通夜・告別式に700人 “三里塚闘争の勝利誓う”
週刊『三里塚』02頁(0887号02面01)(2014/01/13)
通夜・告別式に700人
“三里塚闘争の勝利誓う”
(写真 大勢の人びとが参列して行われた萩原進さんの告別式【12月28日 成田市】)
萩原進事務局次長の通夜が12月27日、告別式が28日、八富(やつとみ)成田斎場で行われ、会場をあふれる延べ700人の労農学市民が参列し、別れを惜しんだ。
会場のロビーでは、「われわれは鎌を持って武装した」と萩原さんが宣言する場面の入ったドキュメンタリー映画「三里塚の夏」が流され、逝去直前の発言をまとめたビデオも映された。萩原さんの生前を振り返る4枚の写真パネルが飾られた。参列した人びとは、「未だに信じられない」という表情で、生前の萩原さんを偲んでいた。
告別式は午前10時30分に始まった。菩提寺の僧侶の読経が行われる中、多数の参列者の焼香が続いた。その後、市東孝雄さんが弔辞を読み上げた。市東さんは悲しみをこらえて、「進さんの遺志を受け継ぎ、農地を守ります。天上からご家族をやさしく見守ってください」と別れの言葉を捧げた。会場から嗚咽(おえつ)がもれた。
さらに動労千葉・田中康宏委員長、全日建運輸連帯労組関西地区生コン支部・武建一委員長、反戦被爆者の会、全国被爆者青年同盟、韓国民主労総ソウル本部などからの弔電が紹介された。
最後に「お礼の言葉」として喪主の萩原富夫さんが、進さんの思い出と決意を語った。「父は繊細な人でした。家族一同がんばって行きます」と感謝を込めて語った。
出棺時、斎場の庭で最後の別れを待っていた参列者全員で「反対同盟の歌」を斉唱して柩(ひつぎ)を見送ると「進さんにぴったりの歌だね」との感想が語られた。
前日の通夜では多数の人びとを前に北原鉱治事務局長が「お別れのあいさつ」を述べた。「残された者で力を振り絞って、勝利をかちとるために闘います。どうか安らかに眠ってください」との言葉を贈った。
お別れのあいさつ 事務局長 北原鉱治さん
萩原進君、あまりにも突然の訃報を聞いたとき、とても信じられませんでした。まさか私より先にあなたが逝くなどということは、考えもしませんでした。かえすがえすも残念でなりません。あなたは、反対同盟結成以来、青年行動隊長として闘いの先頭に立ち、その後も事務局次長として47年にわたる今日まで、一貫して空港絶対反対の闘いを貫いてきました。
あなたは、本当に闘い一筋の生涯を全うしました。それは、誰もが認めることであり、誇れる人生だったと思います。
思えばあなたは、高校卒業後、農民として生きることを決断し、政府のシルクコンビナート計画を信じて、農地を養蚕業のため桑畑に変えました。ところが、成田空港建設計画によって、突然計画は中止され、あなたが農民として生きようとした道は国策によって阻まれました。このことが、空港絶対反対闘争に決起したあなたの原点になったと聞いています。
それ以来あなたは、国家権力によるたび重なる逮捕にも屈せず、たえず反対同盟を牽引して先頭で闘ってきました。あなたの強靭な意志と闘いは全国の農民や労働者の魂をとらえ、三里塚闘争の全国的発展を切り開いてきました。
そして47年たった今、市東さんに対する理不尽な農地取り上げに対して、これを打ち破るためにあなたは誰よりも必死になって三里塚闘争の拡大・発展を考えてきました。
農地裁判の控訴審にむけ「霞が関に攻めのぼろう」という訴えも、勝利に向けたあなたの執念から提起されたものだと思います。私たちは、反原発や反TPP、沖縄など国策と対決して闘っている、全国の人民と一体となって霞が関を埋めて闘いぬきます。志なかばにしてたおれたあなたの遺志を必ずや実現したいと思います。
残された家族の皆さんの心情を思うと、言葉がありません。萩原家は親子三代家族ぐるみの闘いでした。妻の静江さんのご苦労に心から感謝の意を表したいと思います。 萩原進さん、重大な決戦情勢の中、三里塚闘争の柱として闘ってきたあなたがいないことは大変なことです。
しかし、残された者で力を振り絞って、なんとしても勝利をかちとるため闘いぬきます。どうか、安らかに眠ってください。
2013年12月27日
弔辞 敷地内・天神峰 市東孝雄さん
