■マルクス主義・学習講座 戦争と労働者階級――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(3) 畑田 治

月刊『国際労働運動』48頁(0464号04面01)(2015/05/01)


■マルクス主義・学習講座
 戦争と労働者階級――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(3)
 畑田 治

(写真 前線での兵士集会。戦争と革命の問題が活発に話し合われた)


①第1次大戦とドイツ社民党(3月号)
②レーニンとボルシェビキの闘い(4月号)
③「4月テーゼ」と「国家と革命」(今号)
④大恐慌・戦争とアメリカ労働運動
⑤第2次大戦とスターリン主義の裏切り
⑥大恐慌・戦争を世界革命へ

第三章 「4月テーゼ」と「国家と革命」

 戦争、生活破壊への怒りが2月革命として爆発

 レーニンとロシアの労働者階級は、第1次世界大戦によってもたらされた帝国主義の危機をプロレタリア革命に転化して勝利した。他方、ロシア社会民主労働党以外の第2インターナショナルの諸党は、1912年のバーゼル大会などで〈戦争が起きたときには国際的に連帯してそれぞれが自国政府の戦争に反対し、革命をめざして闘う〉ことをお互いに誓いあったのに、いざ戦争が始まるとそれを踏みにじり、自国の帝国主義的強盗戦争の片棒を担いだ。
 ロシア10月革命に向かう道も平坦だったわけではない。激戦激闘、動あり反動ありのすさまじい道のりだった。それでもレーニンとボルシェビキは進むべき方向を見失わず、資本家勢力の反革命や、他の「左翼」諸党派との激しい党派闘争を闘いながら、勝利に向かって一歩一歩前進した。
 レーニンは国外におり、国内の党も困難を強いられていた中で、どうしてそのような力がつくられていったのか?
 やはりプラハ協議会(1912年)や第1次大戦勃発直後の党の声明(14年秋)など、重要な節目節目にしっかりと党の基本路線を確認し、重要な拠点工場での細胞建設を進め、労働者指導部の骨格を形成していったことが重要だったろう。
 戦争で多くの労働者・農民が徴兵され、労働力不足で食糧が不足し物価が上がり、人民の生活は耐えがたいものになっていた。兵士のあいだには厭戦気分が広がり、労働運動は活発化し、1916年の秋ごろには革命的危機が相当深まっていた。
 17年2月、ビボルグ地区の繊維工場の女性労働者がストライキに入り、周辺の工場労働者に統一ストを呼びかけた。パンと平和を求めるストとデモの波はうねりのように広がった。掲げるスローガンも、「戦争反対」「専制打倒」へと発展した。ついにデモの鎮圧にあたっていた数万人の兵士がデモ隊に合流したとき大勢は決し、皇帝は退位に追い込まれた。
 300年間続いたロマノフ王朝は打倒された。革命の渦中でペトログラードの労働者はただちに代表1500人を集めて、権力の母体となるべき労働者・兵士代表ソビエトを結成した。
 レーニンは2月革命を「帝国主義戦争を内乱へ」のスローガンの実現の第一歩と見た。2月革命直後の「ロシア革命と万国の労働者の任務」で次のように言っている。
 「労働者の同志諸君! 社会主義を守り、野蛮で凶暴な戦争熱に浮かされなかった社会主義者の予見は的中した。さまざまな国の資本家のあいだの世界強盗戦争によって生み出された最初の革命が突発したのだ。帝国主義戦争、すなわち、資本家のあいだの獲物の分け前をめぐる戦争、弱小民族を圧迫するための戦争は、いまや内乱に、すなわち、資本家に対する労働者の戦争、人類を戦争、貧困、抑圧から完全に解放するための戦争に転化し始めた」
 これは実に偉大な地平である。しかし、これはゴールではない、闘いの始まりなのだとレーニンは強調した。ところが、ロシア国内ではソビエトがぐずぐずしているあいだにブルジョアジーと地主勢力が国会臨時委員会をつくり、臨時政府の成立を宣言してしまった。権力というものの何たるかを知っているブルジョアジーは先に行動を起こし、ソビエトの機先を制してしまった。首相は大地主の自由主義者リヴォフであった。
 プロレタリアートはせっかくソビエトを結成し人民の圧倒的な支持を背後に持っていながら、ブルジョア政府の成立を許してしまった。この情勢を、レーニンは「ペテルブルグの労働者と人民大衆の自覚がまだ十分でなかった」と総括した。
 しかもこの新政府は英仏の資本家と同盟し、あいかわらずロシアの人民を犠牲にして強盗的な戦争を継続しようとしている。しかもソビエトは、このブルジョアジーと土地貴族の臨時政府を支持する立場を表明したのである。このときのソビエトの指導部は、日和見主義者のメンシェビキとエスエル(社会革命党)が多数派であった。ペトログラードのボルシェビキの指導部もこれに妥協していた。
 そこで、スイスにいるレーニンは言う。「新政府は、ロシアの人民に平和も、パンも、完全な自由も与えることができない」
 「人民にパンを与えるためには、地主と資本家に対する革命的措置が必要であるが、この措置を実現することができるのは、労働者の政府だけである」
 「だから、革命的プロレタリアートは、3月1日の革命を、自分たちの偉大な道程における最初の、まだ完全ではない勝利としてしか見ることができないし、民主的共和制と社会主義をめざす闘争の継続を自分たちの任務としないわけにはいかない」(以上、「3月4日のテーゼの下書き」)
 このようにレーニンは、2月革命の偉大な地平を確認しつつも、そこにとどまらず、さらに前に進むことを呼びかけたのである。

