■マルクス主義・学習講座 戦争と労働者階級 ――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(4) 畑田 治

月刊『国際労働運動』48頁(0465号04面01)(2015/06/01)


■マルクス主義・学習講座
 戦争と労働者階級 ――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(4)
 畑田 治




「戦争と労働者階級」目次
①第1次大戦とドイツ社民党(3月号)
②レーニンとボルシェビキの闘い(4月号)
③「4月テーゼ」と「国家と革命」(5月号)
④第1次世界大戦とアメリカ労働運動(今号)
⑤第2次大戦とスターリン主義の裏切り
⑥大恐慌・戦争を世界革命へ

第4章第1次大戦とアメリカ労働運動

アメリカの参戦とIWWの反戦闘争


 19世紀末からアメリカでは鉄鋼・石炭・石油・自動車など基幹産業が発達し独占体が形成されていった。工場労働者の増大とともに、労働組合も拡大したが、まだ一部を組織するのみだった。AFL(アメリカ労働総同盟、1886年結成)は、排他的な熟練職工の集まりであり、工場労働者の大多数を占める不熟練の労働者、黒人や移民労働者を排除していた。AFLが残した空白部分では、世界産業労働者組合(IWW、1905年シカゴで結成)が伸展した。IWWは「労働者による産業の所有」を掲げ、抑圧された不熟練労働者が結集した。(規約前文を別掲)
 第1次世界大戦に対して1916年、IWWは次のように宣言した。「われわれは一切の戦争を非難する。そして戦争を阻止するために、平時にあっては戦争反対の宣伝を行って、全世界の労働者の階級的団結を促し、戦時には全産業でストライキに立ち上がることを主張する」
 大戦前、アメリカは深刻な不況に直面していた。その根本原因は過剰資本・過剰生産力の問題であった。ウッドロー・ウィルソンは、12年の大統領選挙で「アメリカの国内市場はもはや十分とは言えず、われわれは外国市場を必要としている」と訴えた。
 17年4月、イギリスとフランスが危機に追い込まれたのを契機にアメリカは直接、参戦に踏み切った。それは支配階級の貪欲な金もうけのためであり、労働者階級は参戦などまったく望んでいなかった。
 10万人近い党員を擁した社会党(1901年結成)は、宣戦布告の翌日4月7日、セントルイスで緊急大会を開き、今回の戦争は「アメリカの略奪的な資本家によって企てられたものであり、宣戦はアメリカ国民に対する犯罪である」と宣言した。そして各地で5千人、1万人規模の反戦集会を開いて闘った。
 また、IWWの組合員も反戦のために闘った。これに対する国家権力と資本家階級の憎悪は、非常に激しかった。オクラホマ州のタルサでは、石油産業の労働者を組織しようとしていた17人の労働者が誘拐され、立ち木に縛り付けられ、リンチされた。7月のアリゾナ州の銅山労働者のストライキでは、2千人の労働者が、武装した自警団に寝込みを襲われ、銃を突きつけられて家畜用の貨車に詰め込まれ、砂漠の中に放り出された。
 しかし、IWWの数千人の労働者は弾圧に屈せず、なぜ自分たちはこの戦争に反対するかを労働者に訴えた。数千枚のステッカーが町の掲示板や地下鉄や電柱に張りめぐらされた。ステッカーは、「兵隊なんかに行くな! IWWに参加して、職場で諸君と諸君の属する労働者階級のために闘え!」と呼びかけた。
 政府は100万人の兵士を必要としたが、こうした闘いがあったために、6週間のうちに志願してきたのはわずか7万3千人に過ぎなかった。そこで政府と議会は徴兵制を実施した。徴兵制が敷かれても同年夏、最初の徴兵命令を受けた者のうち、9割は徴兵免除を願い出た。徴兵拒否者は33万人を超えた。これは社会党やIWW組合員の闘いによるところが大きい。
 政府は対抗的に防諜法(スパイ防止法)を制定し、「20年以下の禁固」刑の恫喝をもって、反戦運動を徹底的に弾圧した。これによって投獄された者は900人にのぼる。
 政府は反戦運動を弾圧する一方で、AFLの買収、御用組合化に全力を挙げた。ストライキをやらない約束と引き換えに、政府の管轄下ではAFLの活動(組合員の拡大)を保証し、組合に入っても解雇しないと約束した。この結果、戦争中にAFLの組合員は200万人増えた。