萩原進さん、あまりに突然のことで、私は今もあなたが亡くなったことが信じられません。あの日、おだやかな表情で産直の忘年会を楽しんでいたあなたは、帰りの車の中で急に具合が悪くなって、懸命の手当てもむなしくあっというまに旅立たれてしまいました。まるで夢の中のでき事のようで実感がわきません。 闘争と農業で無理を重ねてきたことが命を縮めたのかと思うと、まわりで支えて、もっと進さんを楽にさせてやれなかったかと、ほんとうに悔やまれてなりません。年末最後の出荷に追われて、進さんを今日まで待たせてしまいました。 でも進さん、あなたとお別れするために、可愛い孫たちや親族のみなさん、東峰部落の人々、そして全国各地から多くの仲間が、悲しみをこらえて集まっています。私もつらい気持ちをこらえて、弔辞を述べさせていただきます。
私は進さんからほんとうに多くのことを教えられました。
いずれ家を継ぐことを決意していましたが、農業を続けることを決断できたのは、強制収用では土地を取れなくなったことと、「一緒にやろう」「一から教えるから」と言って農業をすすめる進さんの後押しがあったからでした。
自然相手の農業は経験を重ねないと、一人前にはなれません。産直の共同生産者としての私の“今”があるのは、有機農業を続けてきた進さんの経験と指導のおかげです。私は毎日自分の畑で有機野菜を作ることに無上の喜びを感じています。
しかし、その私に対して、空港会社は、「農地法で農地を取り上げる」という暴挙に出てきました。この時にも、進さんは私と共に農業委員会に出向き、「小作人の知らないうちに解除申請が出たことが、これまでにあったのか」と激しく問いつめ、「前例がない」ことを認めさせました。
「市東さん、こんな理不尽なことは通用しないぞ。小作人に黙って農地を売れば、地主は村八分だ。農民の権利に直(じか)に係わるこの問題は、すべての農家の問題だ」と熱をこめて話してくれました。それから私は進さんと一緒に産直を広げ、空港会社による農地取り上げと、けんめいに闘い続けてきました。
新聞の訃報に「空港絶対反対を最後まで貫いた」と紹介されていましたが、それは進さんの生き方そのものです。
東峰は戦後入植の開拓部落です。朝星、夕星を見ながら月明かりを頼りに、地をはうようにして作った畑が、国の一方的な決定でコンクリートに埋められる、カネと暴力で村を割り、仲間を引き裂き、大騒音と衝突の恐怖で追い出そうとするやり方には、ほんとうに怒りを抑えることができません。進さんはシルクコンビナートの夢を砕かれ、反対闘争に身を投じて以後、さまざまな困難を乗り越えて、信念を貫きとおしたのです。
3・11からのこの数年間、進さんは「福島・沖縄・三里塚をひとつにして闘う」とさまざまな場面で訴えてきました。そして「三里塚は過去の歴史を乗り越えて、勝利するためにあらゆる人々と連帯するのだ」と話していました。「霞が関に攻めのぼる」というのはその強い想いからでした。進さんの遺言だと私は思っています。
私は富夫さんと静江さん、ご家族のみなさん、そして産直消費者のみなさんとともに地道にこの地で農業を続けます。そして農地を守ります。
誠実に農業に生きようとする者の尊厳を踏みにじり、力で押しつぶしてきたのが成田空港の歴史です。だから、47年前にあれほどの闘いが起こり、今も負けることなく闘いつがれているのです。
ご参列いただいた動労千葉を始めとする労働者のみなさん、関西実行委など全国の住民運動、反基地闘争、そして学生のみなさん、私の農地を守る運動に力を注いでくれる市民のみなさん。私は「空港絶対反対」の進さんの遺志を受け継ぎ、身体を張って農地を守ります。
進さん、来月には5人めの孫が生まれることを嬉しそうに語っていましたね。進さんは本当に家族の皆さんを愛していたのです。先立たれることはどれほど心残りだったことでしょう。どうか天上からご家族をやさしく見守ってください。
そしてこれからの私たちの闘いをしっかりと叱咤激励してください。あなたの遺志が必ず報われる時が来ることを信じ、そのために頑張ることを心に誓ってお別れの言葉とします。
2013年12月28日
弔電 民主労総ソウル地域本部
謹んで故人の冥福をお祈りします。日本政府との闘いを長い間続けてこられた同志が亡くなられてとても心が痛みます。
韓国では鉄道労働者のストライキを支持連帯するために連日ストライキ闘争を続けており、民主労総組合員と社会団体、政党、市民が加勢して鉄道闘争を持続的に掩護(えんご)しています。
三里塚の同志たちの闘争を支持し同志の志を引き継ぎ、韓国でも政権と資本に屈せず闘います。
2013年12月28日