■マルクス主義・学習講座 戦争と労働者階級――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(2) 畑田 治

月刊『国際労働運動』48頁(0463号04面01)(2015/04/01)


■マルクス主義・学習講座
 戦争と労働者階級――レーニンと階級闘争の歴史に学ぶ(2)
 畑田 治

(写真 前線で交歓するロシア兵とドイツ兵【1917年12月】)


「戦争と労働者階級」目次(予定)
①第1次大戦とドイツ社民党(3月号)
②レーニンとボルシェビキの闘い(今号)
③『帝国主義論』と『国家と革命』
④大恐慌・戦争とアメリカ労働運動
⑤第2次大戦とスターリン主義の裏切り
⑥大恐慌・戦争を世界革命へ

第2章 レーニンとボルシェビキの闘い

第2インターナショナルの戦争協力を弾劾

 1914年8月に全欧州を巻き込む戦争(第1次世界大戦)が勃発すると、レーニンは9月にスイスのベルンで在外ボルシェビキの会議を開き、戦争に対するボルシェビキの基本的態度を討論し意思一致した。これが「ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務」である。前号(第1回)で主な内容を紹介したが、その第4項目は以下のとおりである。
 「第2インターナショナル(1889~1914年)の指導者の大多数が社会主義を裏切ったことは、このインターナショナルの思想的=政治的崩壊を意味している。この崩壊の基本的な原因は、小ブル的日和見主義がインターナショナルで実際に優勢を占めていたことであって、この日和見主義のブルジョア性と危険性は、あらゆる国の革命的プロレタリアートのすぐれた代表者たちが早くから指摘していたところである」
 ここで言っているとおり、第2インターの崩壊は突然起こったことではない。ドイツ社民党の転落に典型的なように、それ以前からマルクス主義の諸原則を薄め、帝国主義への屈服を深めてきた各国の社会主義諸党の日和見主義的実践の帰結であった。
 さらにレーニンは続ける。
 「日和見主義は、①社会主義革命を否定し、それをブルジョア的改良主義とすりかえた。②彼らは、階級闘争と、それが一定の時期には必然的に内乱に転化することを否定し、諸階級の協力を説いた。③彼らは、愛国主義と祖国擁護にかこつけてブルジョア排外主義を説き、『労働者は祖国を持たない』という、すでに『共産党宣言』に述べられた、社会主義の基本的な真理を無視するか、あるいは否定した。......④彼らは、ブルジョア議会制度とブルジョア的合法性を利用する必要をもちあげて、この合法性を物神化し、危機の時代には非合法形態の組織と扇動がぜひとも必要だということを忘れ去ってしまった。彼らは、こうして、第2インターナショナルの崩壊をずっと以前から準備してきたのである」(丸数字は引用者)
 このように言って、レーニンは第4項目の締めくくりを「未来のインタナーショナルの任務は、社会主義内のこのブルジョア的潮流から、決定的に、断固として離脱することでなければならない」という言葉で結んでいる。
 この内容を、大戦の勃発に直面して直ちにボルシェビキの会議で確認したということは、予想されるどんな弾圧にも屈服せずに〈帝国主義戦争を内乱=革命に転化する〉階級的原則を断固貫いて闘うこと、そして第2インター諸党の屈服と徹底的に対決して国際連帯を貫くこと――を同志たちが誓い合ったということである。これは、その後のロシア革命の勝利を切り開く上で決定的なことであった。前記①~④の日和見主義は、今日私たちが帝国主義戦争と対決し闘っていく上でも、不断に対決すべきブルジョア・イデオロギーである。