戦争が終わると労働者の闘いが燃え上がった

 18年11月、第1次世界大戦は戦死者1千万人、戦傷者2千万人、行方不明700万人という大変な犠牲者を出して終結した。米兵は5万人が戦死した。戦中・戦後のインフレは激しく、14年から19年までのあいだに物価は2倍に上がった一方、賃金は5%上がっただけで、労働者の生活は大変苦しくなった。
 戦争が終わると政府・支配階級はさらに労働者階級と労働運動への攻撃を強めた。①インフレを起こして、戦時中に上昇した労働者の賃金を実質的に引き下げる、②資本に組合破壊の再開を許可する――というものだ。
 これと対決して、労働者の闘いは全国で燃え上がった。IWWは戦争中から激しい弾圧を受け、内部の路線対立なども抱えて、必ずしも各地のストライキで中心的な役割を果たしたとは言えない。しかし、現場の組合員は勇敢に闘った。何よりもロシア革命の影響が直接的にアメリカの労働者階級を奮い立たせ、大きな闘いが爆発した。
 『ネーション』誌は、当時の労働者の状況、雰囲気を次のように伝えている。
 「労働者の前例なき反乱は異常な現象であり、その余波については皆目予測が立たず、非常に威嚇的である」「シアトルとサンフランシスコでは、ソビエト政府の転覆のために送られる武器や食糧の取り扱いを、港湾労働者が拒否した」「ニューヨークでは、組合役員に逆らってまで港湾労働者のストは続いた」
 「まったく普通の人間が、旧来の指導者への信頼を失いながら、新たな自信、新たな無謀さ、自分の責任で一か八かやってみる心意気などを身に着けてきた」
 1919年、全米各地で労働者の激しい闘争が闘われた。いくつか紹介する。

シアトルのゼネスト

(写真 1919年1月、シアトルの造船所が政府命令でロックアウト。労働者はゼネストに突入)

 最も大きなゼネストが闘われたのはシアトルだった。
 街や職場にはロシア革命に関するパンフレットが数万部も出回った。あるジャーナリストは当時の街の状況を次のように回想している。
 「しばらくの間、これらの小さなパンフレットが、何百も電車や連絡船内で、仕事に行く労働者に読まれているのが見られた。経営者たちはこの現象を苦々しく批評した。そうした労働者がまじめに、一生懸命に、いかにして自分たちの来るべき権力を組織するかを研究していることは、誰の目にも明らかであった」
 「労働者たちは、さほど遠くない日の実践的政策として、『労働者の権力』のことを話し合っていた。ボイラー製造工や機械工、他の金属労働組合は、まもなく彼らが接収して現在の所有者よりもましな運営をする企業として、造船所に言及していた。そのような言及が、組合の集会に生気を与えた」
 軍艦の造船所の労働者は19年1月、非熟練の低賃金労働者の賃上げを要求し、熟練・非熟練の分断を打ち破って3万5千人がストライキに突入した。そして、シアトル中央労働者評議会に、他産業の労働者も同時にストライキに入るようゼネストを要請した。
 歴史的なゼネストが2月6日~8日に闘われた。15人で構成されるストライキ委員会はまるで「革命政府」のようだった。
 シアトルの町全体がストライキに突入した。ゼネストを成功させるため、労働者は組織的に闘った。物資配給部は市内21の食堂で1日3万食の食事を提供した。貧困家庭の世話をする救済委員会が設置された。軍隊の経験者は「退役軍人労働者警護団」を組織し、街頭をパトロールした。清掃労働者は生ごみだけ回収し、クリーニング店は病院の洗濯物を処理するため1店だけ営業が許された。特別に運行される乗り物には「運行許可証」が発行された。
 地元の『ユニオン・レコード』紙は次のように報じた。
 「日夜ほとんど不断に会議を開いているかに思われたストライキ委員会の前には、状況を討議し、措置の承認を求める実業家や市の役人や市長自身の長い列ができた」
 「シアトルの産業が停止されていながら、その一方で、労働者が民衆に食糧を供給し赤ん坊や病弱者の面倒を見、治安を維持するために組織するとなると――これは彼ら(経営者)を動揺させるであろう。なぜなら、これは労働者による権力の接収とあまりにも似ているからである」
 このゼネストに対して州検事総長は連邦軍の出動を要請した。またオル・ハンソン市長はゼネスト委員会にスト中止を要求した。さらにAFL系組合の本部もストを中止するよう圧力をかけた。
 多くの組合員はスト続行を希望したが、ゼネスト委員会はついにスト中止を決め、ストライキは2月8日に収束した。しかし、造船所のストライキは継続された。
 シアトルの市長はゼネストについて次のように語った。
 「シアトルで行われたようなゼネストは、それ自体革命の武器である。静かであるがゆえに、なおさら危険な武器である。ストライキを成功させるためにはすべてを停止させなければならない。社会の全生活の流れを止めるのだ。......つまり、政府が管理できないようにさせるのだ。これで革命には十分である」
 報復弾圧の嵐が吹き荒れたが、ゼネストの貫徹は労働者に大きな自信を与えた。同年秋、港湾労働者は、シベリア反革命軍への武器・軍需品の船積みを拒否した。

