最終処分場白紙撤回させた37年の闘い 独・ゴアレーベンの激闘に学ぶ

週刊『三里塚』02頁(0893号02面05)(2014/04/14)


最終処分場白紙撤回させた37年の闘い
 独・ゴアレーベンの激闘に学ぶ


 3月、三里塚現地を訪れたケアスティン・ルーデックさんが闘ってきたドイツ・ゴアレーベンの37年にわたる反原発闘争を紹介する。
 ゴアレーベンはドイツの北部、ニーダーザクセン州リュヒョー・ダネンベルク郡にある小さな村だ。地元住民約2千人を組織するゴアレーベン核廃棄物貯蔵施設反対同盟は同村で1977年以来闘い続けている。同盟は周囲の農民団体、ドイツ全土の反核・反原発団体などと広範な共闘関係をつくりながら、核廃棄物搬入をめぐる闘いだけでなく、ドイツの原子力政策を変える闘いの中軸を担っている。
 1977年、連邦政府がゴアレーベンに使用済み核燃料の再処理工場や最終処分施設など「総合的核燃料リサイクルセンター」を建設することを決定した。地元の農民はただちに反対運動に立ち上がった。翌78年には、農民がボーリング調査を実力で阻んだ。
 地元農民の闘いは、ドイツ全土の労働者人民の心をとらえた。79年3月には、州都ハノーバーに農民たちがトラクターデモで登場、それに応えて10万人の大デモが行われた。ドイツにおける戦後最大のデモだった。この闘いによって、ニーダーザクセン州首相は連邦政府に計画の中止を申し入れ、連邦政府は再処理工場建設を断念すると発表。中間貯蔵施設の建設と「最終処分施設のための探査活動」に縮小せざるを得なくなった。
 中間貯蔵施設建設をめぐる攻防は続いた。80年5月にはボーリング調査場に数十の団結小屋による「テント村」をつくり、数千人の活動家が集まった。5月3日にはこの地方の伝統的地名を名のって「ヴェントラント自由共和国」を宣言し、太陽をシンボルとした緑色の「国旗」を掲げ、「国境」の遮断機を設置し、独自のパスポートまで発行した。
 反対運動の広がりに恐怖した警察は6月5日、テント村に暴力的に襲いかかって参加者をごぼう抜きして排除、高さ30㍍近い塔も破壊した。
 しかし、弾圧でも闘いはけっして終わらなかった。84年には、中間貯蔵施設に核廃棄物が搬入される日(「Xデー」)に備えて、約5千人が座り込んで実力阻止行動の実地訓練を実施した。「X」の字に組み合わせた木をいたるところに設置、プラカードを張り付けたこの行動は、多くの芸術家との共闘もつくり出し、警察による大弾圧との激闘となった。
 86年、中間貯蔵施設に核廃棄物の搬入がついに開始された。この時も投石を含めた直接行動や、鉄路の枕木などを取り外してしまうなど創意あふれる闘いを展開した。最終処分施設については「探査活動」という名目で、建設が続けられてきた。「探査活動」は大幅な遅延を余儀なくされていた。
 しかしドイツ政府は2013年3月24日、高レベル放射性廃棄物の最終処分場について、唯一の候補地だったゴアレーベンを白紙に戻して、2015年まで再検討する考えを示した。
 「フクシマを経験した私たちの手で、今度こそ原子力時代を終わらせよう」――日独の労働者人民、ゴアレーベンと福島・三里塚の連帯で原発と核施設を廃絶しよう!

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ゴアレーベンの闘いの歴史
1977年2月 ゴアレーベンへ核燃料サイ  クルセンター建設計画発表
 3月 ゴアレーベンで初のデモに全国  から結集
1979年3月  1週間のゴアレーベン闘  争、州都ハノーバーに10万人
1986年 中間貯蔵施設への核廃棄物搬入  開始
1995年4月  中間貯蔵施設へ、高レベ  ル廃棄物の初の搬入。デモ隊が警官  隊と激突。
2009年9月 ベルリンで反原発の5万人  の大デモ
2011年3月 連邦政府が、停止中の原発  8基の廃炉と、残る9基の2022年ま  での廃炉を発表
11月 核廃棄物輸送阻止闘争に2万5千  人が参加、過去最長の126時間の激  闘
2013年3月 最終処分場計画白紙撤回

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