「4月テーゼ」の階級性を実証した4月デモ

 国内の激動に居ても立ってもいられなくなったレーニンは、2月革命が切り開いた有利な条件を使って4月初めにペトログラードに帰国した。そして直ちに「4月テーゼ」を発表した。その内容は、以下の10項目の革命的な内容である。
 ①新政府が資本家的な性格を持っているため、戦争は無条件に帝国主義的強盗戦争であり、「革命的祖国防衛主義」にいささかも譲歩することは許されない。
 ②現在の時期の特異性は、プロレタリアートの自覚と組織性が不十分なために権力をブルジョアジーに渡した革命の最初の段階から、プロレタリアートと貧農が権力を掌握する第2段階への過渡である。
 ③臨時政府を一切支持しない。「領土併合を放棄する」という約束はまったくのうそである。
 ④労働者代表ソビエトは、ただひとつ可能な革命政府の形態である。しかし、わが党はソビエト内でいまだ少数派であり、大衆が経験に基づいて自分の誤りから抜け出せるように、全国家権力をソビエトに移す必要性を粘り強く説明することが重要である。
 ⑤議会制共和国ではなくて、全国にわたる、上から下までの労働者・雇農・農民代表ソビエトの共和国。警察、軍隊、官僚の廃止。官吏はすべて選挙され、いつでも替えることができる。その俸給は熟練労働者の平均賃金を超えないようにする。
 (⑥~⑩は省略)
 レーニンはテーゼの第一に戦争の問題を取り上げた。それは、帝国主義戦争への対応をめぐって欧州の社会主義者の総崩れが起きており、この戦争への対応がプロレタリア革命の成否を決める大問題だったからである。
 レーニンはこの4月テーゼで、臨時政府を一切支持するな、プロレタリアート(ソビエト)の権力獲得以外に問題解決の道はない、そこをめざして闘おうと呼びかけた。これは、2月革命の地平に満足しているペトログラードの党の幹部には、目が覚めるような衝撃であった。レーニンが帰国する前のボルシェビキの指導部は、流刑地から戻ったばかりのカーメネフやスターリンらであった。彼らは、メンシェビキやエスエル(社会革命党)に妥協して臨時政府を支持し、戦争継続も容認する対応をとり続けていた。彼らの影響もあって、帰国直後の党ペテルブルグ委員会の討議では、「4月テーゼ」は大差で否決された。
 しかしその直後に、外相ミリューコフが「最終的勝利を得るまで戦争を続ける」と英仏に約束した覚書が明るみに出ると、首都の兵士、労働者の怒りが爆発し、「臨時政府打倒!」「全権力をソビエトへ!」という怒りのデモが巻き起こった。第1次臨時政府は打倒された。
 「4月デモ」は臨時政府の戦争継続方針に対する労働者・兵士の怒りの深さを示した。また、労働者階級が2月革命の地平に全然満足していないことを示した。実際、臨時政府は人民にパンも平和も保証せず、それどころか英仏の資本家と手を組んで、ドイツから獲物を奪おうと新たな戦争を準備している。とんでもないやつらだ!――これが多くの労働者の気持ちだった。
 その意味で「4月デモ」はレーニンの「4月テーゼ」の階級性、生命力を鮮やかに示した。事実、こうした闘いの過程を通じて、「4月テーゼ」は工場や兵営の中に急速に支持を広げていった。
 4月デモの直後に開かれた第7回ボルシェビキ全国協議会で、約8万人の全国党員を代表する133人の代議員のうち、反対3、保留8を除いた圧倒的多数の支持で、「4月テーゼ」を党の正式方針として決定した。そしてレーニンを最高指導部とする新たな革命的中央委員会を選出した。これによって10月革命に向かう体制が確立された。

