太郎良決戦本部長に聞く 三里塚に来て世界観変わる 国家・資本と実力で闘おう

週刊『三里塚』02頁(0961号01面02)(2017/02/13)


太郎良決戦本部長に聞く
 三里塚に来て世界観変わる
 国家・資本と実力で闘おう


 反対同盟は、1月9日の旗開きをもって市東さん宅離れに決戦本部を立ち上げた。太郎良陽一決戦本部長に、自身の闘いの原点と三里塚闘争の魅力、勝利に向けた決意をうかがった。
     ◇
 ----太郎良さんの闘いの原点について。
 大学に入ってはじめて資本主義という言葉を知った。資本家と労働者がいて利害は対立していて闘うものだと。友人の父親がオイルショックで解雇されて自殺、母親が友人を殺そうとしていた話を聞いて、本当に資本が人を殺すんだなって実感した。解雇で合法的に人を殺す社会が資本主義だってね。それから社会のことを考えるようになった。自分がしたいこと、どう生きるべきかを考えていたんだけど、三里塚を教えてもらって行ってみようと思った。
 ----なぜ三里塚に来ようと思ったのですか。
 農民が空港を堂々と阻んでいる姿が衝撃だった。よく真正面から国に逆らうなんてできるなって。機動隊と向き合って老人行動隊、青年行動隊がいて鉄塔が立って空港を阻んでる。うわーっかっこいいなって。大学ではどう生きていくか見出せなかったけど、唯一見出すことができたのが三里塚の鉄塔の写真だった。こういう現実があるんだということを見せられたときに、じゃあお前はどうするんだと。だったらやろうじゃないかと自分の中でなったんだよね。来たら世界が変わったよね。
 ----どんなところに引き付けられましたか。
 反対同盟と一口に言っても平面的な人はいなくて、一人ひとりが生活の課題と闘いの中でもがきながらがんばっている姿に感銘を受けたんだよ。市東さん宅の離れの改修もやった小川徳太郎さんという大工さんが菱田にいたんだけど、みんなが成田用水攻撃で崩れていく中で、市東東市さんが徳さんの所に行って、「土地持ちはこけたけど、これからはおれら貧乏人の時代だ」と手を握って話しているのを目の前でまざまざと見せてもらったんだよね。徳さんはそんなに気の強い人ではないんだけど、用水賛成派のところに乗り込んでいって小突かれながらも反対を訴えていた。東市さんも石橋政次(元副委員長)が落ちたときは、結構しんどかっただろうけど毅然としていた。母屋を建て替えて、入院中だった連れ合いのときさんを現地支援と一緒に迎える決断をしたことは本当に感動した。実は東市さん、ときさんと一緒に笠間稲荷神社までドライブしたことがあるんだよね。きらっと光り輝くもの、精一杯生きている姿を一つひとつ見せてもらう中で、自分も変わってきた。三里塚闘争の中だからできた。団結があったからできたんだと思う。
 ----決戦本部長を引き受けたのはなぜですか。
 権力は金と一緒で交換可能だからバトンタッチがある。だけど闘いは、思想・団結の中で継承していかないといけない。反対同盟の人たちと一緒に触れ合ってきたことで闘いの魂・信念が自分の体に刻み込まれている。これを自分は背負うしかない。逃げるわけにはいかない。亡くなった人たちの闘い、無念にこたえる闘いを何としてもやりたいと思ったんだよね。闘う者同士の共同性をもっと強くしなくちゃいけないと思う。
 ----三里塚には〝未来を変える今〟があると訴えられていますね。
 国家・資本と非妥協・実力で闘う共同闘争をつくらなければいけないと思う。現場で実力で闘うことをやらないとダメ。その上で、韓国のような圧倒的に大衆的な実力闘争を実現したい。市東さんの闘いは、反対同盟の「空港絶対反対・農地死守・実力闘争」の原則を貫くものです。他方で、脱落し、悪罵を投げかけながら第3滑走路建設の旗振り役になっている人がいる。弱肉強食の資本主義の中で、どっちが人間的な生き方なのか、対資本主義という点でも絶好のチャンスだと思っている。1月の反対同盟旗開きのあと真っ先に動労千葉が決戦本部に来てくれた。やっぱり三里塚闘争は反対同盟と動労千葉が両輪です。続いてどんどん現地に来て欲しい。反対同盟が誇るべき闘い、生き方を貫く市東さんと団結しよう。
 ----青年・学生に向けてアピールを。
 とにかく三里塚に来てみよう。社会の中で感じる憤りを市東さん決戦を全力で闘うことを通してひらけるものが必ずあると思う。自分もそうだった。権力と闘いながら生活している人のすごみを感じることは今後の生き方にとって力になる。そして弾圧に絶対に負けないという学生の闘いに期待しています。また、一度来たことのある人にも、人生でもう一度元気になれるのは三里塚しかないと呼びかけたいですね。

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◎小川徳太郎さん

 芝山町菱田・東部落。大工。3・8分裂攻防の際「敷地内は敷地内でやればいい」と言い放った脱落派に対して「何のための反対同盟なんだ」と怒りをあらわに、成田用水闘争では絶対反対を貫き自分の庭を闘争の場として提供した。晩年は好きだった酒を断ち、酸素ボンベを引きずって闘争に参加。骨髄腫と闘いながら最後まで勝利への執念を燃やし続けた。

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