50周年記念企画 私と三里塚闘争⑤

週刊『三里塚』02頁(0945号01面02)(2016/06/13)


50周年記念企画 私と三里塚闘争⑤

すべてを変える震源地
動労水戸副委員長 辻川慎一さん

 1970年代後半から80年代にかけて、中曽根の「戦後政治の総決算」に象徴される新自由主義攻撃が吹き荒れました。労働組合の解体を水路に全人民の共同性を解体し資本増殖を自由に展開することで、戦後帝国主義世界体制の危機と限界を突破するための国家的死重をかけた攻撃です。
 この未曽有の攻撃に対して動労千葉は、三里塚農民との労農連帯を貫き「ジェット燃料貨車輸送阻止闘争」をクビをかけて闘いました。そして、動労本部カクマル派の「貨物輸送安定宣言」と「三里塚闘争と一線を画する」方針と激突し、分離独立を果たしたのです。80年代初頭から始まる「成田用水」をつかった「3・8分裂」攻撃は、国鉄分割・民営化攻撃と一体の空前の反対同盟破壊攻撃でした。動労千葉と反対同盟は、このすさまじい新自由主義攻撃を「労働者は鉄路を武器に、農民は農地を武器に闘う」という労農同盟で打ち破ってきました。
 国鉄決戦と三里塚決戦は正に一体であり、新自由主義攻撃を労農連帯で核心的に打ち破り日本労働者階級と革命的農民が打ち立ちました。そこに画期的歴史的地平があったのです。
動労水戸は、正にこの「ジェット燃料輸送阻止」闘争の最中に動労千葉に続いて、動労本部カクマル派との激烈な闘争を開始しました。そして約7年にわたる激闘を経て、86年11月「国鉄分割民営化絶対反対」を掲げて結成したのです。動労水戸もまた、「三里塚労農連帯」を路線的精神的支柱にして打ち立てられた。動労水戸を結成し、真新しいヘルメットの青年部隊として成田用水決戦の三里塚に登場した時の沸き立つ歓声を、今でも鮮明に記憶しています。「3・8分裂」で厳しい状況にあった反対同盟、特に故市東東市さんと北原事務局長が非常に喜んでくれました。以来お二人が元気だった頃は、動労水戸の旗開きに何度も足を運んでくれました。初代委員長の私をはじめ全員20代で出発したので、ただただ恐縮するばかりでした。
 しかし、寡黙で全く飾ることのない市東さんの姿の中に、誰にも何ものにも揺るがされることのない強固な信念に立った日本農民の人格と精神を間近に見た経験が、動労水戸の宝になったのだと思います。
動労水戸結成30周年を前に、「市東さんの農地を守る会・茨城」を結成しました。その集会で、念願がかない市東孝雄さんとお会いすることができました。DVDを見ながら、自分が耕作する畑や育てた作物を誇らしく紹介する姿。父東市さんの様に、飾ることがなく確固とした信念に裏打ちされた言葉。私はそこに、紛れもなく親の背中を見て育ち、自分自身を打ち立ててきた日本農民の代表的人格を見ました。私自身がこの機会を心から待ち望んでいたことを孝雄さんに伝え、東市さんの思い出話で盛り上がりました。兼業農家である小竹労組の野澤さんとも意気投合し、孝雄さんに「もう少し早く来れば良かった」と言って頂きました。
国鉄と三里塚破壊を水路にした新自由主義が、今や全面破産しています。世界市場の狭隘化が国際対立の激化をもたらし、戦争への動員と一体で労働法制改悪やTPPで労働者、農民、全人民と日帝安倍政権の非和解的対立が激化しています。動労千葉・水戸と反対同盟農民の労農連帯の勝利は、この新たな激動の時代の基軸なのです。現在猛然と進めている動労総連合全国建設と労働組合の拠点建設は、労農連帯を基軸として全人民の団結をつくり、ゼネストを実現する方針です。
 動労千葉も反対同盟も、小さいどころかすべてを変える震源地になっています。「動労千葉と反対同盟の労農連帯」を築いたわが師・中野洋の人格もまた、「飾ることのない強固な信念」であったことを思い起こします。

類まれな反戦の砦だ
1970年法政大学第一経済学部自治会委員長 中田賀統さん

(写真 星野文昭さんの奪還を誓う「星の木」の前で【市東孝雄さん宅畑】)

 私が、初めて三里塚の地に足を踏みしめたのは、1967年11月12日の第2次羽田闘争(佐藤首相の米訪問阻止闘争)で激しい闘いをした後、バス3台で現地入りした時でした。10・8第1次羽田闘争を契機に「暴力学生」キャンペーンは悪らつさを増していました。その「暴力学生」を迎えてくれた三里塚の温かさは今も忘れることができません。
 76年に『前進』編集局に入り、ほどなく三里塚担当となりました。天神峰の現地闘争本部にいると農民に穀潰し(ごくつぶし)呼ばわりされる。それで失礼な言い方ですが居場所を求めるように市東東市さん宅の援農に入りました。
 それ以来今に至るまで東市さん、孝雄さんと代をまたいで援農を続けています。
 反対同盟の戸村一作委員長が「この闘争は市東さんがいるから必ず勝ちますよ」と東市さんに語られている現場に私は遭遇することができました。
 忘れ得ぬ記憶としてあります。77年5月6日朝、開港の障害となっていた岩山大鉄塔が闇討ち的に倒され、岩山一帯は反撃の炎と黒煙につつまれていました。
くやしさに目をにじませている農民、婦人行動隊。市東さんもその一人でした。その市東さんに戸村委員長は、なにこれしきのことと静かに、あなたがいるからこの闘争は必ず勝ちますよと声をかけられたのでした。節を曲げることをよしとしない人柄を見抜いていたのでしょうか。
 志(こころざし)が負けなければわれわれは勝てるのだ、と言ったのでしょうか。
 三里塚闘争は50年、非妥協・不屈に勝利してきました。日本階級闘争史上、たぐいまれな反戦闘争の砦です。農民も自分たちこそ自己解放の主体であることを示してきました。「いっさいの話し合い拒否・農地死守・実力闘争」の絶対反対闘争を生みだしてきました。
 ここに普遍性があります。普遍性の核心は全人民的解放性と不屈性です。それは動労千葉を「産み」、労農同盟を登場させました。韓国の民主労総との連帯を生み出しました。三里塚闘争の勝利の中に労働者の解放、全人民の解放の道があります。安倍を打倒する闘いです。
 反対同盟のたたかいの背後には、66年に三里塚・芝山の4千人にもなろうかという空港建設絶対反対の反対闘争に決起した怒りが宿っているのです。TPPを断じて許さない全国農民の怒りがあるのです。
 安保戦争法案反対に決起したあらたな全人民的怒りがあります。戦争か革命かという時代に突入しました。この革命情勢の到来の中にこそ三里塚闘争の勝利はあります。市東孝雄さんの農地を絶対に守りぬき、勝利に向けひたすら闘いぬきましょう。

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