50周年記念企画 私と三里塚闘争② 三里塚に無限の可能性 動労千葉 田中康宏委員長

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週刊『三里塚』02頁(0942号01面03)(2016/04/25)


50周年記念企画 私と三里塚闘争②
 三里塚に無限の可能性
 動労千葉 田中康宏委員長



(写真 三里塚ジェット闘争をめぐって分離独立した動労千葉【1970年3月30日の結成大会】)


 空港開港に向け、ジェット燃料貨車輸送計画が急浮上したのは1976年でした。
 それは、動労千葉にとって、三里塚闘争が自らの問題になったことを意味するものでした。当時、動労千葉はまだ動力車労組の一地方本部でしたが、千葉の貨物部門は100%組織していたのです。一方、動労本部には、三里塚闘争に敵対する革マルが浸透しようとしている状況で、千葉地本青年部への組織破壊攻撃が開始されていました。73年、地青役員6名が組合員権停止の処分を受け、査問委員会が設置されるのです。地本執行部は「仕方がない」とそれを受け入れます。しかし、その問題をめぐる臨時地本大会では、圧倒的多数で処分撤回の決議が採択されます。年4回もの臨時大会が開催され、激論のすえに誕生したのが関川委員長、中野書記長の新体制でした。
 これに対し本部は、76年3月、「千葉地本再登録」を決定するために臨時全国大会を召集します。事ここに及んで、とるべき道は、動労大改革の「長征」にのり出す以外ないことは明らかでした。われわれは数百名の組合員を率いて臨大に臨み、「運動方針上の主張は譲るつもりはない。しかし青年部問題については組織的解決をはかる」と中野書記長が大演説をします。革マルは虚を突かれ、再登録=千葉地本解体策動は一旦頓挫します。
 しかし、まだ問題がありました。地方本部は闘争の指令権をもっていません。ジェット燃料貨車輸送阻止が本部方針にならなければ身動きがとれないのです。
 われわれは意を決し、76年12月に開かれた動労第94回中央委員会に特別決議を持ち込みます。否決されれば以降の闘いは本部方針に反したものになる。逆に決定されたら、闘いを破壊するために革マルが三里塚に乗り込んでくる口実に利用されるかもしれない。

労農連帯が基礎

 しかし、何があろうと動ぜず闘いぬこうと組合員に訴え、腹を決めたのです。
 薄氷を踏む思いで提出した決議でしたが、満場一致可決されました。三里塚闘争の大義、正義の前に革マルすら公然とは反対できなかったのです。
 こうして闘いが始まりました。数百本の列車を運休に追い込む強力順法闘争やストライキ、百日に及んだ第一次闘争に対し、当時の瀬戸山法務大臣は「労働組合を逸脱している。順法闘争に刑事罰を適用せよ」と叫びたて、大弾圧がしかけられます。しかしその闘いは、われわれ自身が驚くほどの圧倒的な支持と共感を呼び起こしました。 一方、たちまち動労本部の妨害と敵対が始まります。闘いの最中、本部の裏切りによって燃料輸送用の機関車や機関士がどんどん千葉に送り込まれてくる。そして、78年7月、津山での全国大会で、「三里塚闘争との絶縁」が打ち出され、同年12月、地本三役、地青三役が査問されるに至るのです。こうしてわれわれは分離・独立=動労千葉結成を決断しました。一地方本部が丸ごと労農連帯を貫くために組織を割る。それは日本の労働運動の歴史に前例のないことです。しかし、その困難に立ち向かった一糸乱れぬ団結を根底で支えてくれたのも、三里塚闘争でした。変質を深めゆく労働運動への危機感と三里塚闘争との連帯という大義が結びつき、動労千葉結成は、総評をも揺るがす大事件となり、事実、動力車労組を二分して、動労本部は執行部を構成することもできなくなるところまで分岐を広げたのです。
 それが、その後の国鉄分割・民営化攻撃との闘いの土台を形成したことは言うまでもありません。動労千葉は、三里塚闘争との連帯の中から生まれたのです。そのことに心から感謝します。戦争と改憲が現実化するこの時代、私たちは、50年の時を経て三里塚闘争が今も不屈・非妥協の闘い続けていることの巨大な意味、その無限の可能性をもっと広く伝え、組織していく任務を負っています。

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