栗山公園(旧市営グラウンド)で3・29集会 13万成田市民と合流しよう

週刊『三里塚』02頁(0911号01面02)(2015/01/12)


栗山公園(旧市営グラウンド)で3・29集会
 13万成田市民と合流しよう

(写真 3・29全国集会の会場に決まった旧成田市営グラウンド【現栗山公園】。後方に見える成田市役所のすぐ下)

 1月11日の団結旗開きで反対同盟は、3月29日に予定されている三里塚全国総決起集会を成田市役所下の栗山公園で開催することを発表した。同公園は、旧成田市営グラウンドだった所で、1968年の2・26〜3・10〜3・31闘争が闘われた激戦の地だ。反対同盟は47年ぶりに成田市の中心部に打って出て、13万人の成田市民と合流する方針を打ち立てた。
 68年の2〜3月闘争は、三里塚闘争のエポックをなす闘いだった。前年の10月10日、政府・空港公団が機動隊の暴力を使って空港敷地の外郭測量―クイ打ちを強行した。1966年7月4日の閣議決定からわずか1年余、空港敷地予定地内だけで250戸、芝山町を中心にした敷地外騒音下の農家を入れれば1000戸に近い農民が反対同盟に結集し、「空港絶対反対」を叫んで、空港計画を拒んでいた時だった。「農民の同意を得る手続きを長引かせたため、反対運動が激しくなり、計画がとん挫した」という富里・八街空港計画(三里塚地区の隣で計画されていた成田空港計画の前身)の〝教訓〟で、「農民に有無を言わせず一気呵成に空港計画を強行する」という方針の下、工事着工に踏み込んできた攻撃だった。
 徒手空拳の農民たちは座り込んだが、機動隊によって次々排除され、悔し涙を流したのだった。ここから同年10・8羽田闘争を爆発させた全学連、反戦青年委員会との共同闘争が実現されていった。同年11月3日、三里塚第2公園で、反対同盟、全学連、反戦青年委員会の3者共催で、初めて集会が開催された。
 そして68年2~3月闘争へと引き継がれていった。2・26闘争では成田市役所敷地内にあった空港公団分室めがけて、全学連が突撃し、千葉県警機動隊をさんざんに打ちのめした。同様の闘いが3・10、3・31と闘われ、「空港計画に対しては体を張って対決する」という実力闘争の闘争原則が確立されていった。その原点が旧市営グラウンド=現栗山公園だ。この2、3月闘争は「激動の7カ月」と名づけられた闘いの一環となった。すなわち67年10、11月の2つの羽田闘争、68年1月の佐世保闘争および同年4月の王子野戦病院闘争と一体で70安保闘争を準備する闘いとなった。
 1月10日に毎日新聞が千葉版で、この3・29会場について報道した。全力で3・4〜3・29へ。
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