逝去から1周年 故萩原進事務局次長を偲ぶ 弁護団事務局長 葉山岳夫さん 闘い半ばで倒れた萩原さん鬼神となり見守ってほしい
逝去から1周年 故萩原進事務局次長を偲ぶ
弁護団事務局長 葉山岳夫さん
闘い半ばで倒れた萩原さん鬼神となり見守ってほしい
故萩原進事務局次長を偲ぶ言葉を反対同盟顧問弁護団事務局長・葉山岳夫さんから頂きました。 *
2013年12月21日反対同盟事務局次長萩原進さんが心臓疾患で急逝されました。同夜急報に接し衝撃を受けました。これは、安倍政権、空港会社との正義に燃える激闘の中での戦死に他なりません。
この死をもたらした安倍政権、空港会社に対しては、復讐戦を貫徹して農地収奪を阻止して、三里塚空港粉砕、廃港を勝ちとらなければならないと思います。萩原さんは、三里塚空港絶対反対、農地死守、一切の話合い拒否、労農学市民の連帯した実力闘争という反対同盟の基本路線を人格的に体現した農民であると同時に革命家でした。これまでの厳しい闘いを通じて一貫して北原鉱治事務局長を補佐、代行して反対闘争を企画、組織、実行、指導して来ました。空港反対闘争を双肩に担っての国家権力、空港会社、裁判所などとの闘いは、大変な重圧だったと思います。
空港会社、自民党政権は、市東さんの完全無農薬有機農業の農地のうち73%を千葉県収用委員会を利用して収奪しようとした企てができなくなった状況の中で、あえて強制的に収奪しようとして収用委員会の代用機関として裁判所を利用して農地法を悪用、濫用して違法極まる公用収用攻撃を仕掛けてきました。これに対して、萩原さんは、全身全霊をもって対決しました。萩原さんはこの攻撃について、市東さんに対する農地収奪攻撃であるのみならず、反対同盟農民、日本農民に対する攻撃であり、日本帝国主義の農民殺し政策の一環であることを看破して裁判闘争を現地実力闘争の一環として位置付けて全国的大衆運動に発展させました。
裁判闘争を現地闘争の一環と位置づけて提起した具体的スローガンが三里塚現地から「霞が関に攻め上れ」でした。
萩原さんが三里塚闘争とりわけ市東さんの農地強奪阻止闘争と関連して言いたいことは、2012年11月12日と2013年2月4日の千葉地裁での証言を記録した調書および「農地収奪を阻む」に明らかですが私の記憶の中での萩原さんについて断片的に記してみます。
萩原進さんは、すでに1968年に「三里塚闘争が革命の問題に行き着くことは明らかだ」と語っていました。同年6月の現地全国集会で青行隊長として登壇し、約100名の青行隊員とともにカマや竹ヤリを振りかざして「われわれは本日武装した。空港粉砕まで闘い抜く」と決意を表明しました。1969年8月の御料牧場閉場式反対闘争では、会場に突入、閉場式を粉砕、異例の全国指名手配をされ、3カ月後に逮捕されるや完全黙秘を貫きました。別件で起訴された戸村一作反対同盟委員長らとともに三里塚闘争第1次統一公判を被告として闘いました。 1971年9月20日の大木よねさん宅に対するだまし討ち行政代執行に対しては地下壕にこもって闘いました。83年のいわゆる3・8分裂(脱落派の脱退)に際しては北原事務局長とともに断固として反対同盟の基本路線をまもりぬき、以後事務局次長として反対同盟の中軸として闘い抜きました。01年の空港公団、機動隊による東峰神社立木の盗伐事件に際しては、トラクターを運転して抗議、阻止闘争に駆けつけて逮捕、完全黙秘で釈放をかちとりました。
安らかに眠って頂きたい思いは、やまやまです。しかし、闘いはまだ半ばです。鬼神となってわれわれの闘いを見守り、導いて下さることを祈ります。
萩原進さんの闘魂を自らのものとして、市東さんの農地強奪攻撃を粉砕して、第3滑走路粉砕、成田空港廃港を闘い取ることを霊前に誓います。
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故萩原事務局次長の経歴
・1944年8月1日、千葉県印旛郡遠山村(現成田市)堀之内に誕生。
・65年、シルクコンビナート事業に参加。
・66年7月、成田空港計画が決まる。シルクコンビナート事業は中止。反対同盟結成に参加、青年行動隊長に。
・69年8月、御料牧場閉場式阻止闘争で指名手配、11月に逮捕。
・71年9月、第2次代執行阻止闘争で大木よねさん宅への執行に対して地下壕戦を闘う。
・77年、動労千葉のジェット燃料闘争に連帯、開港阻止決戦を闘う。
・83年3・8分裂後に事務局次長に就任。
・84年9月、成田用水阻止闘争で逮捕。
・91年からの成田シンポジウムに対し隅谷調査団批判の先頭に立つ。
・01年6月、東峰神社立ち木伐採に抗議し逮捕。
・06年からの市東さんへの農地取り上げ攻撃に対する闘いの先頭に立つ。
・09年、韓国を訪問。
・13年12月、急逝。