繊維労働者のストライキ

 シアトル・ゼネストの直後、マサチューセッツ州ローレンス市では、12年の大ストライキに続き、繊維労働者が賃下げなしの労働時間短縮(8時間)を要求してストライキに入った。組合本部はストを承認しなかったが、ストライキの波はニュー・イングランド繊維地域に広がり、12万人がストに参加した。
 子どもたちのために、ミルクを供給する取り決めが牛乳業者と交わされた。配給物資の受け取りと貯蔵所が設けられた。
 100人からなるゼネスト委員会が組織された。毎朝会合を持ち、報告を受け、方針を立てた。「彼らは、異なる民族の代表者であり、毎朝の彼らの報告は、まるで諸民族の点呼を聞いているようだ。ロシア人、イタリア人、ポーランド人、リトアニア人、ギリシャ人、ウクライナ人、シリア人、フランス・ベルギー人、フィンランド人、そしてドイツ人......。それぞれが自分たちの集会所で会合を開き、毎朝その代表者がストライキ委員会に報告するのである」(ジョン・フィッチ)
 ストライキの指導者は、「自分たちで工場を動かす時期が来た時に、必要な知識と技術が身についているように、布を製造する作業に関してできる限りなんでも学んでおくべきである」と労働者に呼びかけた。
 ストライキ委員会は10週間後にその要求をかちとった。
 ストライキの波は、ボストン、ニューヨーク、シカゴにも広がった。ボストンとその近郊では電話交換手がストに入った。電話局内勤の労働者1万2千人も連帯ストに突入し、郵政長官が降参し、労働者が勝利した。
 ボストンでは、警察官の組織「ボストン・ソーシャル・クラブ」がAFLに加盟を決定した。指導者19人が解雇されるとストライキに突入した。スト2日目に軍隊が出動し市を占拠、その後3カ月間、軍隊が駐留した。全警察官が解雇され、新しい警察官が募集された。

鉄鋼の大ストライキ

 鉄鋼労働者は賃上げや組合の承認などを要求して19年9月にストライキに突入した。35万人以上がストに入り、鉄鋼産業の大部分をストップさせた。スト突入の大部分は非組合員であった。「労働者が大集団をなして働く鉄鋼産業では、組合員がたとえ10%でも、われわれは全員にストライキをさせることができる」(ブロディ)
 まったく蓄えのない労働者が、飢えて作業復帰(スト破り)しないよう、物資配給制度が設けられ、全ストライキ地域に食糧を分配した。労働者は、ストがうまくいっていると確信している間は、ほとんど食べるものがなくても、何週も何週もストを続けた。軍隊が出動し最終的にストライキを鎮圧した。
 「彼ら労働者にとって、ストライキは、まったくの革命であった。抑圧された自己表現の本能の爆発でもあった。移民が望んだのは、賃上げと労働時間の短縮だけではなく、彼らは自分たちが『チャトル(持ち物)』や『ハンキー(東欧からの移民への蔑称)』として扱われることに憤慨したのである」。労働者を人間として処遇しない資本の専制的な支配に対する、労働者の根源的・革命的な怒りの決起であった。

