耕作権はいかに闘いとられたか④ 戦前・戦後の農民闘争の成果 労農連帯の闘い 戦後相次いだ共同闘争 偉大な三里塚・動労千葉の団結

週刊『三里塚』02頁(0900号02面06)(2014/07/28)


耕作権はいかに闘いとられたか④
 戦前・戦後の農民闘争の成果
 労農連帯の闘い
 戦後相次いだ共同闘争
 偉大な三里塚・動労千葉の団結

(写真 電産の停電スト【1946年10月19日】)


 第二次大戦と日帝の敗北は、アジア全体を革命的な激動へ突入させた。日本労働者階級は、敗戦後、労働組合を一挙的に拡大させ、さらに工場占拠・生産管理闘争に決起し、食糧の人民管理まで組織していった。日本階級闘争は、47年初めに、600万人の一大ゼネスト(2・1スト)を組織するところまで上り詰めた。
 日本共産党の裏切りでゼネストは中止され、戦後革命は最後的に敗北するが、戦後革命における労働者の闘いは日帝支配階級に大きな打撃を与えた。その一つが労農連帯の闘いであり、農民も労働者の闘いに結合し土地防衛と米の強制供出阻止を実力で闘い、これを土台に農地解放をかちとった。
 戦後革命期における労農連帯の例として、当時の労働組合のナショナルセンターであった産別会議の取り組みと代表的な闘争を紹介しよう。
(1)産別会議
 全日本産業別労働組合会議(産別会議)の結成(47年8月21日)綱領において、「われわれは働らく農民との同盟結成のために闘ふ」と労農同盟の結成をかかげた。また「─―日本の農民は貧困の中で苦しんでゐる。......われわれは農民とともに、封建制を一掃するために努力しなければならない。民主主義革命の中心勢力である組織労働者われわれは、彼ら農民と固く同盟し、同盟軍の先頭にたって闘ひ」(創立宣言)とした。
 「耕作権の確立」は47年の復活第2回メーデーの大会スローガンとなり、労働組合運動の課題としても農民との連帯、その方針として「耕作権」が位置づけられた。
(2)戦後農民闘争における労農連携の闘い
 戦後革命期における農村民主化闘争、強制供出反対・自主供出及び飯米獲得闘争、税金闘争、これらの諸闘争は労農連携で闘われるとともに、隠し田(地主の隠れ小作地)摘発、土地管理組合(農地解放地の自主管理)などの農民組織と結合し自然発生的な地域ソビエトの萌芽も生まれた。
1 主要な税金闘争
●茨城県 48年3月の所得税更正通知は申告者の70%約4万戸に対し発せられたが、日農(常東組合)は大衆動員、生産費計算と税額決定等あらゆる手段で税務当局と交渉し、税務署職員と共同闘争態勢を作り闘った。白鳥村では200戸分の減額に成功し、麻生では5千人の農民が税金闘争に加わり、総額2500万円の減額要求を通した。
●群馬県 50年3月9日、群馬県南部の農民4千人が高崎税務署に決定のやり直しを要求して押しかける。300人の警官隊に対抗して開かれた大会には、電産・金属の労働者が応援に駆けつけ、39時間の停電ストを決議し、税務署への送電を止めた。税務署は査定のやり直しを確約した。
 2 供出米闘争
●青森県水元村 水元村では農民大会を開いて再割り当てを闘い、国鉄弘前機関区の援助によって一筆調査を行い、村長・助役らの隠し田18町歩を摘発。
●福島県相馬郡福浦村 供出米の不当割当の返上に地方事務所職員も参加して、隠し田摘発の運動にまで発展し、村民の「自主割当」を決定した。またここでは「干拓地の国営人民管理」が要求された。
3 全日本農業団体従業員組合
 戦時体制を担っていた農業会民主化の闘争は、戦後農民運動の一環として各地で活発に闘われた。農業会の職員会は、47年4月、全日本農業団体従業員組合(略称オール日本、30都道府県3万人)となった。職員会当時の民主化闘争では、「戦犯は役員に選任しない」と要求し実現させた。会の運営も職員が参加する運営審議会で決定、職員の合議制によって業務が執行された。
 47年農業会をめぐる主なる闘争は、「全国農業会本部隅田倉庫摘発闘争」―国鉄、全逓の労働者300人が参加。「栃木県農業会不正摘発闘争」、「全国農業会関西支部不正摘発闘争」―国鉄労組を主力とする大阪労農市民協議会が不正摘発・倉庫の調査等で、いずれも全農従業員組合と日農との共同によるもので、栃木県の場合は全逓労組が参加している。
Ⅵ 戦後革命の敗北と農地改革
 紹介した戦後革命での労農連携の闘いでも分かるように戦後農民闘争は、労働運動とともにつくり上げられてきた。
 敗戦は、日帝の政治・経済・社会のすべてにおける支配の崩壊と階級闘争の激化を作り出した。戦後労働運動の一挙的発展(生産管理闘争から2・1ストへ、さらに占領軍指令を突破しスト貫徹した48・49年の労働者階級の闘い)は、真の前衛党があれば、プロレタリア革命への突入―権力奪取への一斉蜂起情勢を開くことができた。
 しかし、日共スターリン主義は二段階革命戦略によるプロレタリア革命の放棄で戦後革命を敗北させた。戦後農民闘争は、土地闘争をテコに全農民の決起の情勢を作り出していたが、日共はこの農村支配の破綻を革命に組織できなかった。その根源は、日共のスターリン主義としてのプロレタリア自己解放思想の徹底的な破壊にある。
 スターリン主義の反労働者性により農民の根本的な解放=労農同盟による労働者と共同の歴史的事業による階級そのものの廃止、都市と農村の対立などの止揚の展望があらかじめ封殺された。さらに日共の51年綱領による民族解放民主革命は、農村に反封建制闘争を強制し、最後的に社民による農民の戦闘的エネルギーの体制内への取り込みを許すことになった。
 三里塚と動労千葉の労農連帯は、戦後革命が果たせなかった労農同盟の実現であり、戦後革命で労働者農民の力がブルジョアジーに強制した農地解放闘争の地平を発展させて、スターリン主義反革命打倒・プロレタリア解放の道を実践的に指し示している。
 この労農同盟の砦=三里塚の勝利をかけて、労働者が自らの闘いの課題として市東さんの農地闘争を押し上げ、階級的労働運動の発展を勝ちとろう。
(終わり)

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