自国政府の軍事的敗北は人民の利益

 レーニンは以前から帝国主義戦争を革命に転化する問題を一貫して重視してきた。戦争に対するレーニンの考え方の原形は、日露戦争(1904~05年)のときの論文に示されている。時間的に10年間さかのぼるが、それを見よう。
 世紀末大不況の長期化でロシアでは03~05年に労働運動と、農民の反地主闘争が激化し、警察、軍隊と衝突した。鉄道労働者もストライキに立ち上がった。20世紀初頭から、激しい階級的激突が闘いぬかれていたのである。
 このような中で1904年2月、日露戦争が開始された。これは、中国と朝鮮の植民地支配をめぐるロシアと日本の帝国主義者、つまり強盗同士の領土の分捕り合いであった。
 対外戦争と国内階級闘争は不可分に結びついている。この戦争は帝国主義的な侵略の狙いとともに、国内の労働者農民を徴兵して戦場に送り、階級闘争を圧殺する狙いを持っていた。支配階級は、革命の危機に直面すると、こういう手口を使って革命を圧殺しようとするのである。第1次大戦のときも同じである。
 レーニンはこのような狙いを持ったロシア専制政府の戦争政策と対決して闘った。同時に「何としても平和を」というスローガンにとどまって、戦争(の敗北)がつくりだす支配階級の危機を革命に転化しようと闘わないメンシェビキの日和見主義、ブルジョア的平和主義を厳しく批判した。
 1905年1月、ロシア軍がたてこもる旅順が日本軍の攻撃で陥落すると、レーニンは「旅順の陥落」という論文を著して、「これはプロレタリアートの解放闘争にとって、大きな利益である」と、次のように述べた。
 「ロシアの自由の大業とロシア(及び全世界)のプロレタリアートの社会主義のための闘争の大業は、専制(ロシア帝政のこと)の軍事的敗北に大いにかかっている。この大業は、ヨーロッパの現秩序守護者のすべてに恐怖の念を与えている軍事的崩壊から、大きな利益を得た」
 「革命的プロレタリアートは、戦争反対の扇動をあきることなく行わなければならないが、その際、一般に階級支配が存続している限り、戦争は除去されえないことを、つねに記憶していなければならない」
 「恥ずべき敗北に陥ったのは、ロシアの人民ではなく、専制である。ロシアの人民は専制の敗北によって利益を得た。旅順の降伏はツァーリズムの降伏の序幕である」
 「戦争が継続すれば、それだけロシアの人民の中での動揺と憤激は限りなく拡大し、専制に対する人民の戦争、自由のためのプロレタリアートの戦争の時期は近づいてくる。ヨーロッパの最も冷静なブルジョアジーさえもがひどく狼狽しているのも、彼らはヨーロッパ革命の序幕としてのロシア革命を火よりも恐れているからである」
 レーニンはこのように言って、ロシアの軍事的敗北がもたらした政府の危機を、社会主義のための闘争の「大きな利益」ととらえ、革命に向かって闘うことを呼びかけたのである。
 実際、この直後にペテルブルグで「血の日曜日事件」(注)が起き、多くの労働者が殺された。これで民衆が皇帝にもっていた素朴な「信頼」は吹っ飛び、大虐殺への怒りをばねにプロレタリアートと農民、兵士がロシア各地でツァーリ(ロシア皇帝)打倒へ立ち上がった。(1905年の革命)。
▼血の日曜日事件 日露戦争のさなか、1905年1月22日(旧暦9日)日曜日、ペテルブルグの労働者と家族20万人が戦争中止、憲法制定などを皇帝に請願するために行っていた平和的なデモに軍隊が発砲し、多数の参加者が殺された事件。
 レーニンが第1次大戦時に第2インターナショナルの諸党の腐敗と非妥協的に闘った根拠には、この日露戦争と1905年革命の経験と総括がある。

マルクス主義と「革命の現実性」への確信

 少し話はそれるが、レーニンはマルクスのマルクス主義に極端なくらい忠実なマルクス主義者であった。第1次大戦の前年1913年3月にも「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」という入門的な論説を書いている。そこでこう言っている。
 「官学と自由主義的な科学は、すべて賃金奴隷制度を擁護しているが、マルクス主義は、この奴隷制度にたいして容赦ない戦いを宣言した」
 「マルクスの学説は、正しいので全能である。それは、完全で、整然としていて、どんな迷信、どんな反動ともあいいれず、ブルジョア的圧制を擁護することとはおよそあいいれない全一的な世界観を人々にあたえる」
 レーニンは、マルクスの『資本論』を基礎にして、それをさらに発展させて『帝国主義論』を著した。〈資本主義の最高の(=最後の)発展段階である帝国主義の時代は同時にプロレタリア世界革命の時代であること、そしてプロレタリアートは革命的階級であり革命に勝利する力を持っていること〉――こうしたことへの確信・信頼が、レーニン・ボルシェビキの思想と行動のすべてを貫いている。
 レーニンはこの立場から、各国の社会主義諸党が「バーゼル宣言」を裏切ってブルジョアジーの戦争に屈服し、その裏切りを合理化して労働者を戦争に引きずり込もうとしていることに対して積極的に闘ったのである。
 レーニンは14年秋から15年にかけて、「戦争とロシア社会民主党」「社会主義と戦争」「帝国主義戦争における自国政府の敗北について」「第2インターナショナルの崩壊」などの論文を次々と著し、全ヨーロッパの労働者階級に闘いを呼びかけた。さらに『帝国主義論』を執筆し、戦争の階級的基礎を暴き、「帝国主義は死滅しつつある資本主義であり、社会主義革命の前夜である」という革命的な時代認識を打ち出した。この時代認識・路線、「革命の現実性」の思想で労働者階級の階級形成を進めた。この過程をともに闘い抜いた労働者党員が、ロシア革命の中核部隊となった。

