団結街道
週刊『三里塚』02頁(0971号01面07)(2017/07/10)
団結街道
市東家の屋号は長竿(ながそう)。市東孝雄さんのおじいさんである市太郎さんが丁稚に入った店のあった場所が茨城県の長竿村(現河内村)。そこで市太郎さんは番頭となった後に天神峰に移り店を開いたことに由来する▼この長竿村と千葉県の豊住村(現成田市)を通る国道408号線は長豊街道と言われ、現在は成田市からつくば市を経て宇都宮市へと続いている▼長豊街道の看板の下には諭吉通りと書かれている。この街道沿いにあった長沼という約70万坪のひょうたん型の沼をめぐる利権問題に福澤諭吉がからんでいるからだ▼長沼村は江戸時代から年貢を納め沼の漁猟採藻権の占有権が認められていた。しかし、1872年、周辺の15村は入会権を求め国有化を当時の印旛県に申請、県はこれを受理したため、長沼村は独占権を失う▼窮乏に陥った村民の代表であった小川武平は『学問のすすめ』に感銘を受け、諭吉のもとを訪れる。嘆願書の作成や、政府高官への働きかけの支援をうけ、28年にわたる争いの後に占有権を回復する。諭吉は謝礼を拒否し、500円を寄付するなどして小学校の建設にも協力した。長沼が干拓され田園となった現在も村人は感謝を忘れず毎年福澤家を訪問しているという▼諭吉は人民の独立自尊に敵対し、アジア侵略を強烈に主張したイデオローグであり、侵略国家のための国民教育であったことは銘記すべきだ。