国際労働運動の暦 4月17日 1917年4月テーゼ ロシア革命の転換点 レーニンがプロレタリア革命を提起しボルシェビキを再武装

月刊『国際労働運動』48頁(0463号06面01)(2015/04/01)


国際労働運動の暦 4月17日
 1917年4月テーゼ
 ロシア革命の転換点
 レーニンがプロレタリア革命を提起しボルシェビキを再武装

(写真 4月テーゼについて演説するレーニン【1917年4月17日 タウリーダ宮殿】)

 1917年のロシア革命は、第1次世界大戦の最中に、帝国主義戦争を内乱に転化したプロレタリア社会主義革命である。その方向性を決定的に提起したのがレーニンの4月テーゼである。
 17年3月8日の国際婦人デーにおける首都ペトログラードの女性労働者の決起を合図に、労働者と兵士が「パンと平和」を求めて大デモとストに決起し、帝政(ツァーリズム)を打倒し、労働者階級の自己権力として労働者・兵士代表ソビエトを打ち立てた(2月革命)。しかし右派の社会主義者が主導権を握ったソビエトは、ブルジョアジーが組織した臨時政府に国家権力を譲り渡してしまった。
 ロシア社会民主労働党(ボルシェビキ)の国内中央指導部も、流刑地から3月に戻ったスターリンやカーメネフの指導のもとで、この革命はブルジョア革命であり、臨時政府の帝国主義戦争遂行政策も支持するという立場に立っていた。
 ここに二重権力状態が生じた。臨時政府は戦争を継続し、国内経済を一層の破局に陥れた。このような革命の危機を突破し、プロレタリア革命に勝利するために、レーニンは亡命地スイスからロシア国内に何通かの手紙を送る(遠方からの手紙)などして闘った。
▼帝国主義戦争を内乱へ
 そして4月16日(西暦。ロシア暦では3日)、亡命先のスイスから帰国したレーニンは、ペトログラードで歓迎する労働者に向かって「強盗的帝国主義戦争は全ヨーロッパにおける内乱の始まりである」と演説し、現在進行中のロシア革命は、プロレタリア革命であり、社会主義革命であることを力説した。この演説は、現在の革命をブルジョア民主主義革命だと考えていたボルシェビキの労働者に巨大な衝撃を与えた。まさに青天の霹靂だった。
 翌17日、レーニンは自らの見解をまとめて党に提出した。これが4月テーゼ(「現在の革命におけるプロレタリアートの任務」)である。その内容は、
①戦争は臨時政府のもとでも今なお帝国主義的強盗戦争であり、「革命的祖国防衛主義」にいささかでも譲歩することは許されない。資本を倒さなければ、真に民主的な講和で戦争を終わらせることはできない。
②ソビエトが臨時政府支持政策をやめ、全権力をソビエトに移す必要があることを宣伝すること。議会制共和国ではなくて全国にわたる上から下までの労働者・雇農・農民代表ソビエトの共和国。
③土地国有化と雇農・農民代表ソビエトによる土地の処理、統合された全国的銀行と社会的生産と生産物の分配への労働者代表ソビエトによる統制によって危機を解決する。
 ロシアの労働者階級は帝国主義戦争を終わらせることのできる労働者・兵士代表ソビエトをすでに持っている。全権力をソビエトに集中させ、戦争を終わらせよう――とレーニンは説いたのだ。
▼革命への党内闘争
 だが、このテーゼは国内の中央指導部から全面的に否定され、レーニンは完全に孤立した。大多数の党員は「労農民主独裁」論の党綱領に縛られており、プロレタリア革命宣言を受け入れられなかったのだ。
 レーニンは4月テーゼをめぐる党の危機的現実を革命的労働者と地区党に依拠して突破した。2月革命後、首都のボルシェビキ党の構成には重要な変化が起きていた。2月から4月までの間に労働者地区の地区党の急激な強化と工場委員会闘争の強化で、労働者党員数の全党員に占める比率は一挙に数倍化した。レーニンは労働者党員が多数を占めた各地区党の総会で4月テーゼをめぐる論議を進め、採択をかちとった。さらに、ボルシェビキ全国協議会で4月テーゼを採択し、レーニンを最高指導部とする新たな革命的中央委員会を選出する。
 こうしてボルシェビキはプロレタリア革命の党として最後的に確立され、10月革命の武装蜂起に向かって驀進する。
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1917 年4月のレーニン(西暦。当時のロシア暦は西暦マイナス13 の日付)

4.16 レーニンが亡命先から帰国、首都ペトログラードで歓迎するボルシェビキの労働者に演説
4.17 労働者・兵士代表ソビエト全ロシア大会に参加したボルシェビキの集会でレーニンが演説、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について(4月テーゼ)」について説明する
4.20 4月テーゼを「プラウダ」に発表
4.21 ボルシェビキのペトログラード全市協議会で4月テーゼを否決
4.27 ペトログラード全市協議会でも完全には受け入れられず
5. 7 ボルシェビキ全ロシア協議会で議長団に選出される
5.10 同協議会でレーニンの提出した決議案が採択される