流刑攻撃にも屈せず闘ったボルシェビキ

 ボルシェビキの労働者はどのように闘ったか?
 党のペテルブルグ委員会は、戦争が始まって直ちに反戦闘争のために団結を固めて闘うよう労働者と兵士に呼びかけ、非合法の新聞『プロレタールスキー・ゴーロス(プロレタリアの声)』を発行し続けた。「専制君主制を倒せ!」「社会主義万歳!」「民主的共和制万歳!」というスローガンを掲げて闘った。
 国外で発行されている中央機関紙『ソツィアル・デモクラート』が国内に持ち込まれ、ペトログラード(サンクト・ペテルブルグを14年に改称)で増刷されて地方に発送された。非合法のビラが出され、兵営にもばらまかれた。都市郊外の人目につかない場所で、非合法の労働者集会が繰り返し繰り返し行われた。ペトログラードでは金属労働者の大ストラキが闘われ、この場でも党は労働者向けのアピールを発行した。
 レーニンはこう言う。
 「ツァーリ政府の弾圧が10倍も強化されたにもかかわらず、ロシアの社会民主主義的労働者は、すでに最初の非合法の反戦アピールを発行して、民主主義とインターナショナルに対する義務を果たしつつある」(「戦争とロシア社会民主党」)
 「戦争の開始とともに、ツァーリ政府はわが非合法のロシア社会民主党の党員である先進的な労働者の何千何万人を逮捕し、流刑に処した。この事情は、国内での戒厳令の施行、われわれの新聞の発禁その他とあいまって、運動を阻んだ。しかし、それにもかかわらずわが党の非合法の革命的活動は続いている」
(「社会主義と戦争」)

労働者国会議員団の闘い

 また、ムラーノフを始めとするボルシェビキの5人の労働者国会議員団は次のように闘った。
 「議員団は、労働者階級の真ん中に出かけていって戦争反対の抗議を行い、帝国主義反対の宣伝をロシアの広範なプロレタリア大衆の中へ持ち込んだ。
 そして、この議員団は、労働者の側から非常に同情的な反響を受けた。――これは、政府を脅かしもしたし、政府をして、自身の法律に明らかに違反して、われわれの同志たちを逮捕し、シベリアへの終身流刑に処するよう余儀なくさせもした」(「社会主義と戦争」)
 この5人の国会議員団は11月に逮捕され、「国家反逆罪」でシベリアへの流刑・追放を宣告された。起訴容疑の根拠になったのは、彼らが所持していたテーゼ「ヨーロッパ戦争における革命的社会民主主義派の任務」と、党中央委員会の宣言「戦争とロシア社会民主党」であった。
 ツァーリ政府は逮捕時の声明で、「彼らは戦争反対の扇動や、非合法の檄文や、口頭の宣伝によって、ロシアの軍事力をぐらつかせることを自己の活動の目的にしていた」と打撃感をあらわにした。
 レーニンは「ロシア社会民主党労働者議員団の裁判は何を証明したか?」で、その闘いを次のように伝えている。
 「法廷は、わが党がプロレタリアートの大衆のあいだで行っている戦争反対の広範な非合法的扇動についての感動的な絵図をくりひろげて見せた。......ハリコフ県の労働者クーリア(選挙区)選出の議員、同志ムラーノフは法廷で次のように陳述した。
 『私が人民によって国会に送り込まれたのは、国会の安楽いすに腰をかけるためではないと考えて、私は、労働者階級の気分を知るために地方を旅行した』
 ムラーノフは、わが党の非合法扇動家の役割を引き受け、ウラルではヴェルフネイセット工場その他の場所で労働者委員会を組織したことを法廷で証言した。
 法廷は、ロシア社会民主党労働者議員団のメンバーが、戦争が始まって以来、宣伝の目的でほとんど全ロシアを歴訪したこと......多くの労働者集会を組織し、その席上で戦争反対の決議が採択されたことなどを示した」
 「『プラウダ』系(注)の新聞と『ムラーノフ型』の活動とは、ロシアの自覚した労働者の5分の4の統一をつくり出した。約4万の労働者が『プラウダ』を買い、それ以上多くの労働者が『プラウダ』を読んだ。戦争、牢獄、シベリア(流刑地)、懲役が彼らを5倍も10倍もたたくがよい。それでもこの層をなくすことはできない。この層は生きている。この層は革命的精神と反排外主義に満ち満ちている」
▼プラウダ ボルシェビキの合法的日刊新聞。プラハ協議会後の1912年4月創刊。創刊以来たえず警察から追及され、前後8回発禁処分を受けたが、そのつど新しい名称で復刊された。