帝国主義戦争への根底的批判が一切の基礎に

 「4月テーゼ」は、帝国主義論と国家・戦争・革命についてのレーニンの探究をベースにして打ち出された。
 戦争は国家間の軍事的激突の形を取るが、その国家とは何か、この戦争はどの階級が何のために行っているのか――これに対するしっかりとした認識を持たなければ、ブルジョアジーの振りまく「国家あっての国民」「国家の危機を救え」「戦争は人類の歴史につきもの」「自国の防衛は国民の当然の義務」などというデマゴギーにのみこまれてしまう。さらに、歴史を見ると、戦争と革命は密接不可分のものであることが分かる。
 前年の1916年に著した『帝国主義論』の最大の目的は、全ヨーロッパと世界中に広がった現在の戦争の階級的性格と反動的狙いをはっきりと暴くことであった。
 「本書の中で証明されていることは、1914―1918年の戦争が、どちらの側から見ても帝国主義戦争(すなわち、侵略的、略奪的、強盗的な戦争)であり、世界の分け取りのための、植民地や金融資本の『勢力範囲』等々の分割と再分割のための戦争であった、ということである」
(1920年に出版された仏語版、独語版への序言)
 「資本主義は、地上人口の圧倒的多数に対する、一握りの『先進』諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺のための世界体制に成長・転化した。この獲物の分配は、世界的に強大な2、3の強盗どものあいだで行われ、彼らは自分たちの獲物を分配するための自分たちの戦争に、全地球を引きずり込む」(同)
 ツァーリズム(帝政)の検閲を考慮して抑制された表現ではあったが、レーニンは『帝国主義論』で、帝国主義の危機と争闘戦の激化、それがやがて市場・資源・勢力圏の獲得をめぐる強盗的な戦争に発展する必然性を暴いた。そしてこの帝国主義の動向の中に、資本主義の行き詰まり、腐朽化をみてとり、「世界的な革命的危機」「プロレタリアートの社会革命の前夜」という時代認識をつかんだのである。
 他方、ドイツ社民党のカウツキーは、「超帝国主義」「国際的に統合された金融資本による世界の共同的搾取」「資本主義の新しい段階」論を展開して、帝国主義の平和的発展が可能であるかのような理論を展開し、実践的には帝国主義戦争に屈服していったのであった。
 レーニンは次のように言う。
 「帝国主義の基礎の改良主義的な変更は可能かどうか、事態は帝国主義によって生み出される諸矛盾の一層の激化と深化に向かって前進しているのか、それともその鈍化へ向かって後退するのか、という問題は、帝国主義批判の根本問題である」(第9章「帝国主義の批判)
 私たちもきっぱりと断言しよう。〈帝国主義の支配と戦争がもたらすあらゆる災厄、反動、暗黒、生活破壊から人類が自らを真に解放するためには、帝国主義の打倒=プロレタリア社会主義革命の完遂以外にいかなる道もない。その道だけが唯一、現実的な解決策である〉。――このことをイデオロギー的、実践的にはっきりさせて闘うことが、一切の展望を切り開く。レーニンもまた、いささかの揺るぎもなく、このことを主張し続けたのであった。