炭鉱地帯のストライキ

 19年~22年、各地で激しいストライキと、スト破りに対する武装闘争が組合幹部の抑圧をはねのけて貫徹された。
 ウェスト・ヴァージニア州では内戦へと発展した。ある炭鉱では、坑夫2人と市長、(スト破りの)探偵団7人が銃撃戦で死んだ。州の軍隊が派遣され、3時間の撃ち合いで6人が死亡した。
 ストライキは続き、1700人がテント村で生活を始めた。連邦軍は撤退し、また攻撃し、また撤退した。
 ローガン郡へ通ずる道路はひっきりなしにパトロールが行われ、物資配給所が設けられた。前線の近くの学校では食堂が開かれた。
 坑夫たち4千人は広大な戦線に散開し、5カ所で激しい戦いを行った。スト破りが就業していた炭鉱では、労働者部隊1千人が炭鉱に向かって進撃した。近郊で借りてきた飛行機が頭上を飛び、スト破りの拠点にダイナマイトを落とした。坑夫たちが炭鉱に近づくと、炭鉱の警備員から機関銃の射撃を受けたが、1千人の部隊はそれを越えて進撃した。スト破りのこもる炭鉱を襲おうとした時、白旗が上がり、包囲されていた側(スト破り)が降伏を申し出た。武装した坑夫は彼らを追い立てて歩かせ、その途中、炭鉱の監督を処刑した。
 7月、連邦政府は、この全国的規模の炭鉱ストライキに対し、軍隊を出動させ、経営者には作業を再開するよう通達した。ストライキは堅固であったが、組合幹部はスト中の7万5千人の坑夫を犠牲にして和解を受け入れ、ストを中止した。
 このほかに鉄道労働者も同年4月、シカゴの転轍手(線路の分岐点のポイントを動かす労働者)9千人がストライキに決起したのを皮切りに、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、デトロイトを始めアメリカ中でストに立ち上がった。機関士、車掌、火夫などの労働者がストライキに加わった。

IWWの闘いが突きつける課題

 まさに、第1次大戦直後のアメリカは、ブルジョアジーが震え上がるような革命的闘いが、ロシア革命との熱い連帯のもとに展開されていたのである。
 最盛時には10万人に達したIWWの組合員は「ウォブリーズ」と呼ばれ、各地で果敢なストライキやサボタージュ闘争を繰り広げたが、第1次大戦の戦中戦後に激しい弾圧を受け1924年に実質的にほぼ終わったとされる。内部での路線対立などを抱えていた。やはりサンジカリズム(戦闘的組合主義)の限界であり、党と労働組合の一体的建設の死活的重要性を突きつける問題として歴史的に総括されなければならないだろう。革命すなわちプロレタリア権力の樹立に向かって闘う階級的労働運動の目的意識性、継続性、不屈性、指導部建設などは、党の建設抜きにはありえないことである。党の役割を否定したり、指導部が路線をめぐって対立・抗争し不団結のままでは、ブルジョア国家権力に到底、勝利することはできない。
 それでも最後に確認したいことは、現代の私たちの闘いは、このようなアメリカの、そして世界の労働者階級の闘いのバトンを引き継ぎ、彼らもめざした労働者階級の解放を全世界的に成し遂げるために闘われているということである。   (以上、第4章)
【参考図書】J・ブレッヒャー『ストライキ』(晶文社)、P・レンショウ『ウォブリーズ』(社会評論社)
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●IWW(世界産業労働者組合)の規約前文(1906年改定)

 労働者階級と雇用階級には共通なものは何一つない。数百万の労働者に飢えと欠乏があり、雇用者階級である一握りの者があらゆる富を持っている限り、平和はありえない。この二つの階級のあいだでは、労働者が階級として組織し、土地と生産機械の所有権を握り、賃金制度を廃止するまで、闘争が続かなければならない。
 産業の経営がますます少数の手に集中され、労働組合がますます強力になる雇用者階級に立ち向かうことができなくなっていることを目の前にしている。同じ産業内で、労働組合が、一群の労働者を別の群の労働者に対立させている現状をさらに促進し、互いの賃金戦争の敗北を助けている。
 しかも、労働組合が、「労働者階級は雇用者と共通の利益を持っている」という考えで雇用者階級が労働者をだますことを助けている。こうした諸条件を変更し、労働者階級の利益を貫くことは、次のような組織によってのみ達成しうる。すなわち、その産業内の一部門がストライキないしロックアウトにあるときは、ひとつの産業内ないしはあらゆる産業内のすべてのメンバーが、必要とあらば労働を停止し、「一人への攻撃はみなへの攻撃」ということを実現するように形成された組織である。
 (上記労働組合の)保守的なモットー「公平な一日の労働に対して、公平な賃金を」に代わって、われわれは「賃金制度の廃止」という革命的な合言葉を旗に書き記さなければならない。資本主義の廃止は、労働者階級の歴史的任務である。生産の軍隊は、資本家との日々の闘争のためだけではなく、資本主義が転覆された時の生産続行のためにも組織されなければならない。産業的に組織することによって、われわれは、古い殻の内部で新たな社会を形成するのである。