逝去から1周年 故萩原進事務局次長を偲ぶ 萩原富夫さんが語る進さん

週刊『三里塚』02頁(0908号02面03)(2014/11/24)


逝去から1周年
 故萩原進事務局次長を偲ぶ
 萩原富夫さんが語る進さん


「48年信念貫いた革命家」

 12月21日が故萩原進事務局次長の命日です。2回に分けて、進さんを偲ぶ言葉を頂きます。今週は娘婿の萩原富夫さんに伺いました。
    *
 ――事務局次長が亡くなってまもなく1年になりますが。
 萩原 あっという間の1年だよね。なんせ突然だったし、悲しんでいる余裕がなかったという感じかな。ショックで気持ちを整理するのが大変だった。だけどやっと客観的におやじのことを振り返る余裕ができてきた、というところかな。
 ――進さんとの会話、交流、思い出などいろいろあると思うんですが。 萩原 会話はあまりないんだよね。おやじはどちらかというと内向的で、引っ込み思案な人だから。農民には多いけど、口数は少なくて、「見て覚えろ」「やっていることを見れば説明する必要はないだろう」という感じ。だから同じ家に住んでいながら闘争方針なんか説明してくれない。こちらから聞かないと話さないというスタイル。一方でものすごくがんこ。
 ――結婚したのは何年ですか。
 萩原 2003年だったね。今から思うと、02年に暫定滑走路が開業して、同盟としても大変な時だった。何せ頭の上40㍍にジェット機を飛ばして追い出そうという攻撃だからね。あの数年後から、農業は俺に任せて、積極的に外に出て行くという活動を始めた。
 ――進さんは富夫さんから見てどういう人、存在でしたか。
 萩原 革命家だよ。とても純粋な人、すぐ激高するし、すぐ泣くし。ある意味で〝子供っぽい〟ところもある。内側の人間から見るといろいろ欠点もある。だけど、何と言っても48年間信念を貫き通した。すごい人だったと思う。
 亡くなる数年間の頑張りは脇で見ていもすごかった。何せ、肩にかかる重圧は半端じゃない。いろんな人が訪ねて来るし、電話は来るし、手紙やFAXも来る。休む間もなかったと思う。
 それに三里塚は三里塚にとどまらない。沖縄・福島・三里塚という言い方をするけど、住民運動全体の司令塔みたいな位置にもあった。
 他方で、高齢化なども含めて同盟員数が減る。そこから今も続いている周辺一斉行動などの方針もうち出してきた。聞いたところでは、同盟員が直接戸別訪問して署名などを訴える活動というのは、48年の歴史の中でも初めてだとか。
 ――亡くなる直前は皆で体調のことを心配していたんですが。
 萩原 そこは俺も悔いが残るところ。本当に骨身を削ってやっていた。数年前から腎臓の片方が壊れていた。また、同じ頃軽い脳梗塞の発作で倒れ、救急車で運ばれたこともあった。10月の全国集会も一回欠席したことがあった。
 本人は疲れやすく、つらそうな姿の時も多かった。でも「今日はテント裁判、今日は東京電力株主代表訴訟だ」とか「労働者集会だ、韓国訪問だ」と体にムチうって出かけて行った。成田農協の総代会で執行部批判をする農民が酒々井町にいるから、というんで市東さんの署名を頼みに訪問したこともあった。
 ――進さんのそういう執念の原点は。
 萩原 そりゃ、人生の夢をかけたシルクコンビナート事業を空港につぶされたという怒りだと思うよ。つい先日、周辺一斉行動の支援の人にすすめられたと、『農地収奪を阻む』を読んだという住民が訪ねてきた。「とても感動した」「著者の進さんは亡くなってしまったので代わりに家族の方のサインが欲しい」というんだよ。俺の署名で代わりになるのかな、とも思ったけど、サインした。あの本の冒頭の部分は、シルクコンビナートの経緯だけど、確かにおやじの怒りが率直に表されている。原点だよね。
 ――そういうストレスの中での進さんでしたが、3人のお孫さんと遊ぶことが何よりの〝癒し〟だったとか。
 萩原 〝じいさん〟の穏やかな顔になってね。今、小学校2年の俺の長男が保育園の時に、足が速いというのでストップウォッチを買ってきて、マラソン大会の前になると自分は自転車に乗って特訓だよ。長女、次女も「目に入れても痛くない」という言葉があるけど、まさにそれ。
 ――最後に捧げる言葉をお願いします。
 萩原 まだまだ力不足だけど、〝じい〟の遺志をしっかり受け継ぎ貫いて、この闘いに必ず勝ちたい。これしかないね。 ――ありがとうございました。

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