階級の廃絶=社会主義こそ戦争をなくす道

 戦争から1年、レーニンはこの間の文書をまとめて、『社会主義と戦争』という小冊子を発刊した。いくつも重要なことが書かれているが、ここでは以下のことを紹介したい。
 「戦争に対するわれわれの態度は、ブルジョア平和主義者(平和の支持者と説教者)や無政府主義者の態度とは原則的に違っている。われわれとブルジョア平和主義者との違いは、われわれが戦争と国の内部の階級闘争との不可避的なつながりを理解していることであり、階級を絶滅し社会主義を建設しなければ戦争をなくせないことを理解していることであり、また内戦すなわち抑圧階級に対する被抑圧階級の戦争、奴隷主に対する奴隷の戦争、地主に対する農奴的農民の戦争、ブルジョアジーに対する賃金労働者の戦争の正当性、進歩性、必然性を完全に認めていることである」
 「資本主義が生産力を大いに発展させたため、今や人類は、社会主義へ移行するか、それとも植民地によって、独占によって、特権によって、あらゆる種類の民族的抑圧によって資本主義を人為的に存続させるための『大』国間の武力闘争を何年間も、それどころか数十年間も経験するか、その選択に迫られている」
 このレーニンの訴えは、今も新鮮さを失っていない。世界の帝国主義支配階級(資本家階級)と労働者階級の対決構造は変わっていないからである。資本主義はロシア革命によって、どん詰まりのところまで追い詰められたが、レーニン死後、スターリン主義の決定的な裏切りによって世界の労働者階級の革命に向かう闘いは圧殺され、帝国主義はさまざまな延命策を講じて、人為的に約1世紀のあいだ、生き延びてきた。しかし、いまやスターリン主義はその心臓部において基本的に打倒され、帝国主義も完全に生命力が尽きている。今こそ、レーニンとロシア労働者階級の闘いを引き継ぎ、世界革命の勝利に向かって飛躍するときである。

ボルシェビキの闘いを今に引き継いで闘おう

 1月の反革命武装組織「イスラム国」による日本人人質事件をめぐって、国会では2月に「テロ非難決議」が満場一致であげられた。人質の殺害に対する安倍の責任を免罪し、帝国主義=「有志連合」のイラク・シリア侵略戦争を擁護する超反動的な決議である。日共スターリン主義は自民党と一緒になって、率先してこれに大賛成した。衆参両院で、誰ひとり決議に反対する議員がいなかった。完全に戦争翼賛状況である。
 このような情勢の中で、国会でも地方議会でも、反動的決議に真っ向から反対し、日帝の中東侵略戦争参戦に体を張って対決する議員が一人でも立ち上がれば、それは労働者階級の闘いに衝撃的なインパクトを与え、階級的労働運動の前進の大きな力となるだろう。4月杉並区議選挙に勝利することは決定的に重要である。ボルシェビキの労働者と議員団の闘いに続こう。
(以上、第2章)