制代執行①
週刊『三里塚』02頁(0971号02面02)(2017/07/10)
大地と共に
三里塚現闘員が語る
71年第1次強制代執行①
(写真 第1次代執行と闘った農民放送塔【71年3月 駒井野】)
今号より三里塚現地闘争本部員のインタビューを連載します。日本階級闘争を半世紀にわたり牽引し、今なお不屈の闘魂を貫く三里塚闘争を、若い世代に継承し発展させる一助になればと思います。
11・14渋谷暴動闘争が闘われた1971年。三里塚闘争もまた決戦に次ぐ決戦の年でした。3度にわたる激闘が闘われました。今日まで民家・農地に対する強制執行ができない力関係を強制している2月第1次代執行決戦、7月農民放送塔・仮処分決戦、そして9月第2次代執行決戦の過程の一端について述べたいと思います。
2~3月にかけて行われた第1次代執行決戦(6か所の一坪共有地に対する強制執行)では、それぞれの地点に地下壕が掘られ、北原鉱治事務局長を先頭に反対同盟員が各部落ごとに立てこもりました。バリケードや立ち木には婦人行動隊が鎖で体をしばりつけ、立ち木の上にも反対同盟員が上りました。少年行動隊もバリケードに立てこもり、「説得」に来た校長らに「先生、一緒に砦に入って下さい」と迫りました。
こうした反対同盟農民を先頭にした闘いは、連日テレビで放映されました。全国から救援物資やカンパが届き、米俵3俵を担いで秋田の農民がやってきたこともありました。駒井野砦の近くには野戦病院が設置され、応援に来た人たちのテント村になりました。
私は、情宣隊として宣伝カーに分乗して、周辺地域の農村を回り決起を呼びかけていました。多くの周辺住民が呼びかけに応えて駆けつけ、数百万円ものカンパが寄せられました。また、若き日の伊藤信晴さんらはひたすら穴掘りに専念する部隊として、他の人は援農を主にやる部隊など、全学連は縦横無尽に現地を駆け巡っていました。こうして反対同盟と全国の支援、周辺住民が一体となり、機動隊と空港公団作業員を蹴散らす闘いとなったのです。ダンプの運転手が差し入れた石を投げつけ、数キロ先まで追いかけたりするなど、のちに「北総暴動」と言われた決起が生み出されました。この闘いの結果、2か所の地点が残り、のちの7月仮処分闘争の拠点となります。
4月以降増強された全学連行動隊は、長原公民館など現地に常駐するようになります。その中のリーダーの一人に星野文昭さんがいました。私たちに話をするときは常に正座であったことが印象に残っています。
また、その頃私は先輩と一緒に2トントラックの荷台に20人くらいの学生を乗せ、東峰から菱田にかけてまっすぐな砂利道(通称竹やり街道)をガタガタと運んでいました。80年代にはこの竹やり街道で全学連菱田決戦行動隊が6キロの駆け足デモを敢行していました。
私は遅れながらも、息を切らせて一緒にデモをしました。(続く)
太田研作