「資本家はみな強盗だ」とレーニンが演説

 6月に労働者・兵士代表ソビエト第1回全国大会でレーニンは演説した。〝臨時政府はブルジョアジーの政府であり、英仏の資本家階級と結託してあいかわらず強盗的な戦争を継続しようとしている。こんな政府は早く打ち倒して、ソビエトが権力を握らなければ、パンもミルクも平和も手に入らない〟。レーニンは演壇から身を乗り出して、このことを全力で訴えた。
 「われわれ(ソビエト)の側には、まだそのような力がない」と叫ぶ日和見主義者に対して、レーニンは「わが党は、いつ、いかなるときにも全権力を掌握する用意がある!」ときっぱりと宣言した。すると、会場から拍手が起きる一方で、笑い声が起きた。
 レーニンは、「諸君は好きなだけ笑うがよい」「われわれを信頼せよ、そうすればわれわれの綱領を示そう」と少しも動じなかった。レーニンの確信の強さは、プロレタリアートとしっかりと結合していたからである。
 戦争で労働者農民はパンも不足し、子どもに与えるミルクもないというのに、資本家は戦争で平時より何倍も多くもうけて、その利益を隠匿している。どうしてソビエトは自らの権力を行使しないで、こんな腐りきった連中と一緒にやっているのか! 実際、4月デモで第1次臨時政府が打倒されて成立した第2次臨時政府には、メンシェビキとエスエルから6人の「社会主義者大臣」が入閣していた。
 レーニンの怒りは深い。レーニンは壇上から叫ぶ。
 「資本家どもの利潤を公表したまえ。50人ないし100人の巨大百万長者を検挙し、数週間拘禁したまえ。つながりや陰謀や腐敗や貪欲を暴くためにはそれで十分だろう」
 「われわれが権力を握った場合、われわれのなすべき第一歩は、巨大資本家を検挙し、彼らの陰謀のすべての結びつきを引きちぎることである。第二歩は、各国の国民に向かって、われわれは資本家をみな強盗であると考えており......フランスの資本家も、イギリスの資本家も、すべての資本家は強盗であると考えると声明することである」
 非常にわかりやすく、核心を突く演説であった。

『国家と革命』でプロ独への確信うち固める

 そして、レーニンは8~9月に『国家と革命』を著した。「4月テーゼ」をさらに発展させるために、レーニンはこの作業を行った。
 『国家と革命』はその前書きで言う。
 「帝国主義ブルジョアジーの影響下から、勤労大衆を解き放つための闘いは、『国家』についての日和見主義的な偏見と闘うことなしには不可能である」
 レーニンは、第1章「階級社会と国家」で、国家の階級性について、マルクスの国家学説に学びながら展開している。
 「国家は階級対立の非和解性の産物であり、階級支配の機関である」「近代の代議制国家は、資本が賃労働を搾取する道具である」
 つまり、国家は「永遠不変」のものではないし、階級分裂の存在と密接不可分である。国家が行う戦争は、支配階級の利害の貫徹のために行うものであり、現に行われている戦争は、どちらの側から見ても、侵略的、略奪的、強盗的な帝国主義戦争である。
 しかし、レーニンの問題意識はそこにとどまっていない。2月革命でソビエトが成立している地平を踏まえて、さらに革命を進めて労働者が国家権力を握り支配階級となったとき、どのようにすれば国家・社会を統治していけるかを、きわめて実践的な問題意識で答えを出した。
 戦争絶対反対を貫くことと、労働者が革命でブルジョア権力を打倒し自らが国家・社会の主人となることは、切り離された2段階的な問題ではなく、イコールの問題なのだ。
 第2章以降は、そのようなきわめてリアルで実践的な問題意識から展開されている。
 「われわれは、あらゆる行政府、あらゆる服従なしにやっていけるという夢想はしない。そういう無政府主義的な夢想は、実際には人間が別のものに変わるまで社会主義革命を延期するのに役立つだけである。われわれは、今のままの人間、すなわち服従と統制なしには、『監督と簿記係』なしにはやっていけない人間で社会主義革命をやることを望んでいる」(第3章)
 「われわれ労働者は、すでに資本主義によってつくりだされたものから出発し、労働者としての自己の経験に立脚しながら、また、武装した労働者の国家権力によって支持される、きわめて厳格な鉄の規律をつくりだしながら、自分で大規模生産を組織するであろう」(同)
 「社会主義のもとでは、『原始的』民主主義のうちの多くのものが、必ず再び活気づくであろう。なぜなら、文明社会の歴史上初めて、住民大衆が立ち上がって、投票や選挙だけでなく、日常の行政にも、自主的に参加するからである」(第6章)
 「革命とは、新しい階級が旧国家機構の助けをかりて、命令し統治することではなく、新しい階級がこの旧国家機構を粉砕し、新しい国家機構の助けをかりて、命令し統治することである」(同)
 こうした提起は抽象的な理念・目標ではなく、今日明日にも実践すべき行動指針なのである。革命の情熱だけでなく、労働者階級が「こうすればやっていける」「恐れず突き進むべきだ」ということを理論的に確信し、具体的な見通しを持つことができれば、それは前に進む力、反動に立ち向かう力、やり遂げようという情熱を、幾十倍にも高めるものとなるだろう。
 レーニンは、パリ・コミューンやロシアの1905年の革命を理論的に整理し、深め、それをプロレタリアートの確信、闘う力に高めた。そしてロシアの労働者階級は、ロシア帝国主義を打倒して帝国主義戦争を終結させ、私たちが闘いとるべき世界革命の突破口を切り開いたのである。
(以上、第3章)